第三章:影の叛逆(はんぎゃく)

文禄元年(1592年)四月十三日 深夜 釜山鎮城・日本軍臨時駐屯地


釜山の夜は、黒ではない。 空を長時間凝視していると、そこにある色が、深く鬱血したような暗紫色(あんししょく)であることに気づく。星明かりも月光もなく、ただ汚水をたっぷりと吸った雑巾のような雲が、頭上を重く圧迫していた。


津田幸之助は篝火(かがりび)のそばに座り、筆を空中で止めたまま、どうしても紙に下ろすことができなかった。 随軍祐筆(ゆうひつ)としての務めは、本日の軍状を記録することにある。だが彼は、今のこの感覚を言語化する術を持たなかった。


駐屯地は城内の広場に設営されていた。どこからともなく漂う陰湿な冷気と、あの鼻につく甘ったるい死臭を払いのけるため、兵士たちは大量の薪を燃やしていた。 パチパチと爆ぜる音は、本来なら安らぎをもたらすはずだ。だが幸之助の耳には、それが乾燥した人骨を奥歯で咀嚼する音のように聞こえてならなかった。


「津田、まだ書いているのか」


対面に座る加藤平八が、水筒を差し出した。平八は重い具足を外し、汗で濡れた単衣(ひとえ)一枚になっている。その顔色は火光の下でも蝋のように黄色く、眼窩は落ち窪み、数日間一睡もしていない者の相を呈していた。


「書けんよ」幸之助は帳面を閉じ、水筒を受け取って一口飲んだ。日本から運んできた真水だが、なぜか錆びた鉄の味がした。「皆の……様子はどうだ?」


平八は溜息をつき、木の枝で火を突っついた。「おかしい」 「何がだ?」 「静かすぎる」平八は声を潜め、油断なく周囲の闇を睨み回した。「皆、喋っているし、飯も食っている。武器の手入れもしている。だが……音が届いてこない気がするんだ」


幸之助にはその意味がわかった。 ここには一万人以上の人間がいる。通常なら、呼吸音、話し声、金属の擦れる音が混ざり合い、巨大な唸りとなって響くはずだ。 だがここでは、音が例の重たい紫の霧に「吸音」されているかのようだった。兵士同士が向かい合って話していても、三歩も離れれば声は輪郭を失い、水底での会話のようにくぐもって聞こえる。


「それに……」平八は躊躇いがちに手を伸ばし、火に当てた。「ここでは時間の流れが、日本より遅い気がする」 「時間?」 「この火を見てみろ」平八は目の前で踊る炎を指差した。「じっと見るんだ」


幸之助はオレンジ色の炎を凝視した。 最初は何も感じなかった。だが次第に、軽い船酔いのような目眩(めまい)を覚えた。 炎の揺らぎが……ほんの僅かだが、遅れている?


薪が爆ぜる音。「パチッ」 そのコンマ五秒後。 火の粉が薪から弾け飛んだ。


音が、映像より先にくる。


「私にも感じられる」幸之助は胃袋が痙攣するのを感じた。「疲れが溜まっているせいで、五感がズレているのかもしれん」 「だといいがな」平八は力なく笑い、背中の痒みを掻こうと腕を上げた。


その瞬間、幸之助は生涯忘れ得ぬ光景を目撃した。


平八の腕は上がり、背中へと回された。 だが、背後の壁に投射された平八の「影」は、動かなかった。 黒い影法師は、両手を膝に置いたまま、微動だにせず焚き火に当たっている姿勢を保っていたのだ。


時間が凍りついた。 幸之助は呼吸を忘れ、その壁を凝視した。 一秒。二秒。 平八が背中を掻き終わり、腕を下ろそうとした瞬間。 壁の影が唐突に痙攣し、早回しの映像のように不自然な速度で「背中を掻く」動作を完了させた。 まるで、操作を忘れていた三流の影絵師が、慌てて帳尻を合わせたかのような動き。


「つ……津田? なぜそんな顔をする?」背後の異変に気づかない平八が、怪訝そうに幸之助を見る。 「へ、平八……もう一度、手を動かしてくれ」 「あ? 何を」 「いいから! 手を振ってみろ!」幸之助の声は裏返り、悲鳴に近かった。


平八は驚き、無意識に右手を振った。 幸之助は平八を見ず、壁を睨みつけていた。


動かない。 平八の手は既に振られ、太腿の上に戻っている。 壁の影は、静止したままだ。黒い輪郭は死んだように冷たく、斑(まだら)な壁面に焼き付いている。


そして、影が動いた。 だが、手は振らなかった。 影の頭部が、ゆっくりと、ゆっくりと回転し、横顔(プロフィール)から正面へと向き直ったのだ。 のっぺりとした平面の黒いシルエット。目も口もない。 だが幸之助には確信できた。その影が、笑っていると。 別次元からこちらを覗き込む、悪意と嘲笑に満ちた笑み。


