外見至上主義

検副

外見至上主義

外見至上主義

 ブサイクである男性はイケメンである男性より劣っている。他方、フツメンである男性もいる訳だが、イケメンが顔の良さという比較要素を持つようにフツメンにさえ顔の良さという比較要素を持つ場合について定義されるものが、ブサイクが顔の悪さという比較要素を持つという基本である。フツメンはイケメンより顔の悪さがあるのではあるが、そのように誰かに劣って顔の悪さを自らの基本とするブサイクである男性は、イケメンよりかは顔の悪さがあるという風な端的な決定を有さない。それ以上に、イケメンよりもフツメンよりも顔の悪さがあるという風に定義付けるのである。フツメンである男性はブサイクである男性とは異なった顔の悪さ具合を定義付けるのである。これがガリか並かデブかについてまで追求したとなる。さすれば、ガリであれデブであれ、イケメンとフツメンとブサイクの優劣の付け方が変わらない最中、ガリという栄養摂取の少なさが過剰な具合とデブという栄養摂取の多さが過剰な具合として目立つ。人が栄養摂取にあり付けない場合を貧困や食べず飲まずだと定義して、ガリはデブより貧困であり悪である。ガリがガリ足る所以に貧困まで要件付けされる以上、デブがデブ足る所以に人として劣る根拠はない。外見がデブをガリより優遇するならば、貧困や食べず飲まずの場合を優遇したことと同義である。その為、生命維持がかかる存在の尊厳にまで非人道的な決定をしている。その場合、ストレスの所為なのか決まりの所為なのかは個の環境によるものであり、そこでも外見重視な判断をすると、ストレスや決まりが原因する異なった言語観と食い違った出来事や話を学ぶことになり、ただ関係しただけでも元々は関係がない人にも危害が及ぶ。然るに、人は外見で優劣を付ける前に生命維持という大切な役割がある。これを前提にしてしまわなければならない故、ガリが些末なものでデブより優れているという外見の評価だけでは、ガリとデブを対象化し得ないように埒外である。ガリはデブより劣る。デブは並より劣る。優れた順に並べると、並である人、デブである人、ガリである人、これらの内容に落ち着く。イケメンの並、イケメンのデブ、イケメンのガリ、フツメンの並、フツメンのデブ、フツメンのガリ、ブサイクの並、ブサイクのデブ、ブサイクのガリ、このような複数要素の要素付けも完成する。並はともかく、デブは貧困か食べず飲まずでない限りは痩せるという方法を日頃の行為から引き起こし得る。痩せれば、ガリが嫌で並となる。逆に、ガリは痩せて並になるはずがないように貧困か食べず飲まずの加減にある為、より多くの栄養摂取を行う為のより多くの数を行う金銭や発見などの行為を要して、並に近付けるしかない。より多くの数を行う金銭や発見の行為を栄養摂取の少ない人がなし得るはずがない。これを持って、ガリな人の個人の判断は停止し、個人的な評価を受ける筋合いを失う。ガリは他人という孤独には厳しい状況に置かれてまで活動しなければならないか要件を立て、出会いか孤独な行動かによりまた異なる使命に命運が分かる。出会いがあっても栄養摂取がより多く貰えるかは運である。出会いがあって栄養摂取がより多く貰えれば、ガリは他人の手を借りる。他人の手を借りるということは他人に借りを作る場合がある。優等至上主義ならば、無料などあり得る訳がなく、確実に借りを作ることになる。他人の手を借りるのは栄養摂取をより多く貰うことだけではなく、それで借りを作った分も金銭か経験を与えることにも存在する。高身長か並の身長か低身長かにおいても優劣の決定を行う。高身長が最優だとして、並の身長は高身長より劣るだけの優れた形だとする。低身長は低身長であるだけならば止むなく低評価だけを受ける。これに関して、イケメンとフツメンとブサイクの類ではこの優劣の順は覆らない。次に、並とデブとガリの類では、高身長、並の身長、低身長、この優劣の順が変わらない。デブでは高身長が脂肪を目立ち易くしている腹部の広さを低評価にするとして、高身長から並を並から高身長に順序を限定すること及び順序を並び替えることにおいて、低身長を最優とする。低身長、並の身長、高身長、このような優劣の順序で決められている。ガリでは高身長が貧困や食べず飲まずに遺伝的な失敗要因を与えたとして、高身長が最も劣っている。低身長は高身長の対比要素として失敗要因を与え辛いものと判断し得る為、低身長が最優である。高身長よりも失敗要因がなり立ち辛い為、中位の評価に落ち着く。すると、低身長、並の身長、高身長、このような優劣の順で決められている。このような連想でおよそ病を患わない形の男性への判断が付いた。

