プロローグ 第七話

四月の生ぬるい風が、窓の隙間から入り込んでくる。

学校の隅にあるこの別室は、いつも時間が止まっているように静かだ。

壁に貼られた予定表も、誰も触らない本棚の図鑑も、全部がわたしを拒絶しているように無機質で、冷たい。

わたしは、配られたプリントに書かれた文字を目で追うふりをしながら、ただ時計の針が進むのを待っていた。

それだけしか、できない。


「亜矢さん。もう二週間、ここで頑張ったものね。……少しずつ、授業に出てみない?」

佐藤先生が、椅子の横にかがみ込んで、わたしの顔を覗き込んできた。

眼鏡の奥にある目は、優しくて、正しくて、だからこそ恐ろしいほどに、わたしの気持ちを置いてけぼりにしていた。

先生の背後には、今日も付き添いで来ていた母が立っている。

二人の大人の影が、わたしの小さな机の上に重なって、真っ黒な染みを作った。

わたしは、心臓が跳ねるのを感じて、鉛筆を握る手に力を込めた。

嫌だ。

その言葉が、喉のすぐ裏側まで押し寄せてくる。

嫌だ。絶対に嫌だ。

あの、酸素が薄い教室に戻るなんて、想像しただけで怖い。震える。動悸がする。

急に教室で今も響いているであろう声が、脳裏に響いた。

普通という光と影の境目。いつもわたしの目の前にあり、決して越えられないその境目を実感するのが怖い。

わたしの様子に気づいているはずなのに、母は助けてくれない。

それどころか、母の顔には、待っていたというような希望が浮かんでいた。

「そうですね。先生、亜矢も、いつまでもここに一人でいるのは寂しいと思っていたところなんです」

母は、わたしの代わりに、わたしの気持ちを勝手に決めてしまう。

寂しくない。

違う。

わたしが感じているのは、寂しさなんていう、そんな綺麗なものではない。

もっと泥のように重たくて、出口のない恐怖なのだ。

わたしの心が、今にも砕けそうになっていることに、どうして気づいてくれないのだろう。わたしは、ずっと言っているのに。

仕事のことや、世間体のことや、近所の人の目。

母の頭の中には、きっとそんなことばかりが詰まっていて、わたしの本当の叫びを聞く余裕なんて、一ミリも残っていないのだ。

わたしを見てくれない母。

けれど、それでも、わたしは母の手を離すことができない。

家で一人にされるのが怖くて、母に嫌われるのが怖くて、期待に応えられない自分に絶望して、結局、わたしは操り人形のように、小さく首を縦に振るしかなかった。

「……はい」

消え入るようなわたしの返事を聞いて、先生は満足そうに立ち上がった。

「そう。頑張るわね、篠崎さん。じゃあ、五時間目の算数の授業、一緒に行きましょう」

先生の手が、わたしの肩に触れる。

その場違いに温かい手が、まるでわたしを捕まえる鎖のように感じられた。

廊下に出ると、自分の足音がひどく大きく響いて、耳を塞ぎたくなった。

一歩進むたびに、全身から嫌な冷や汗が吹き出して、着ている制服がぐっしょりと張り付く。

母は、廊下の端で見送るように立っていた。

「頑張ってね」

その言葉が、今のわたしには呪いのように聞こえた。

階段を上がり、教室が近づくにつれて、クラスメイトの賑やかな声が聞こえてくる。

その声が、わたしを切り刻む刃物のように尖って刺さる。

教室のドアの前に立ったとき、わたしの足はガクガクと震えて、一歩も前に出せなくなった。

先生がドアをひくとガラガラ、という乾いた音が、わたしの世界の終わりを告げる音に聞こえた。

一瞬で、教室の中の空気が変わった。

笑い声が止まり、消しゴムを使う音が消え、数十人の視線が、一斉にわたしに向けられる。

その視線は、好奇心だったり、哀れみだったり、あるいは何とも思っていない無関心だったりしたけれど、どれもが「異質なもの」を観察するような冷たさを孕んでいた。

わたしは、床のタイルの目地をじっと見つめることしかできなかった。

顔を上げたら、みんなの顔が歪んで見える気がした。

心臓が、耳元で太鼓を叩いているようにうるさい。

息が、うまく吸えない。

誰か、助けて。

誰か、助けて。

心の中で願うだけでは、わたしの祈りは、誰にも届かない。



教壇に立った先生が、クラスのみんなに向かって、朗々とした声を張上げる。

「皆さん、静かに。今日から篠崎さんが、少しずつ授業に参加することになりました。……篠崎さんは、今、とても大変な状況です。だから、皆さん、しっかり『配慮』してあげてくださいね。いいですか、腫れ物扱いしてはいけませんよ!」

先生のその言葉を聞いた瞬間、わたしの心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

やめて。

言わないで。

そんなこと、言わないで。

先生は、良かれと思って言っているのだろう。

わたしがクラスに馴染みやすいように、みんなが意地悪しないように、気を利かせたつもりなのだろう。

けれど、その言葉は、何よりも鋭くわたしを傷つけた。

「大変な状況」

「配慮」

「腫れ物扱い」

その一つ一つの言葉が、わたしとみんなの間に、巨大で透明な壁を作ってゆく。

わたしは、みんなと同じ一人の生徒ではなくて、守られなければいけない「壊れ物」で、気を遣わなければいけない「厄介者」なのだと、クラス全員の前で宣告されたのだ。

顔が熱くなって、涙がこみ上げてくる。みんなの視線が、さらに重くなるのを感じる。


「あの子、やっぱりおかしいんだ」

「篠崎さんって病気なのかな」

「亜矢ちゃんかわいそうに」

大声にならない潜めた言葉が、教室中に充満している気がした。

先生が指し示した席は、一番後ろの窓際だった。

そこまで歩く数メートルが、何キロメートルもあるように長く感じられた。

椅子に座っても、背中がずっと熱い。

みんなの視線が、針のように背中に突き刺さっている。

教科書を開こうとしても、指先に力が入らなくて、ページをめくることさえできない。

先生は、黒板に数字を書き始め、何事もなかったかのように授業を進めてゆくけれど、わたしには先生の声も、チョークが立てる音も、何も頭に入ってこなかった。

わたしは、ただ、自分の机の傷をじっと見つめていた。

母は、今頃、校門を出て、安心した顔で歩いているのだろうか。

「亜矢が授業に出られた」という事実だけを抱えて、満足しているのだろうか。

隣にいても、母はわたしの絶望を見ていない。先生も、わたしの心がどれだけ血を流しているか、気づきもしない。

「配慮」という名の隔離。

「優しさ」という名の拒絶。

広い教室の中で、たくさんの人がいるはずなのに、わたしはさっきの別室にいたときよりも、ずっとずっと深い孤独の中にいた。

窓の外では、春の光が校庭を照らしているのに、その光は、わたしの足元まで届く前に、全部、真っ暗な影に飲み込まれて消えていった。

わたしは、震える手でノートの端に、小さな、誰にも見えないような黒い点を描いた。

それが、今のわたしの全部だった。

誰にも気づかれず、誰にも助けられず、ただここに存在しているだけの、意味のない点。

授業が終わるチャイムが鳴るまで、わたしは自分が消えてなくなることだけを、ずっと願っていた。

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隣人‐‐‐わたしを逃がさない部屋‐‐‐ 如月幽吏 @yui903

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