立っている場所
星乃想來
いつか出られる
【4月17日】
今日も日記を書く。
ここに来てから、書くことが習慣になった。
最初は面倒だと思っていたけれど、今は、書かないと落ち着かない。
朝はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から光が入っていて、思ったより天気がいいことに気づいた。
外の空気は吸えないけれど、明るいだけで少し気分が違う。
朝食は全部食べられた。味も分かるし、無理に口に運んだ感じもしない。
先生は「順調ですね」と言っていた。
その言葉を、悪くないと思った。
ここでの生活は静かだ。
決まった時間に起きて、決まった時間に食事をして、決まった時間に休む。
前の生活より、ずっと整っている。
不安がないわけじゃない。
でも、不安ばかりでもない。
考えすぎないほうがいいと、
自分でも思う。
焦る必要はない。
今は、ここにいればいい。
そう言われたし、
それで納得できている。
たぶん、
いつかは出られると思う。
今日は、そんな一日だった。
【4月18日】
昨日と同じ時間に起きた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めたのは、
少しだけ得した気分がする。
窓の外は今日も明るい。
雲は多かったけれど、暗い感じはしなかった。
こういう日は、何もしなくても疲れにくい気がする。
朝食は少し時間がかかったけれど、残さず食べられた。
途中で箸を止めようか迷ったが、止める理由もなかったので続けた。
食べ終わったあと、特に何も感じなかった。
それが悪くない。
廊下ですれ違った人に、軽く会釈をした。
相手も同じように会釈を返してくれた。
名前は知らないけれど、ここではそれで十分だと思う。
今日は面談はなかった。
その代わり、自由な時間が少し長かった。
本を読もうと思ったが、ページをめくる気にならず、
しばらく何もせずに座っていた。
何もしていない時間が、前より気にならなくなっている。
前は、何かしていないと不安だった。
今は、しなくてもいい気がする。
ここに来てから、無理をしなくてよくなった。
それは、いい変化だと思う。
今日も、特に問題はなかった。
たぶん、この調子でいけば大丈夫だ。
【4月19日】
今日は、面会があった。
前もって聞かされていたわけじゃなかったので、
少しだけ驚いた。
部屋に呼ばれて、椅子に座って待つように言われた。
しばらくして、知らない人が入ってきた。
年は、たぶん自分より上だと思う。
顔を見たとき、どこかで会ったことがあるような気もしたし、
まったく知らない人のような気もした。
向こうは、私の名前を呼んだ。
その呼び方が、ここで呼ばれるものと少し違っていた。
誰なのか、聞こうか迷ったけれど、
聞かなくてもいい気がした。
分からないままでも、問題はなさそうだった。
天気の話をした。ここでの生活のことも、少しだけ話した。
「落ち着いているよ」と言うと、相手は安心したように笑った。
その笑顔を見て、なぜか、少しだけ楽しいと思った。
施設の人と話すのも悪くないけれど、
この人との会話は、少し違う感じがした。
言葉を選ばなくてもいいような、選んでいるような、不思議な感じだった。
名前を思い出せないことは、言わなかった。
言わなくても、会話は続いた。
帰り際、また来ると言われた。
その言葉に、うなずいた。
誰だったのかは、結局、分からないままだった。
でも、分からなくてもいいと思えた。
今日は、少しだけ外の空気に触れた気がする。
悪くない一日だった。
【4月21日】
昨日は日記を書かなかった。
書かなかった理由は、特にない。
夜になってから、少しだけ眠くなるのが早かった。
それだけのことだと思う。
今日は、起きた時間を確認しなかった。
時計を見る前に、もう起きてしまっていた気がする。
問題はなさそうだったので、そのままにした。
朝食は、少し残した。
残したけれど、無理に食べなくてもいいと言われた。
「無理しないでくださいね」
と言われて、それで納得した。