 女性の中でも、美女、並の女性、ブスの女性、これらの要件が揃う優劣の順が付く。しかし、女性は特殊な観念が働いた環境下に置かれている為、デブのことを脂肪が多い上付き易くもある女性ならば程良い肉付きであるだとか、ガリのことを女性の目線で痩せて見えるから綺麗であるだとか、低身長が可愛いであるだとか、高身長でも男性より低いから異性として小さくて可愛いのであるだとか、これらの独特な観方により、優れ方が男性より融通が利いている。その為、女性は男性よりも人の形において優れた優秀性を作れている。従って、顔以外での判断では、並と比べてやってい過ぎた事情を持つような雰囲気か、やっていなさ過ぎた事情を持つような雰囲気かで、最悪的な評価を得たようなものだが、顔のみの判断に尽きても発見のし易い域では、顔の判断に限定しても男性よりも良好な公平性を得ている。美女、並の女性、ブスの女性、このような並びで確実な評価をし得る他、ガリかデブかでデブの方が秀で、ガリの方が劣るということが、美女、並の女性、ブスの女性、これら全ての傾向に加味されている、美女、美女のデブ、美女のガリ、並の女性、並の女性のデブ、並の女性のガリ、ブスの女性、ブスの女性のデブ、ブスの女性のガリ、これらの優劣の順が一般性の内である。

 ここまでの内容は男女の性別的な優劣に帰結している。女性の方が外見至上主義の際に男性より優秀性があり、男性は筋肉を美しくしたとしてもガリでもなければデブでもなく体を作られねばならない為、女性の美しさの基準の多さに比べれば、筋肉ばかりで貧しい。筋肉が美しい男性を並であるとも定義し難い。その理由は並の男性ならばただで筋肉が付くことなどあり得ないからである。つまり、筋肉が美しくなると並の人ではなくなる。筋肉を美しくする為にはガリもデブも並もないようにせねばならない。つまり、女性が並にいて良い一方で男性は並にいてはならないというのが美しき筋肉の正体である。並でさえ違うのならば男性は並であるという標準から逸れた存在として生きるのである為、女性と男女の基準を比べ合わせることこそおかしい。男性の間で外見における評価の標準がおかしいからといってこの文章への批判には値しない。何故なら、男性は美しき筋肉という一つのおかしさを無視して標準を繕わねばならないからである。男性において外見ほど標準がおかしくなるものもないに違いない。さて、女性は並の女性であるとしても違和感なく伝わる。よって、女性の観方を目安に外見におけるものを書かなければならない。以降、女性の観方を目安にしたという背景がある場合として、人全面を基準にした外見の標準的な位におけるものを書く。また、以降の内容を男女間で外見上に女性が優秀性を獲得していることに所以して「外見至上主義」の内容とする。ただし、外見至上主義の前提には男女それぞれの内容がある上で女性の方が外見で秀でているという導きが確認可能でなければならない為、外見至上主義として定義される以前のここまである内容も外見至上主義の内容であるとする。

 美しい、並、醜い、これらの評価が個性的な好みに基づき男女間にあるとする。しかし、それは美しい場合を主要な要件とすれば、並は圧倒的に醜いより真面であり、醜い人を美しく感じるようならば、並の人を美しく感じる方が正常である。並び、醜い人を美しく感じることは異常である。人が正常である存在を好むかのように、並の人を美しく観ようとする慣習は醜い人を美しくない人と見做すことを担えば、醜い人よりも感じたい回数を増やす傾向の元、大変普及し易いように美しく感じるという信念を並の人に依らせるのである。美しく感じる事例があることで美しい人が並の人からも美しくあるように混在する為、並の人は並であるところを醜いものと決め付けるようになる。並の人の中に醜く感じられることなどあり得ないとして、並の人はやはり醜い人とは決別したままと感じる。醜い人は並の人にはなり得ないことを深く理解して、より醜い人を作り出す。より醜い人は「かなりの醜い人」という人としての最低評価を下され、かなりの醜い人として醜いという域でさえ死ぬかも知れないところを更に死ぬかも知れないようにさせる。更に死ぬかも知れないようならば、人において必須な行為として死ぬこともある。かなりの醜い人が並の人にもなり得ない故、人がいて、外見について並の話をする場合、とにかく醜い人は埒外の対象とする制約はかなりの醜い人によって理由付けられている。かなりの醜い人は社会に属したところで、人が醜さを好まないその通りに人の孤立に至る。

