第3話 勇者一行、地獄の入り口へ

その谷は、不気味なほど静まり返っていた。

『嘆きの谷』。

かつて多くの旅人が命を落としたとされるその場所は、切り立った崖が両側に迫り、太陽の光を遮っているため、真昼でも薄暗い。地面には枯れた灌木が点在し、風が吹くたびにヒューヒューと、まるで亡者のすすり泣きのような音が響く。

だが、S級勇者パーティ『天雷の剣』の面々にとって、その不気味さは恐怖の対象ではなかった。むしろ、彼らは遠足に来た子供のようにはしゃいでいた。


「おい見ろよ、この静けさを! 魔物の気配なんてまるでねぇじゃねぇか!」


勇者アレクが、大げさに両手を広げて叫んだ。その声が谷間に反響する。

通常であれば、このような場所で大声を出すのは自殺行為だ。音に敏感な魔物を呼び寄せる危険があるからだ。かつての軍師ジンであれば、即座に「声を潜めろ」と注意しただろう。

だが、そのジンはもういない。


「ええ、本当に。ジンのあの陰気な予言はなんだったのかしら。『一歩踏み出せば死ぬ』だなんて」


魔法使いのミリアが、杖をくるくると回しながら同意する。彼女の表情には、緊張感の欠片もない。


「結局、彼は怖かっただけなのよ。自分の臆病さを正当化するために、ありもしない危機をでっち上げていたのね。本当に迷惑な人」


聖女エリスもまた、足元の悪い岩場をヒールの高いブーツで歩きながら、同意の溜息を吐いた。


「私の聖なる加護があれば、邪悪なものは近寄れませんわ。あの男が近くにいると、私の清らかな祈りが淀んでしまう気がしていましたが……今はとても清々しい気分です」

「違いねぇ! 俺の筋肉もいつもより張ってる気がするぜ!」


重戦士ガントが豪快に笑い、巨大な戦斧を軽々と振り回した。

彼らは完全に慢心していた。これまで数々の修羅場をくぐり抜けてきたという自負。それが、全てジンの緻密なリスク管理の上に成り立っていたものだとは、露ほども思っていない。彼らにとって、勝利は自分たちの才能によるものであり、危機回避は運と実力によるものだった。