無理をしない、という言葉が、最近よく出てくる。
廊下ですれ違う人たちは、いつも同じ顔をしている気がする。
実際には違うはずだけど、違わなくても困らない。
今日は、面談があったかどうか、よく覚えていない。
話をしたような気もするし、していないような気もする。
内容を思い出そうとして、途中でやめた。
思い出せないことは、思い出さなくていい。
ここにいる理由について、少し考えた。
考えたけれど、前と同じ答えしか出てこなかった。
今はここにいればいい。それで十分だ。
夕方、窓の外を見た。
明るさは、昨日と同じだったと思う。
今日も、特に問題はなかった。
そう書いておく。
【4月22日】
今日は、朝か昼か、
どちらだったか少し迷った。
起きたあと、カーテンを開けた気がする。
開けたかどうかは、正直あまり覚えていない。
部屋は明るかったから、たぶん開けた。
食事の時間に呼ばれて、席に着いた。
何を食べたかは、思い出せるほど印象に残っていない。
全部食べたかどうかも、よく分からない。
でも、注意されなかった。
それなら、問題はなかったはずだ。
今日は、廊下を歩く時間が少し長かった。
どこへ向かっていたのかは、途中で分からなくなった。
でも、立ち止まっていると声をかけられたので、そのままついて行った。
ついて行くのは、楽だ。
自分で決めなくていい。
決めなくていいなら、間違えなくていい。
部屋に戻ってから、しばらく座っていた。
何をしていたかは、思い出せない。
思い出せなくても、困らなかった。
考えたけれど、考えなくてもいい気がした。
今日も、特に問題はなかった。そう書いておく。
【4月24日】
日記を書く時間になったので、
書いている。
昨日のことは、あまり覚えていない。
覚えていないことに、前ほど不安は感じない。
今日は、体が少し重かった。熱があるわけでも、痛みがあるわけでもない。
ただ、起き上がるのに時間がかかった。
食事のとき、少しだけ残した。残した理由は、途中で箸が止まったからだ。
それ以上の理由はない。聞かれなかったので、説明もしなかった。
最近、説明することが減っている。
説明しなくても、困ることはあまりない。
部屋に戻ってから、横になっていた。眠っていたのか、起きていた、境目が分からない時間があった。
夢を見た気がする。内容は思い出せない。
思い出せないほうが、楽な気がした。
前は、一日が長く感じることがあった。
今は、気づくと夕方になっている。
早いとも、遅いとも思わない。そういう感覚自体が、あまり湧いてこない。
ここに来てから、何かが良くなったのか、
悪くなったのか、よく分からない。
分からないけれど、それでもいい。
今日は、少し疲れた。
無理はしないほうがいい。
そう思う。
【4月25日】
今日は、少し長い話をされた。
部屋に呼ばれて、椅子に座った。
前にも座ったことのある椅子だったと思う。
座り心地は、特に変わらなかった。
施設の人が、落ち着いた声で話し始めた。内容は、途中まではよく分からなかった。
この前、面会に来た人の話だった。
親族だと、言われた気がする。
事故に遭って、
亡くなったらしい。
その話を聞いても、
体は特に反応しなかった。
正直に言うと、
顔も、
名前も、
思い出せなかった。
知らない人の話を
聞いているような感じだった。
でも、
話が終わって部屋に戻ったあと、
急に何もしたくなくなった。
理由は分からない。
思い出がないのに、
何かがごっそり抜け落ちたような感じがした。
胸の奥が、
広くて、
何もない。
悲しい、
という言葉が合っているのかも分からない。
ただ、
すごく遠くまで見渡せる場所に
一人で立っている気がした。
ここに来てから、
初めての感覚だった。
泣かなかった。
泣く理由を、
説明できなかったから。
施設の人は、
「無理をしなくていい」と言った。
その言葉に、
うなずいた。
今日は、何もしていない。
日記を書くのも、少し迷った。
でも、書いたほうがいい気がした。
今日は、とても静かな一日だった。
【5月2日】
しばらく、