影はそれから、ゆっくりと黒い腕を持ち上げ、「手を振る」動作をした。だがその動きはカクカクと歪み、関節の曲がる角度は明らかに人間の骨格を無視していた。


「見たか?」幸之助は震える指で壁を指した。 平八が振り返る。「何をだ? ただの壁じゃないか」 平八が振り返った瞬間、影は瞬時に正常に戻り、振り返る平八の横顔となっていた。寸分の狂いもなく、何の遅延もなく。


「影が……お前の影が……」 「疲れすぎだ、津田」平八は幸之助の肩を叩いた。その掌は重く、冷たい。「早く寝ろ。明日も行軍だ。こんな化け物屋敷みたいな場所で疑心暗鬼になったら、発狂するぞ」


平八は立ち上がり、テントへと向かった。 幸之助はその背中を見た。 今度は、はっきりと見えた。 平八は前を歩いている。足取りは重い。 だが彼の影は、まるで何かの粘着液で地面に貼り付けられたかのように、死に物狂いで後ろに引っ張られていた。影は歩幅を合わせず、黒い長蛇のように地面を「ズルズル」と引きずられている。 これは物理学的な投影ではない。 何かが足元に取り憑き、肉体から魂を引き剥がそうとしているのだ。


幸之助は眠れなかった。 彼は膝を抱えて火のそばに座り続け、最後の薪が灰になるのを見届けた。 駐屯地は闇に沈み、遠くの巡回用の提灯だけが、病的な白い光を放っている。 あの甘ったるい香りが強くなった。海風の塩気さえも塗りつぶすほどだ。舌の上にその味が張り付き、甘すぎて苦味さえ感じる。


不意に、風に乗って話し声が聞こえた。 日本語だ。それも極めて流暢な、京言葉のイントネーション。


「……ほんまですか? そらえらい忝(かたじけ)のうございますなぁ」 「いやいや、遠慮はいりませぬぞ」 「酒? おお、こら上等な清酒やないか」


誰かが酒を飲んでいる? 雑談をしている? この全軍厳戒態勢の、墳墓のように静まり返った空城で? 幸之助は腰の短刀を握りしめた――文官に許された唯一の自衛手段だ。彼は身を屈め、声のする方へと闇を辿った。


声は狭い路地の入り口から聞こえていた。 城内の居住区へ続く道だ。両側の商店は雨戸を閉ざしている(昼間は開いていたかもしれないが、今は立ち並ぶ棺桶のように見える)。 幸之助は柱の陰に隠れ、顔を覗かせた。


四人の足軽が巡回していた。 彼らは軽装の鎧を着け、槍を持ち、十字路の中央で背中合わせに立っていた。 だが、その様子は異様だった。 警戒しているのではない。休息しているわけでもない。 彼らは絶えずお辞儀をし、頷き、杯を掲げ(手には何もないのに)、顔には媚びへつらうような、至福の笑みを貼り付けていた。 まるで……盛大な宴会に参加しているかのように。 彼らの視線の先にあるのは、虚無の闇だ。あるのは黴びた壁と、飛び交う蚊と、泥だらけの地面だけ。


「田中様、お酌を!」足軽の一人が闇に向かって大声を上げた。声には歓喜が満ちている。「まさか異国の地で、故郷の酒が飲めるとは!」 「そうですなぁ、そうですなぁ」別の足軽が相槌を打ち、箸を使う仕草をして、空気を口に運び、美味そうに咀嚼した。「この造り(刺身)、新鮮や! まだ生きとる!」


幸之助は総毛立った。 何を食っている? 誰と話している?


「おい!」幸之助はたまらず叫んだ。同胞が狂っていく様を黙って見ていられなかった。 四人の足軽の動きが、唐突に止まった。 ゼンマイ仕掛けの人形の動力が切れたような、あまりに不自然な静止。 彼らは酒を酌み交わす姿勢のまま、固まった。


「だれ……?」


リーダー格の足軽が、ゆっくりと振り返った。 微かな月光(あるいは紫の霧が発する蛍光)が、彼の顔を照らし出す。 それは極度に興奮した顔だった。 顔面の筋肉は締まりなく垂れ下がっているのに、口角だけが物理的にありえない角度まで吊り上がっている。 最も恐ろしいのは、目だ。 瞳孔が極限まで散大し、眼球のすべてを黒く染め上げていた。白目は一切ない。その漆黒の淵の中で、何かが蠢いているのが見えた。


