冬は、いつも思い出を連れてくる。

葵-aoi-

冬は、いつも思い出を連れてくる。

冬は、いつも思い出を連れてくる。


彼はそれを、もう何年も前から分かっていた。

だから毎年、12月が近づくと、少しずつ呼吸が浅くなる。

街が白くなり、空気が冷たくなるほど、頭の奥で何かがざわつき始める。


その日も、朝から調子が悪かった。


目は冷めているのに、体が起き上がる理由を見つけられない。

布団の中で天井を見つめながら、時計の針が進む音だけを聞いていた。


私は、彼を起こさなかった。

無理に声をかけないのが、2人の間ではいつの間にか決まりごとになっていた。


「買い物行ってくるね」


それだけ言って、私は玄関を出た。

彼が返事をしたかどうか、覚えていない。


外に出ると、空気が思ったより冷たかった。

マフラーに顔を埋めながら、私は小さく息を吐く。


彼の調子が悪い日は、だいたい分かる。

言葉が少なくて、目を合わせない。

それでも、私の前では無理に笑おうとする。


それが、いちばんつらい。


スーパーまでの道は、いつもと変わらない。

夕飯のことを考えながら、私は足元の影をぼんやりと見ていた。


今日は鍋にしよう。

体も温まるし、作るのも楽だ。


彼は、私の作る鍋が好きだ。

理由は聞いたことがないけど、何度もおかわりをする。


買い物かごを持ちながら、私はふと、高校の頃のことを思い出す。


体験入学の日。

知らない校舎で、知らない人ばかりの中、彼は1人で、少し困った顔をして立っていた。


特別な印象があったわけじゃない。

ただ、目が合って、少し話した。

それだけだった。


入学してから、また会った。

同じクラスで、席も近くて、話すようになって、いつの間にか、隣にいるのが当たり前になった。


私が告白したとき、彼は驚いた顔をしていた。

その顔が、今でも忘れられない。


私は、自分が強いと思っていた。

バレー部のエースで体力もあって、背も彼より少し高くて。

だから、彼を守れると思っていた。


守れていなかった。


それに気づいたのは、彼がいじめを受け始めてから、ずいぶん後だった。


買い物を終えて、袋を提げる。

空は、もう夕方の色に変わっていた。


早く帰ろう。

1人でいる時間が、長くならないように。


鍵を出しながら、私は彼の顔を思い浮かべる。

ちゃんと起きているだろうか。

少しは、楽になっているだろうか。


玄関の前で、ほんの一瞬だけ、胸がざわついた。

理由は分からない。


気のせいだ、と自分に言い聞かせて、鍵を回す。


扉が開く。


――その瞬間、家の中が妙に静かだと気づいた。


テレビの音もしない。

彼の足音も、気配もない。


「ただいま」


返事はなかった。


靴を脱いで、廊下を進む。

台所の方から、わずかに光が漏れている。


私は、そこで足を止めた。


リビングへ続く扉の向こう、すぐのキッチンに、彼が立っていた。

包丁を握って、刃先を自分に向けたまま。


声が、出なかった。

叫びも、名前も、何一つ。

頭の中で何かが音を立てて崩れていくのに、体はそれを理解するより先に、動きを止めていた。


ああ、だめだったんだ、と思った。


私には、彼を救えなかった。

無理だったんだ。

ずっと一緒にいたのに。

隣にいるつもりで、結局、何もできていなかった。


もう手遅れで、取り返しがつかなくて。

その事実だけが、静かに胸に落ちてくる。

不思議と、感情はなかった。

悲しみも恐怖も、少し遅れているみたいで、私はただ、そこに立っていた。


手から力が抜ける。

買い物袋が指の間をすり抜けて、床に落ちた。


ドサッ、という鈍い音。


その音で、彼がこちらを見た。


目が合う。


彼も、私も、動けなかった。


ほんの一瞬だったはずなのに、その時間は、永遠みたいに伸びていた。


私は、口を開いた。


「……ごめんね」


引き留める言葉じゃなかった。

お願いでも、命令でもなかった。


「私、何もできなくて……」


声が震えて、言葉が崩れる。


「気づいてたのに、ちゃんと向き合わなくて……」