日記を書いていなかった。
書こうと思えば、
書けたと思う。
でも、書かなくても問題はなかった。
今日は、日付を確認してから書いている。
確認したほうがいい気がしたからだ。
理由は、
特にない。
あの話を聞いてから、
時間の流れ方が少し変わった。
早いとも、遅いとも言えない。
ただ、続いている。
食事は、決まった時間に出てくる。
全部食べる日もあるし、残す日もある。
どちらでも、何も言われない。
何も言われないのは、楽だ。
最近、同じことを考える時間が増えた。
考えるというより、
同じところをなぞっている感じに近い。
ここにいる理由。
今は、ここにいればいいということ。
無理をしなくていいということ。
それは、前から分かっていたはずなのに、
何度も頭の中で確認してしまう。
確認すると、
少し落ち着く。
落ち着くなら、
間違っていない。
廊下ですれ違う人の顔が、前よりも覚えにくくなった。
覚えなくても、困らない。
覚えなくてもいいことが、
増えている気がする。
夜になると、部屋が静かだ。
静かすぎて、音がないのが目立つ。
でも、静かなほうがいい。
考えなくていいから。
考えなくていいのは、
楽だ。
今日は、少しだけ疲れた。
明日も、ここにいればいい。
そう思っている。
【5月7日】
今日は、検査があった。
前に受けたことのある検査だと説明された。
説明されたけれど、
どんなものだったかは思い出せなかった。
機械の音は、
少し大きかった。
でも、怖いとは思わなかった。
終わるまで、
じっとしていればいいだけだった。
終わったあと、
別の部屋に呼ばれた。
施設の人が、
いつもより少しだけ言葉を選んでいる感じがした。
状態が、あまり良くないらしい。
前より、悪化していると言われた。
数字の話をされたが、
よく分からなかった。
分からないまま、
うなずいた。
「今後のことを考えましょう」と言われた。
今後
という言葉が、
少しだけ引っかかった。
ここに来てから、
今後のことはあまり考えなくてよかった。
それが、急に戻ってきた感じがした。
終わり、
という言葉は出なかった。
でも、出ていないのに、
そこにあった。
部屋に戻ってから、
しばらく座っていた。
何をしていたわけでもない。
ただ、座っていた。
終わりがある、ということだけが、
頭の中をゆっくり回っていた。
まだ大丈夫だと思う。
そう思いたい。
ここにいれば、大丈夫なはずだ。
そう考えると、
少し落ち着いた。
今日は、それでいい。
【5月10日】
日記を書く時間になった。
今日は、
書くことがあるかどうか、
少し迷った。
でも、
書いていればいい気がした。
検査のことは、
あまり考えないようにしている。
考えても、
今すぐ何かが変わるわけじゃない。
変わらないなら、
考えなくていい。
食事は、
今日も決まった時間に出てきた。
全部食べた。
食べたと思う。
途中のことは、
あまり覚えていない。
問題はなかった。
部屋に戻って、
椅子に座った。
しばらく、
何もしていなかった。
何もしていない時間は、
前より長くなっている。
長くなっているけれど、
それで困ることはない。
困らないなら、
大丈夫だ。
大丈夫なら、
ここにいればいい。
ここにいれば、
考えなくていい。
考えなくていいなら、
楽だ。
楽なら、
間違っていない。
書いている。
書いていればいい。
書いていれば、
考えなくていい。
考えなくていい。
考えなくていい。
ここにいればいい。
ここにいればいい。
大丈夫だ。
大丈夫だ。
いつか出られる。
いつか出られる。
いつか出られる。
いつか出られる。
いつか出られる。
出られる。
出られる。
大丈夫だ。
大丈夫だ。
大丈夫だ。
書く。
書く。
書く。
いつか出られる。
いつか出られる。
いつか出られ........
......
次の更新予定
2026年1月16日 19:00
立っている場所 星乃想來 @SolaHoshino
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