かなりの醜い人が社会に属しておきながらも人として孤立する。即ち、孤立であり、孤独と化し、孤独である。他方、美しい人の中でも美しい人であればある程秀でると見做す順の高水準な階級分けが存在し得る訳であり、その中でも美しくない側であればある程、感じ方に美しいと感じる感じが含まれている傾向がある。その為、美しいの中でも美しくない側であればある程に補われた人はあるべき位以上に美しく感じられる。本当の美しい人が美しい人の中でも「かなりの美しい人」であるとするとして、その人は美しさに対して感じ方から感じることが必須でない位の美しさを持っていると思われるような通念が含まれている傾向がある。美しいと感じる感じ方でさえ排外している対象であるとするかなりの美しい人には人として感じ得る領域を超えたつもりになった美しい感じが当人の意識の中に存在している。その人を「超人」と呼び得る。美しさは外見の要素でありながら物理的に人の外見に最も強く現れる強みとして存在する為、美しさがある人はそれだけで人間関係の優位性を確保して事態を進められる。それ故、人間関係という人間中心主義な組織の間では関係に関する無敵さを有し、事実上、人という同じ存在が行う実力競技で右に出るものはいない最強の部類である。人が人の間だけで数多の存在を支配するようであれば、超人は何をも頂点に君臨する部類である。それが即ち、世界の在り方であるならば、かなりの醜い人が感じ方に当たりながら何をも不当であるという価値観に受けている状況が存在し、かなりの醜い人において、どちらがかなりの醜い人であるべきかの階級分けを引き起こさせる起因を無力化させている。この域に達して、世界は良い様の規定を果たすはずであり、結局、悪がこの世界の規定にある主旨となっている。世界にいる限りは悪な判断に基づいて生活していて構わない。善が世界に存ずるのならば、それごと排外されて然るべきである。結果、善悪に判断を許さない為にあるような弱肉強食の世界こそがこの世界を良くこの世界足らしめている。この世界は究極の良い様の成果を果たす前に良い様な完成をしているのである。人の今後の生き方は良くて現状を悪化させて辛うじて人が現存可能な世界の弱肉強食を築くのである。これらの考えから作られる内容の全てにおいて、女性は男性より人の形において優れた優秀性を作り出せている為、超人が世界の覇権を握る場合において、人の形どころか世界で優れた優秀性を残す。女性の中で超人であればこそ、世界の最も高みに位置する高位にいる。こうした理由で世界が超人の女性だけを残せば、始めは超人の女性が負ける見込みになりそうであっても、だからこそ、他国の武力を借りて望みの国を制覇するべきであり、力より美しさへ人の価値観が偏って、世界が平和になった時、超人の女性以外は力を借りた他国へ過重労働者として移らせ、程良く餓死させて死滅するまでを実践するはずになる。争いを排斥した平和な世界の覇権を担う美しさに尽き、他方では、複雑な説明から性質を好む好みを知り得ることがある。世界の最も高みに位置する人が超人の女性なのであれば、その都度の曖昧な性質は超人でありながら、ただの人でもある彼女に委ねられた価値観ということになる。念の為に注釈を加えると、美しい、並、醜い、これらの内でさえ人の勝手な主観によって誰かを目星にするのかも、それがどれくらいの幅広さであるのかも主に勝手な主観に基づいている。だからこそ、その都度の曖昧な性質はそれだけを題材にして曖昧と分かるどころか、元の区分と比較してみると余計に曖昧な区分となっているものだ。曖昧な区分を好く状態というものは、判断の礎が主観だけに自分がかつて主観的な好みとして表現した表現を事情にして、新たにもう一つの好みを優位化させて、過去の好みとその現在の好みを大別するように好きになるという風な意思決定である。並び、決定を下した意思が向かう場は、主に自身がそれを好いていて薄幸であるより幸せなどみたいに前向きでいながら、多数派と少数派で分かれ得る独特な格付けの場である。場のこの独特な格付けにおいて、まず、躊躇いなく美しいと分かる超人の女性にあり付け得ないという訳が発せられる。だが、そのような訳を抱えていながら、男女それぞれの目的に合わせようとして合わせ得ない不備が原因している。もし、超人の女性が常に女性の一体性を占め、もし、男性が超人に類しながら超人の女性にあり付けるのならば、その両方の性別において最高の現実が作られる。また、いずれにせよ感度が良い人がいて欲しいという願望は基本的に生じ得ているはずだ。その為ならば、男女全員が、即ち、人の全ての人々が最も超越的な機能と能力が備わっていて、この際にも超越的な感度の良さを持つことになる超人の女性になりたがる。言わずもがな、超人の女性が世界で最高の感度の良さを持ち、所謂、身体に元々備わる感じられる快楽の強さが最強の位である。世界は苦痛より快楽を味わっておきたいものである為、超人の女性が世界一富める存在である。単なる場合によるだけで、金銭や政治力が通えば、最早、最強の利権を持つ。