「一人にして……強いふりさせて……」


言葉が、ほどけていく。

謝罪みたいで、贖罪みたいで、今さら過ぎる言葉ばかりだった。

ただ、今まで言えなかったことが、涙と一緒に溢れてきただけだった。


彼の目から、涙が落ちた。


それを見た瞬間、胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「……まだ、涙が出るんだね」


私は、そう言っていた。


「泣けるようになったんだね」


生きてて、くれるんだね。

その言葉は、声にならなかった。


私は、一歩、前に出た。

彼は、何も言わない。ただ、肩が小さく震えている。


また一歩。

そのたびに、彼の呼吸が乱れていく。


2人とも、泣いていた。


彼の肩が、大きく揺れた。

次の瞬間、彼の体から、すっと力が抜ける。


崩れるみたいに、ぺたんと床に座り込んだ。


安心なのか、恐怖なのか、諦めなのか、罪悪感なのか。


分からない。

ただ、今は。


私が手を広げて、涙でぐちゃぐちゃになりながら、それでも近づいていることに、彼は縋るように身を預けようとしていた。


その瞬間、彼の手から力が抜けた。


金属が床に当たる音。

跳ねる感触。

嫌な予感が、遅れて追いつく。


包丁は、彼の右太ももに、深く刺さっていた。


一瞬、静寂が落ちる。


赤い色が、じわりと広がる。


彼は、声を出さなかった。

驚きなのか、諦めなのか、表情が、うまく動いていない。


「……大丈夫、大丈夫」


私は、自分に言い聞かせるみたいに言って、スマホを取り出した。

番号を押しながら、彼の名前を呼ぶ。


救急車を呼ぶ。

住所を告げる。

声は、意外なほど落ち着いていた。


彼のそばに寄る。

背中に、そっと触れた。


その瞬間、彼は、初めて声を上げて泣いた。


嗚咽まじりで、子どもみたいに。


痛みなのか、安堵なのか、それとも、ようやく終わった何かなのか。

私には、分からなかった。


ただ、彼は生きていて、泣いていて、私の手の届くところにいた。


彼は、まだ、ここにいた。




冬の夕方は、相変わらず足が冷える。


彼の左手が杖をつく音が、一定のリズムで聞こえる。

右足はやっぱり少し遅れる。

それでも、もう見慣れた歩き方だった。


「寒いね」


私が言うと、白い息が空に溶けた。


「冬だしな」


彼は短く答えて、歩く速度をほんの少し落とす。

私はそれに合わせて、何も考えずに隣へ並ぶ。


あれから、一年が経った。

包丁の落ちる音も、救急車のサイレンも、今では思い出の中で、少し輪郭がぼやけている。


それでも、消えたわけじゃない。


寒い日は、足が重くなる。

人混みでは、歩幅が乱れる。

夜になると、言葉が少なくなることもある。


私は、それを知っている。

知っていて、隣にいる。


「今日はどう?」


「悪くはない」


「……そっか」


それ以上は、聞かない。


無理している日と、そうじゃない日は、もう言葉がなくても分かるようになった。


街灯が一つ、また一つと灯る。

家までは、もう少し。


彼が、杖をつく音を一拍遅らせて、右手を、そっとこちらに伸ばしてきた。


私は、少しだけ迷ってから、その手を取る。

指を絡めると、彼の手は、思ったより温かい。


「ねえ」


彼が言う。


「来年の冬も、こうして歩いてたいな」


私は、立ち止まらずに答えた。


「うん」


「再来年も」


「うん」


「……その先も」


私は、彼の手を少し強く握る。


「当たり前でしょ」


彼は、困ったみたいに笑った。


完璧な未来なんて、たぶんない。

彼の足も、私たちの毎日も。


それでも。


彼は歩いている。

私の隣で。


私も、歩いている。

彼と一緒に。


今は、それでいい。

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冬は、いつも思い出を連れてくる。 葵-aoi- @yoru_to_aoi

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