「よし、このペースなら夕方には谷を抜けられるぞ! 向こうに着いたら、一番高い宿で祝杯だ!」


アレクが先頭を切って歩き出す。

彼らが踏み入れたのは、谷底の中央を通る平坦な道だった。

一見、歩きやすく、最短ルートに見える。

だが、ジンがいたら決して選ばなかった道だ。そこは、崖の上からの射線が通りやすく、かつ逃げ場のない「キルゾーン(殺害地帯)」だからだ。

ジンが提案した迂回ルートは、険しい山道だったが、敵の奇襲を受けるリスクはゼロに等しかった。しかし、彼らは「楽な道」を選んだ。

その代償が、すぐに支払われることになるとも知らずに。


異変は、唐突に訪れた。


「……ん? なんだ、霧が出てきたか?」


ガントが鼻を鳴らした。

足元から、紫色の薄い霧が漂い始めていた。無臭だが、肌に触れるとピリピリとした不快な刺激がある。

普通なら、ここで警戒レベルを最大に引き上げるべきだ。毒霧か、あるいは幻惑魔法の予兆かもしれない。

だが、彼らにはそれを警告する者がいなかった。


「ただの自然現象でしょう。山の天気は変わりやすいって言うし」


ミリアが軽く杖を振って風を起こし、霧を払おうとする。だが、霧は払われるどころか、生き物のように彼らの足元にまとわりつき、急速に濃くなっていく。


「きゃっ! な、なによこれ、ネバネバして……!」


エリスが悲鳴を上げた。霧が実体化し、粘着質の糸となって彼女の足に絡みついたのだ。

それだけではない。アレク、ガント、ミリア、全員の足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。


「なっ、なんだこれは!? 動けん!」


アレクが剣を抜こうとした、その瞬間だった。

谷の上から、無数の黒い影が降り注いだ。

それは矢ではなかった。

投槍だ。それも、鏃に緑色の液体――猛毒が塗られた、凶悪な暗殺武器。


「うおっ!?」


ガントが咄嗟に斧を盾にして防ぐ。カンカンカンッ! と激しい金属音が響く。

だが、全ての攻撃を防ぎきれるわけではない。


「ぐあっ!」


一本の槍が、ガントの太腿を深々と貫いた。

分厚い筋肉と鎧の隙間を正確に狙った一撃。かつてなら、ジンが「右上方、投擲来るぞ! ガント、三歩下がれ!」と指示を出していたタイミングだ。

その指示がない今、ガントはただの巨大な的でしかなかった。


「ガント! くそっ、敵襲だ! どこだ!?」


アレクが聖剣を抜き放ち、周囲を睨みつける。

だが、敵の姿が見えない。

岩の陰、崖の上、霧の中。気配はあるのに、正体が掴めない。

彼らがこれまで戦ってきたのは、正面から向かってくる魔獣や、堂々と名乗りを上げる魔族ばかりだった。それはジンが、奇襲を受けないルートを選び、敵をあぶり出す策を講じていたからだ。