 かなりの醜い人を「彼」と呼ぶ。彼は世界に虐げられる人であり、世界において必須な機能及び機能に付随したようなものの必須な能力を有するような「才人」なのである。彼は世界を豊かにするつもりで才人足るのならば、世界に対して容赦ない対立構造を齎す。それが虐げられた人が虐げられることから脱し、何も条件が置かれてないにせよ、虐げられることの何かがあるよりかは、何もない方が好ましくあれ、幾らか好ましい力を身に付ける。その為の使命にある元、彼が起こす世界への反感は最悪な中で良いやり方である。やり方にも程があるということであって、彼は孤独だ。そして、悪いことが起こった後に皆から孤立している。孤立している為、皆に才能の傑出物を与えることが適わない。才能の輝かせ方が仮にでも皆の中ないし皆という確認が伴わなければ成立しない世間にあるのならば、孤立した彼に才能を使う残された道は予めにない。彼は才人であることにおいても自覚から切り離されたものを持っている。自覚から切り離されたものの才能という才人であることを保証する対象を失った彼は、自覚の中に才能がありながら才人である自分らしさを秘めながら、そのようなはずがないという自分の判断に葛藤を覚え、自覚というコンプレックスを抱く。自覚にコンプレックスを抱き、自覚を捨てたいが捨ててはいられない自覚をしたくない人がそうであるように、彼は自覚にはない物事を判断するような事物との干渉に依存する。現象という事の全般がなければ全般的な物を理解しないようならば、彼は自覚したくない上で現象を捉え、物の理解を自覚したくない具合に干渉する具合に落とし込む。自覚したくない具合を現象と物の空間に慣らすのならば、自覚したくないという意志は全般であるということに求まるあり得なさによって消失する。彼は本来ならばここで無と化す為に自殺するべきだ。あるいは、処刑されるべきだ。自殺も処刑も未遂に終わるかも知れない、それと伴に、自殺と処刑以外に人生を踏まえられない。恐らく、自殺は他人に自分の意志を操られたとしか思えてこなくなったならばすることであり、恐らく、処刑は自分の意志が他人を馬鹿くらいに操ったとしか思えてこなくなったならばすることである。いや、この際は行為の要件など気にするくらいの理知らしさがない。彼は自殺も処刑も遠ざかる程のクズであるとして、何をも自覚したくないという渇望を無自覚に還元する。無自覚は勝手に作られるはずであり、彼にとって無自覚なところを持つことは理不尽な在り方で備わる。彼は無自覚なまでに生きていけない事態に立たされた際に困る。困り、彼は不本意な結末を招いた自覚したくないという渇望を無自覚とは別の自分でない誰かへの観念に還元する。その誰かは自覚したくないことなど知った事情ではない為、彼を人権侵害者としてなし得て良い限りの誹謗中傷を彼に浴びせる。無自覚でありたいだけが為に彼は誹謗中傷に対して何の制約もなるべく厭わずに察知する為、定かになった音や字が誹謗中傷に類されていなくてもわざとらしく誹謗中傷を対象それ自体から感受して理解する。幻は彼の価値観の中では誹謗中傷を受け取って自覚しないということを適える為の最大効力の手立てである。誹謗中傷を受け取ることで自覚したくないということを適える為、幻に没頭することでさえ手を染めた彼は幻を語るスペシャリストである。翻って、幻を語るスペシャリストである内、誹謗中傷を受け取って自覚したくなさを渇望している彼が存在しているという訳だ。彼は誹謗中傷されるしかない為、誹謗中傷が人権侵害であるという他人からの評価を引き起こして、その誰かから導き出され、且つ、彼を誹謗中傷するしかなかった他人を非難する。彼の方が誹謗中傷をする理由として、優れた理由を持っているのにも関わらず、彼はその他人に対して非難してしまったことによって、最悪な行為を引き起こした。彼はこのことにおいても無自覚でいて当たり前だが、最悪な行為をした故、他人が非難して良いのである。最悪な行為に際して、他人から再び非難されてしまう彼は、孤立して社会の的から外れた分の人権的な事例を否定する。これに通じた形で大まかな人権でさえ否定する。人権がなければ人もいないかのように権利が他所からなくなる。それを生み出した彼は権利もなければ人権もない人がいることを社会に対して訴える実力だけはある。だが、社会はその実力を認める機会を彼が孤立している孤独な人であることに所以して機会ごと失う。社会はそれであっても彼を必要視すらしない。何故なら、彼が持つ人権のなさとは彼が引き起こした誤った他人への非難に根付いているからだ。その為、彼の才能がこの人権や権利などの復権なるものに集約されているようならば、その才能は偽物である。彼は社会において不要な才能を冴えある才能であると自覚して自惚れ続けるのだとしても、それは社会と折り合いが付く実現なのであって、寧ろ、孤立して孤独になった人の類から何の術もないというものが、富めるべき社会において不自然である。従って、彼の才能を原因にした社会からの孤立は社会的な負の価値が付いた形として当たり前である。