Abendglas
あおぞらに線を描くように、その球体は白く空を飾って飛んだ。愛おしむ手と手があったのが嘘みたいに呆気なく、あるいはそれが真実かのように、整然と彼女は微笑んでいた。
いま、彼女の最愛は死んでしまった。私たちの策略によって……。
だけどもそれは、必要なことだった。私とタルキも含めて、かの病原を持つ人間は、発症とともに残虐性を持って人の目玉を刈る。それはアーベント・グラスを作ったドクターの仕業であり、誤算だった。
「だいじょうぶよ、ドクターが、皆んな連れていってくれるから」
そうして手のひらから放られた三つの眼球とともに、彼女は柵を越えて湖へ落ちて行った。くそ、と隣でタルキが吐き捨てるのを合図にしたように、私たちも後を追う。
このサナトリウムは——アーベントグラスを待つ子供達の生活場所。湖の真ん中に立っていて、今では所長を務めるドクター・ミヤキの菜園のようなところだ。
病は、大人なら数時間で発病する。眼球のガラス体が濁って視界が夕暮れのようにサーモンピンクに染まるのだと聞くけれど、本当かどうかはわからない。だって発病者は気がふれてしまって、もうまともなお話しもできない。一時はゾンビ映画のようになってアーベントグラスの発症者が周辺の国々の至る所で凶行に及んだけれど、今は血清が作られて落ち着いていた。想像以上に大事になってしまった偉大な実験(本人談)を、ドクター自身が収束させたのだった。
その代わり、発症までに時間のかかる青少年たちはこうしてサナトリウムに収容されている。病原の保有者は、ドクターにとってフラスコの中の薬物だ。私たちは夕暮れが訪れるまで飼われているラットで、発症した仲間を摘み取るための犬でもあった。
水没の衝撃にぎゅっと瞑っていた目を開いて、深い深い湖の中を泳ぐなにかを探す。まずは彼女、メリーを見つけなければいけない。発症者の妄言はいつも一貫していて、まるで新興宗教に入信してしまったようになる。彼女が言ったように、アーベントグラスの持ち主は死後どこかで幸福に暮らすのだと言うのだ。メリーはダンを愛していた。それを知っているからこそタルキはダンを撃ったのに、彼女は失意に飲まれたりはしなかった。そうなると、想像しきれなかったのは私たちの甘さかもしれなかった。
水流がうねって、私より少し離れた場所でタルキとメリーがやり合っているのだとわかる。その水面の喧騒が、私とタルキの僅かな動揺を明かしているような気がした。発症者の眼球を刈るのに、手は抜かない。だって一年前にこの施設で一斉に開花してしまったときにすっかり慣れてしまっていたはずだった。けれど、そう、あのときと違うことといえば、私たちはメリーやダンと数ヶ月に渡って仲間として過ごしていた……。
タルキが彼女の腹に入れた蹴りが綺麗に決まって、隙が出来たのに気づく。咄嗟に私はメリーの背後に回って羽交締めにした。タルキの指先は、もう迷うこともなかった。
じわりじわりと、赤色が湖を染めていく。それがメリーの二十四ミリメートルに広がった景色と同じなのだろうかと考えると、少しだけ切なくなる。
「運んどいて。あと探す」
「わかった」
タルキはメリーが放り投げたダンの目玉と、ハヅキの片目を探しに水中へ戻っていった。いつもよりどこか俯き気味だったような気がするのは、私の気のせいだろうか。項垂れたメリーの体を揺らめかせながら岸辺へ向かう。そこには数人、仲間たちが待っていて、メリーを引き上げるのを手伝ってくれた。
レティがお疲れ様と私を労って、手を差し伸べてくれる。その手を掴んで水から上がると、なんだか夢から覚めたような気分になる。メリーとの日々は、この湖が見せていた夢で、はじめから彼女はアーベントグラスを発症していたのだと、そんなふうに。
「メリーももう、十七だったものね」
彼女の遺体の上で祈る仲間たちのうちの誰かがそう呟いた。大人になるほど発症率が高くなるというのは私たちの間の噂話でしかなかったけれど、大人の方が潜伏期間がずっと短いことを思えばあながち間違いでもなさそうに思う。
ドクターは、これについてははっきりとしたことを言わなかった。研究者は曖昧なことは断定しないのだ、とよく言っていた。だけど、一年前からここにいた私は知っているけど、そう言うわりにドクターの研究ってどこかオカルト染みている。私がその内容を見てそう言ったわけじゃなくて、私とタルキを拉致してここまで連れてきたギャングたちのリーダーがそう言っていたというだけだ。アーベントグラスで一儲けしようとしていた彼らは、結局ドクターに出し抜かれて廃人みたいにされてしまった。私たち保有者は、虚ろな目をした彼らに身の回りの世話をされている。
戻ってきたタルキの手にはきっちり五つ分の眼球の神経が束ねられていた。このうちハヅキのものだった眼球は、発症前なのでドクターの研究の役には立たない。でもドクターに渡せば、ハヅキの目を綺麗に治してくれる。大人のアーベントグラスよりも、発症に時間が掛かったアーベントグラスのほうが質がいいとかで、ドクターにとっても快癒してもらったほうが都合がいいんだろう。ハヅキはまだ、十二だから。
「ねえ、ごめんね」
「何が?」
タルキに声をかけると、声をぽとりと落とすような返事があった。それを聞いてやっぱりいたわるべきだったと確信しながら、上手く言えなくて「えっと、なんていうか」としどろもどろになる。
「メリー」
「ん?」
「ダンも」
「ん、」
前髪がまたタルキの視線を隠す。それでも、伝えたいことはわかってくれたみたいだった。
私たちはもしかして、とても悲しいのかもしれない。こんな日はもう来ないと思い込んでいたのだろうか。だけどメリーとダンが死んでしまったことよりも、私たちの知らない信仰に没入していたことのほうがより悲しいことだったような気がする。
メリーではないものになってしまった。
それがとても悲しい。
作品集「With Me」 外並由歌 @yutackt
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