完全に不利な状況での待ち伏せ戦闘。

それは『天雷の剣』にとって、初めての経験だった。


「ひぃっ! いや、来ないで!」


ミリアが悲鳴を上げて杖を乱射した。

『火炎球(ファイアボール)』が適当な方向に飛んでいき、誰もいない岩肌に当たって爆発する。

その爆風が煙を巻き上げ、さらに視界を悪くする。


「馬鹿野郎! 無駄弾撃つな! 敵の位置を特定しろ!」

「だ、だってどこにいるか分からないのよ! ジンがいれば『敵影三、座標XY』って教えてくれたのに!」


ミリアが錯乱して叫んだ。

その言葉が、アレクの神経を逆撫でする。


「あいつの名前を出すな! 俺たちだけでやれる! エリス、ガントの治療を! 俺とミリアで迎撃する!」

「は、はい! 『聖なる癒しよ、彼の傷を塞ぎたまえ……』」


エリスが震える手で聖杖を掲げ、詠唱を始める。

淡い光がガントの傷を包もうとする。

だが、その光は一瞬で黒く染まり、霧散した。


「え……?」


エリスが呆然と声を漏らす。

次の瞬間、彼女の喉元に冷たい何かが押し当てられたような感覚が走った。

声が出ない。

詠唱しようとしても、口がパクパクと動くだけで、音にならない。


『沈黙(サイレンス)』の呪いだ。

ヒーラーである彼女が真っ先に狙われるのは、戦術の基本だ。ジンがいた頃は、常にエリスの周囲に結界を張り、彼女を最優先でガードする配置を取っていた。

だが今は、全員が自分の身を守るのに必死で、エリスは無防備に晒されていた。


「あ、あう……あうう……」


エリスが喉を押さえて蹲る。ヒーラーが封じられた。その事実は、パーティに致命的な絶望を与えた。


「ギャハハハハ! なんだこいつら、噂のS級パーティってのはこの程度かぁ?」


霧の中から、下卑た笑い声が響いた。

姿を現したのは、全身を黒い革鎧で包んだ小柄な魔族たちだった。手には毒塗りの短剣や吹き矢を持っている。魔王軍の遊撃部隊『影食い』だ。

個々の戦闘力はCランク程度。正面から戦えばアレクの敵ではない。

だが、彼らは集団戦術と罠のスペシャリストだった。


「おいおい、前の報告じゃあ『どんな奇襲も察知する不気味な目がいるから気をつけろ』って聞いてたんだがなぁ。どこにもいねえじゃねえか」


リーダー格の魔族が、嘲るようにアレクを見下ろした。


「そんなやつはいねぇ! 俺が勇者アレクだ! お前らごとき、聖剣のサビにしてやる!」


アレクが激昂し、光り輝く聖剣を振りかぶって突進する。

単純直線的な攻撃。

魔族たちはニヤリと笑い、煙のように散開した。

アレクの剣が空を切り、地面を叩く。

その瞬間、地面に仕掛けられていた魔法陣が発動した。


『重力枷(グラビティ・バインド)』


ズンッ! という音と共に、アレクの体が地面にめり込むような重圧に襲われた。


「ぐ、ぐおおおお!?」


膝をつくアレク。聖剣が重すぎて持ち上がらない。


「ひゃはは! 引っかかった! バカだねぇ、そこに誘い込まれてるって気づかねぇのかよ!」


魔族たちが一斉に襲いかかる。

毒の刃が、アレクの白銀の鎧の隙間を切り裂く。

腕、脇腹、太腿。

浅い傷だが、毒が回る。体が痺れ、視界が霞む。


「あ、アレク!」


ミリアが助けようとするが、彼女の背後にもすでに敵が回っていた。

首筋に手刀を受け、ミリアは白目を剥いて倒れ込んだ。


「くそっ……動け……動けぇぇぇ!」


ガントが槍の刺さった足を引きずりながら斧を振るうが、素早い魔族には掠りもしない。逆に関節を狙われてアキレス腱を斬られ、巨木が倒れるように崩れ落ちた。


全滅。

その二文字が、アレクの脳裏をよぎった。

信じられない。俺たちは最強のはずだ。魔王を倒す選ばれし者たちだ。

こんな、名もなき雑魚魔族の待ち伏せなんかで終わるはずがない。


(なんでだ……なんで攻撃が当たらない……なんで罠が見えない……)