後は、社会が続き、彼も孤独に生き続け、好ましい形を追求していく事態でありながら順調に続く。しかし、負の価値が孤立した彼に社会性を備えさせるならば、社会において異常事態である。社会は彼を負の価値を生み出した魔物として成敗する。孤独は組織性や集団性を持つ社会において失敗的な類だ。彼は孤独している状況にでも社会から淘汰されて然るべきだ。だからこそ、負の価値を生み出してしまった彼は、孤独になったところで役に立つ個性を生み出す活路もなく成敗される。社会からの孤立が彼において孤独を生み出してしまうならば、負の価値は彼が思うに、孤立しているつもりなのか、孤独になっているつもりなのかを見分ける為の目印になっている。その為、負の価値は彼において社会から淘汰された自分らしさを獲得するには不可能的な意味を持ったものである。社会に淘汰された自覚を獲得する場合、彼は「価値」というものを最悪な状況の負の生き方の中で持つことをしない。社会が彼の社会的な淘汰を救うように命じようが、そこに価値が付随した動きしか捉えさせるようでないならばその働きは失敗する。それは彼において無価値が非力であるという証であり、社会がそこに対する救いようが何もない。彼が孤立していることから生じた自覚を捨て、孤独に生きているようであると決めたならば、彼は負の価値を生み出した悪人として悪人に相応な懲罰を社会から食らわされる。社会は孤立させた彼を救うはずなく懲罰を与える。彼もといかなりの醜い人は絶滅する。

 絶滅することがかなりの醜い人を原因にして周りにも伝われば、かなりの醜い人がかなり醜いということを人に向かって捉える対価も意味もないと蔑ろにする人がかなりの醜い人を見放すどころか、かなりの醜い人に当該する人においては始めから淘汰が進んだ話として世界を認識している為、世界が何かしらの異変を生じさせることで、元は埒外な人でさえそれを理不尽であると軽んじて捉える可能性はあり、理不尽に対する恰も迎撃するかのような攻撃を現す衝動的な行動に及ぶ。この一連の事柄を後押しする存在が醜いと決めようとすれば、そうでないだけの美しい感じの人や事実上に美しい人や超人の人達である。その人達は絶滅することについて自分が知っている世界の情報網とは紐付けられない為、容易に絶滅することについて非理解なのであり、醜い側に見捨てられるということを作り出す。よって、醜い側の人は見捨てられるということを覚えて生きている。見捨てられるということは関係に対する矛盾的な理解を自覚するのであり、それが無関係になった途端、矛盾を超えた錯乱的な理解を自覚する。理性は錯乱を行わない為、錯乱的な行動が仮にでも理性的に存在するというよりかは、何か決まりを破るようなやり方に着手するのである。それによって、醜い側の人は決まりを破ることを自身の気狂いな部分に紐付けるのであり、錯乱的な理解を理性の内に引き止め、決まりを破ることについて錯乱していたなどとは自覚しない。つまり、錯乱的な理解ですら自覚しないのならば、その原因である矛盾的な理解についてそれが原因である矛盾的な理解についてそれが原因であると見定めることはあり得ない。この場合、決まりを破るということとは、矛盾を忘れ、錯乱を忘れ、気狂いを知るという風に気にする自我の形成に帰属している。ただこれだけにかなりの醜い人と定められた人の命運を知ることが可能である。概ねの観点からして、外見至上主義は美しい存在が気に食わない醜い存在にだけを決まりを破らせるという秩序を乱す行為に手を染めた。だが、外見至上主義は世界秩序の唯一的な確定内容を確保する絶対的な保証に基づいているのだから、これからも世界を牛耳っている。醜い存在は決まりを破るでしかない現実に脅かされながら、僅かな正気で怯えた生活を送る。いっそのこと決まりを破るでしかない気弱な人として保護されるのも妥当な生き方である。しかし、保護されるのも美しい人の手柄になることは容易である。何故なら、醜い人は理性の丈が外れたが為に淘汰されるべき存在だからだ。また、外見至上主義は確かかなりの醜い人から理性を欠如させたはずだが、それでもかなりの醜い人を救う正義を持たない。よって、外見至上主義は社会をそうと決めておきながら、かなりの醜い人を救うことをあり得ないこととして禁じている。であるに、かなりの醜い人を保護するようならば、かなりの醜い人に襲われるかも知れない有益な人を保護した方が余程安全で功利的である。醜い人は保護されるべきであれ悪しき存在として淘汰される。醜い人において、悪しき存在と決め付けられることも保護されないことも日常茶飯事である。つまり、理性の丈が外れたこの際、醜い人が悪しき存在を肯定するようなことや保護されないことを規範として信じることは日常茶飯事である。悪しき存在であるからこそ主観のみで決まった内容だけが良き存在足らしめる実現であり、保護されないからこそ自己保身に耽ることが自分の身と心を勘違いであっても守るだけして生活する上での最優先な行動である。良き存在であるかを自分の評価だけで決めて、自分を従え、最優先に自己保身に逃げることこそが醜い人の当たり前でありながら、多数派の当たり前とは違っている。どうせは醜い人において当たり前は自己責任で作り出した当たり前なのだから、懲罰を受けるようなことしか考えられていない。懲罰を受け続けることは死ななくても苦痛な為、他人に合わせるだけで辛かったり痛かったり疲れたりなどする。