「津田様やないですか」足軽の声は、魚の骨が喉に刺さったように甲高く、細かった。「津田様も、宴に参加なされますか?」


幸之助は後ずさった。掌が冷や汗で濡れる。「何を言っている! そこには何もない! 目を覚ませ!」


「何もない?」足軽は首を傾げた。子供のように無垢で、かつ不気味な表情。 彼は傍らの何もない闇を指差した。 「見えまへんのか? ここは松浦様のお屋敷どす。灯りが煌々と点いて、歌や踊りで賑わっとりますがな」 「松浦様だと……あの方は三年前に死んだはずだ!」幸之助は怒鳴った。


「死んだ?」足軽は笑った。枯れ木が擦れ合うような笑い声。「死人なんかおらしまへん。ここには死人はおらんのです。みんなここにおる。ここの家の戸は、全部開いとりますやろ? どの家も、わてらが入ってくるのを待っとるんですわ」


言うが早いか、他の三人の足軽も振り返った。 彼らの顔にも、判で押したような、空虚で幸福な笑みが張り付いている。


「津田様、早うお入りやす」 「外は寒おす。中は暖かや」 「主人は気前がよろしい。一番ええ肉を用意してくれましたで」


彼らは口々に言いながら、幸之助の方へ歩いてきた。 いや、幸之助の方へ「滑って」きた。 幸之助は恐怖に凍りついた。彼らの足は動いていない。膝も曲がらず、太腿も上がらない。誰かに操られる人形のように、直立不動のまま地面を平行移動してくる。


そして、彼らの足元から、影が消えていた。 いや、消えたのではない。 幸之助は目を凝らした。 四人の影は、彼らの踵(かかと)から離れ、逆方向へ伸びていた。 影たちは、あの暗い虚空の奥へと必死に這い進んでいた。四本の黒い触手となって、存在しない「宴会場」の扉を掴もうとしている。 影が、入りたがっているのだ。 呪われた影たちが、生きた人間の肉体を引きずり、強引に「彼岸」へと引きずり込もうとしているのだ。


「来るな!」 幸之助は短刀を抜き、闇雲に振り回した。


「津田様……なんでこないなご厚意を無下にしますのや?」


リーダーの足軽が、音もなく目の前まで滑ってきていた。顔が近い。あの甘ったるい腐臭が鼻を突く。 「見てみなはれ。こないに美味そうな肉ですえ」


足軽は口を開け、口腔を指差した。 幸之助は見た。 口の中に詰め込まれていたのは、刺身でも酒でもなかった。 黒く濡れた、蠢く髪の毛の塊だった。 地下から伸びた死人の髪が、泥と共に、彼の喉と食道をびっしりと埋め尽くしていたのだ。


「うぷッ――」 幸之助は堪えきれず、踵を返して走り出した。 振り返る勇気はなかった。背後から、足音が聞こえる。 ペタ、ペタ、ペタ。 靴音ではない。 裸足で、濡れた肉の上を歩く音だ。


「入らへんのですか?」 「戸は開いとりますえ」 「みんな待っとりますのに」


声が脳内で反響し、増幅し、やがて何千人もの囁き声へと変わっていく。


幸之助は駐屯地へ転がり込んだ。 篝火はまだ燃えている。平八のテントは目の前だ。 彼はテントへ飛び込み、喉から心臓が飛び出しそうなほど喘いだ。 「平八! 平八! 起きろ! 化け物だ!」


テントの中は暗闇だった。 返事はない。 幸之助は震える手で火種を取り出し、息を吹きかけた。 頼りない火が、狭い空間を照らす。 平八は敷物の上で、幸之助に背を向けて寝ていた。


「平八?」幸之助は肩を揺すった。 石のように硬い。 平八は起きない。だが、奇妙な音が聞こえた。


コツ、コツ、コツ。


いびきではない。 誰かが指の関節で、規則正しく、疲れを知らずに木の板を叩く音だ。 音は、平八の体の下から聞こえてくる。 いや、平八自身が指先で、そこにはない「扉」を、延々とノックしているのだ。


「入るぞ……」


平八は夢うつつの中で、抑揚のない声で呟いた。


「影が……もう戸を開けたぞ」


幸之助は絶望的な目で、テントの壁を見た。 火光に照らし出された平八の影は、地面に寝てはいなかった。 その巨大な影法師は、テントの布地の上に直立し、刀を振り上げ、幸之助の首を狙っていた。


現実の平八は、死体のように微動だにせず、呼吸さえ止まっているというのに。


(第三章 完)

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『修羅の海 ——戦なき戦の傷跡——』 迦兰多(Jialanduo) @Alexsayst

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