思考が混乱する中で、無意識に口が動いた。


「おい……どうすればいい……指示をくれ……!」


返事はない。

いつもなら、即座に冷徹な声が返ってくるはずだった。

『右へ三歩。そこが安置だ』

『エリス、浄化を三秒後に。ミリア、九時の方向に氷壁』

『アレク、正面は囮だ。背後を斬れ』

機械のように正確で、感情のない、しかし絶対的な正解をくれる声。

それが、聞こえない。


「ジン……! ジンッ!!」


アレクは絶叫した。

プライドもかなぐり捨てて、追放した男の名前を叫んだ。

だが、そこには風の音と、魔族たちの嘲笑しか返ってこなかった。


「誰を呼んでるか知らねえが、誰も助けに来ねえよ。お前らはここで終わりだ。魔王様へのいい手土産になるぜ」


リーダー格の魔族が、短剣をアレクの喉元に突きつける。

死の恐怖。

アレクの股間が熱くなり、尿が漏れた。

勇者としての威厳も、栄光も、全てが泥にまみれた瞬間だった。


その時だった。

突如として、谷の上流から凄まじい閃光が走った。


「なっ!?」


魔族たちが怯んだ隙に、落雷のような轟音が響き渡り、岩壁が崩落した。

巨大な岩が、魔族たちの頭上に降り注ぐ。


「やべぇ! 自然崩落か!? 引けっ! 一旦引け!」


慎重な性格の魔族たちは、予期せぬ事態に即座に撤退を選んだ。獲物を仕留めることよりも、自分たちの安全を優先したのだ。

黒い影たちが、潮が引くように去っていく。


残されたのは、半壊した勇者パーティだけだった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


アレクは泥と尿にまみれたまま、震える手で聖剣を杖にして立ち上がろうとした。

助かった。

偶然の落石に救われたのだ。

だが、その代償はあまりに大きかった。


ガントは両足の腱を切られ、大量に出血して意識がない。斧も刃こぼれし、使い物にならない。

ミリアは魔力枯渇(マナ・バーン)を起こして痙攣している。

エリスは『沈黙』の呪いに加え、毒の影響で顔色が土色になり、美しい肌に醜い紫の斑点が浮かび上がっている。

そしてアレク自身も、毒で体が思うように動かず、自慢の鎧はボロボロだ。


何より失ったのは、マジックバッグだ。

逃げ回る最中にベルトが切れ、谷底の裂け目へと落ちていった。

あの中には、予備のポーションも、食料も、そしてパーティの全財産も入っていた。

ジンから奪った物も含めて、全てを失ったのだ。


「……くそ……くそっ……!」


アレクは地面を拳で殴りつけた。

痛みが、惨めさを加速させる。


「なんで俺たちがこんな目に……! 全部あいつのせいだ……あいつが、不吉な予言なんか残していくから……!」


アレクはまだ、自分の過ちを認めていなかった。

認められなかった。

ここで認めてしまえば、自分たちが「ジンの掌の上で生かされていた無能」だと肯定することになるからだ。


「戻るぞ……!」


アレクは呻くように言った。


「一旦、街へ戻る……体制を立て直すんだ……」


彼らは這うようにして来た道を戻り始めた。

栄光の勇者パーティとは思えない、敗残兵の姿。

行きは半日で着くはずだった道程が、帰りは地獄のような長さに感じられた。



数日後。

カジノ都市ドラドに近い辺境の宿場町に、見るも無惨な四人組がたどり着いた。

装備は砕け、悪臭を放ち、全員が重篤な状態。

宿の主人は最初、彼らを乞食だと思って追い払おうとしたが、アレクが懐に残っていた勇者の身分証を見せたことで、慌てて部屋を用意した。


だが、問題は山積みだった。

ガントの足は壊死が始まっていた。

エリスの呪いは、並の教会では解けない高位のものだった。

ミリアの精神崩壊も深刻だ。

治療には、莫大な金と、最高級のエリクサー、そして高位の呪解師が必要だ。

しかし、彼らには金がない。一文無しだ。


「どうすれば……どうすればいいんだ……」


薄暗い宿の部屋で、アレクは頭を抱えていた。

国からの支援を要請しようにも、通信手段の魔道具も失った。「魔王討伐失敗」の報告が伝われば、勇者の称号すら剥奪されかねない。


そんな時、宿の食堂で冒険者たちが話している噂話が、アレクの耳に入ってきた。


「聞いたか? ドラドのカジノの新しいオーナーの話」

「ああ、『黄金の眼』を持つ男だろ? なんでも、一晩で前オーナーを破滅させて街を乗っ取ったとか」

「すげぇのは金だけじゃねぇ。あのオーナー、世界中の珍しい薬や魔道具をコレクションしてるらしいぜ。どんな呪いも解く秘薬から、失った手足を生やす霊薬まで、何でも持ってるって話だ」

「へえ、カジノ王か……さぞかし強欲なじいさんなんだろうな」

「いや、それが若い男らしいぞ。冷徹だが、交渉次第ではなんでも叶えてくれる『魔人』みたいな男だってよ」


アレクは弾かれたように顔を上げた。

ドラド。ここからほど近いカジノ都市。

そこに、全てを解決できる力を持つ男がいる。


「カジノ王……」


アレクの瞳に、どす黒い希望の光が宿る。

勇者の名を使えば、あるいは「将来の魔王討伐の報酬」を担保にすれば、金を借りられるかもしれない。薬を譲ってもらえるかもしれない。

相手は所詮、金貸しや博徒の類だ。勇者である自分が頼めば、名誉に感じて協力するはずだ。


「行くぞ……ドラドへ」


アレクは仲間たちに告げた。

それが、さらなる地獄への入り口だとも知らずに。

彼らが救いを求めて向かう先に待っているのは、彼らが最も侮蔑し、裏切った男、ジンであることを、彼らはまだ知らない。


運命の歯車は、残酷な音を立てて回り始めていた。

断罪の時は近い。

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2026年1月18日 19:00
2026年1月19日 19:00

「お前の悪い予感は縁起が悪い」と追放された軍師、直後に勇者達が全滅危機でも助けない~死の未来が見える俺、カジノで無双し経済を支配する~ @yuksut

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