 外見至上主義は醜い人というだけで決まりを破らせたり、多数派の当たり前と異なった当たり前を自己責任で形成させたり、他人に合わせるだけで辛かったり痛かったり疲れたりなどさせている。最早、外見至上主義によって世界が統括されることは正義でないが為に許されない。理由は、概ねの観点から捉えた際、決まり切って美しい人が理性を持つ人のようであり、醜い人が理性を持たない人のようでありながら、それでもなお最善の世界秩序であるという風に気まずいことを明らかにしているのである。人は終焉を迎える前に外見至上主義で負った分を醜い人が元通りの元気な姿に直るまで直すべきである。従って、世界は弱肉強食であるべきでない。弱肉強食は外見至上主義によって盛況を終えたことの滅びの面である。

 正義を実現する為の共存共栄にある中、外見至上主義と弱肉強食はあってはならない。共存共栄は世界を一重に一つの部類による支配で従えさせない。複数の部類から共存共栄しているようにする。外見至上主義と弱肉強食はその存在からして世界に組み込まれることはない。世界が外見至上主義と弱肉強食の元で完璧であるということを含める限り、この世界の仕業は外見至上主義と弱肉強食である。共存共栄は現にある世界を否定し、外見至上主義と弱肉強食を非存在化する。共存共栄はただ存在を共存共栄の為に肯定する。世界は不条理でなく、不条理は何にせよ世界の含有する存在にさせない。世界が条理を従えることが適うのならば、共存共栄は世界においても条理においても認められる。条理は様々に異なり、人それぞれによって体験することが異なる。しかし、それでは孤独が世界と条理の繋がりを断ち切る。共存共栄は孤独を許さない為に孤立するということを世界の一理としている。従って、条理は団結を最優先の一理として孤立するということを一理にする世界を迎え入れる。孤立は条理に脅かされて孤独を与えるが、人はそれを拒絶する為に共存共栄している。人は意識して孤立していると感じることはあれども、孤立しているというものを世界の性質であると定義付けることは可能であり、孤独なのは人の所為なのではなく、条理の所為である。共存共栄は世界に属するには証拠が不十分であり、条理を現す分には証拠が不十分であり、共存共栄が条理を発せさせることは不可能である。共存共栄が果たすべき目的は人を条理という形而上的なところで生み出された孤独から解放することである。頭の中の思いだけで「自分は孤独である」と信じ込むことは可能であれども、他人との関係に依らなければ人は生きていけない場合がある。その場合に生きていく為ならば、即座に共存共栄の側にいても良い。命は共存共栄のみを含み得る。孤独がそこに組み込まれない。しかし、条理は他人との関係がある中でさえ、人を孤独に貶める。そこに外見至上主義と弱肉強食が伴う仕業も弁明も一切あってはならない。それでも条理が心身に災いを齎す限り、本人と他人の間で人間関係の消失を生じさせる。共存共栄は孤独でないということを頭の中ではなく、他人との繋がりを通じて当人に伝えておいていなければならない。他人との繋がりが誰でも望む通りに通じ合えるのならば、共存共栄の現実は伴うはずだが、共存共栄は世界や条理との結束を大事にする内容には満たない。共存共栄は何しも世界や条理に含められている内容ではない為、理想として説の展開が広がっている側面がある。つまり、共存共栄が理想と化した場合、世界と条理を従える現実との闘争が起きる。闘争は互いの良さを捨てさせ合って争いが終結する期間を統べる。共存共栄が適わない間の闘争は人々全員に孤独を与える。人々全員は拒む術もなく孤独になる。その上で、かなりの美しい人の女性が掴み取ったこの世界の頂点である超人がそうであったように、ある人々によって世界の覇権は所持される。その為、特定の観点がある人々の間で共有される。共有した間のある人々の観点からして、特定の観点から悪しき人である覇権を持たない人は埒外な存在であり、世界から消えて欲しいとさえ思われ、そのように思われた風に則した生き方を決めて生きる。こうして、覇権を持たない人は人として埒外な処遇を受ける。何故なら、覇権を持たなければ闘争の結果で得られる得を獲得し得ないからだ。世界は闘争を原因にして、人と人の繋がりの不完全さが共存共栄に値しないとして拒み、外見至上主義だけの世界に逆戻りする。外見至上主義は完璧な世界の完全さを作った故、世界観に関しては完璧主義である。完璧主義は外見至上主義を含め、かなりの美しい人の女性によって世界を従えているとかなりの美しい人の女性特有の世界観の手で信じられる。完璧な世界観はかなりの美しい人の女性に独占されている。完璧な世界観によって世界はかなりの美しい人の女性の認識に従えられている為、完璧な存在を作ることは、かなりの美しい人の女性には可能でもそれ以外の人には不可能である。しかし、外見至上主義はその不可能を抹消して、完璧主義に適う世界で維持している。共存共栄は覇権という外見至上主義の未然的な在り方を作り出せたが、その後、覇権では堪え得ることもないならば、あっさりと外見至上主義に世界を牛耳られている。覇権から世界を奪還した外見至上主義はかなりの美しい人の女性が発する独特な仕様により、世界観の独占がされていて、世界はこの独占された世界観によって支配下に置かれる。この場合、世界はかなりの美しい人の女性において単なる対象に過ぎない。世界は対象を全面的にまとめる以前に人の世界観の所為で独立的な統御を失う。世界はかなりの美しい人の女性においては確かに捉えられる対象である。しかし、そうでない人においては不確かに捉えてしまう対象である。

 かなりの美しい人の女性によって世界一素晴らしい世界観が独占された。世界観は人間の知覚を最大規模に補ってきた観点のものと捉えてもその代わりは見つからない。そうでない人の中でも美しければ美しい程にはかなりの美しい人の女性に近寄った観点は効いているはずだ。しかし、それもかなりの美しい人の女性しか持たない世界観があるというだけあって、一番の基準が定まっていない混乱期に突入したものである。世界はこの点に関して混乱を齎す多様性を扱う。そして、混乱している人は普通に目障りであり、良いものにも巡り合えずに死ねば良い。かなりの醜い人は絶滅したはずであるままの捉え方に全てを存在から疑われた生き方をする。全ての疑いに向けて普通はいらない論理の構築を求めて極めることは可能である。疑っては本当を確かめなくては気持ちが満たされないかのように、かなりの醜い人は懐疑主義に染まって、予めある信用を元にして行動するにも信用の実態そのものへ応えるつもりにしかならない。信用した後に信用の実態を築き上げることは実態を伴わない信用をまず先に信じて、信用を把握し損ねることでしかない。しかし、絶滅したはずであるままに生きなければならないが故、かなりの醜い人として、信用を実態的に捉えられるかは観点に含まれない。翻って、観点そのものを手に入れるべくして、把握しようがある生き方ということを再確認して、信用から自分を省みなければならない。実態の有無においては棚に上げて、自分の信用が仮にでも実態を個的に捉えることが適うまで自分を省み、その成果として実態を自分の把握に抑える。実態もないはずなのに把握によって自分の中においての実態が生み出されている点が不可解であり、省みることにしか実態が備わらない形が見えない仕様の無限の存在化である。省みることが一体何から作られて発生しているのかまで定かになって、実態との結び付きが取れそうであるが、省みることから理解を更に進めるものを創出するものは人において想定し得ない。一見、外見至上主義への否定のように捉え得るが、外見至上主義の事実上の絶対支配は続いているばかりなので、弱肉強食を捨てた外見至上主義の共存共栄を繕った姿勢には太刀打ちしようがない。その中、省みることという不可解な内容を編み出す行為には、どこかかなりの醜い人だけが持つ懐疑主義を捉える節が多い。外見至上主義が絶対支配をしないでも自然な淘汰として独り身で死ぬ人の疑り過ぎの所為で、外見至上主義の実態が強固に現れたようならば、それについて信用からし始めて、自分が省みることで自分が把握している具合に実態から捉えた外見至上主義を気にしていた方が合理的且つ共感的である。だが、省みることが形に現れないように捉えるにも捉え得ない対象として省みることがある限り、外見至上主義の実態は関係において謎を深め合っている。外見至上主義で得を得ない人においては、外見至上主義が統御する世界は世界ごと分からない。外見至上主義が得をしない人に関わろうにも、得をしない人において外見至上主義に則した全ては謎が深まる対象それ自体である。従って、関わろうにも無駄である。外見至上主義で得をする人と得をしない人同士、外見至上主義で関わり合うことは永遠に不可能である。得をする人が得をする場合、なくなれば何が起こるかも分からないのだから、外見至上主義で得た得に執着し続ければ良い。他方、得をしない人が得をしない場合にその場合から脱すればまだ無事であるように、外見至上主義が超人を超出して世界観を持つ世界観の観点において世界を統御する。外見至上主義という多様性よりも一極性に依った統御の仕方が優勢な為、一極性が多様性より範囲を狭めることと背反して、一極性に適う資格から外された人が非世界の存在として顕在である為、外見至上主義の一極性に適う資格から外された人による攻撃に対して、外見至上主義の人による事前な防御も兼ねた把握の中、攻撃の隙を与えない為に僅かでも疑わしいならば疑わしい人と定め易くした疑わしい人を排斥する方法を用いて排斥を実行する。その方法はかなりの醜い人こそ非世界の存在であるが故の非存在であるとする。

 人が人並外れた力を発揮し得ず、世界の捉え方を失った世界観なき観点に根差した人の捉え方が人を僅かな正気の力で死滅との調和を取る。死滅している以上、言語化は無用な域である為、かなりの醜い人だけが自然にあるものやことに向けて霊的な確信を得る。言語化も自然があった後に人工的に生まれることだったと運命付けた後、言語化を用いて説を言葉にすることは可能であるとして、アニミズムはかなりの醜い人の間で言葉を使う権限として人格的な存在を想起させる。アニミズムが扱う対象は自然に霊魂の感覚が伝達されていながら、霊魂それ自体は自然の枠に入らないことによって、かなりの醜い人を人がなる超人の世界から身柄を解放する。そして、霊魂の存在する領域が超自然に存在していることをかなりの醜い人における身体感覚が捉える対象として、アニミズムの次のマナイムズを想像に加える。マナイムズの力は人が持つ力とは別用であり、かなりの醜い人が死滅したはずであるままのような現実に閉じ込められたこの際、かなりの醜い人自身に力が宿っていないでもマナの干渉のお陰で、かなりの醜い人にだけ人相応のマナを与える。その確証を与える節としてマナイムズはかなりの醜い人に精神世界への服従の定めを守らせる。精神世界はかなりの醜い人特有の死滅したはずであるままらしさと混濁することによって、独立した霊魂世界を形而下に構築する。かなりの醜い人が形而下で超絶した力を発揮し得る場面は霊魂世界を形而下と見做す間の行為の時だ。言葉は現実に沿わない情報を源に霊魂世界の在り方を伝達し得る。かなりの醜い人はそれに想起の為に費やした想像力を与える。現実と比較検討をした際の非現実な情報が想像力を占めるのではなく、アニミズムとマナイムズが組まれた霊魂世界に依拠した始めにない内容を含んだ情報がかなりの醜い人の想像力を占める。想像力によって作られた情報は頭の中にあることによって、記憶から霊的な作用を作る。霊的な作用は現実に作用することはない為、現実の働きには向いていない。しかし、霊的な作用を持つ人はかなりの醜い人として世界では非存在であっても非世界の存在としてならば存在している為、霊的な作用も存在していることとなる。非世界の存在は可能性としてならば存在がある為、かなりの美しい人の女性が持つ世界観であってもその存在を捉えなければならない。しかし、霊的な作用はかなりの醜い人の想像力の中にあるので、かなりの醜い人の存在を世界の存在として認めた上、霊的な作用がある想像力の一つの性質だけはかなりの美しい人の女性も獲得するしかない。獲得しなければ、かなりの美しい人の女性が唯一絶対な世界観を持って存在しているという事実とそもそもかなりの美しい人の女性がいるという事実の間で矛盾が生じてしまいながら、その矛盾をかなりの醜い人の所為であると押し付けて、かなりの美しい人の女性が矛盾を抹消しているということになる。それでも矛盾しているということは許されるでしかなく、かなりの美しい人の女性が世界と矛盾があることとが世界観の中で結び付けられる前に矛盾をなくす期間が解決する間まで設けられたとする。外見至上主義がこの脈絡から汲み取れる霊的な作用というものを現実に導入する為には、外見至上主義を否定した内面至上主義を優勢にしなければならない。外見至上主義は現実的な働きによって価値観の転倒を齎す性質であり、必ず内面は現実的な価値に基づいた在り方で内面至上主義を存在化させるのである。然るに、内面至上主義に霊的な作用を含めることは禁忌である。霊的な作用とは別用である内面至上主義は現実性を頭の中へ還元しなければならないはずである。即ち、頭の中にも現実に似た性質を持つ情報だけのものが備わっているという辻褄合わせになる。頭の中にあるものが形では捉えられないが為に空想のものであるのならば、その信じ方を改め、現実のものである頭の中の情報を現実と照合する能力を習得することになる。他方、霊的な作用から編み出される理性は、現実とは違った在り方を持つべくして霊性から帰納的に現実を見出す手法のみを持つ。何かを帰納的に現実と伴わせる考えは何しも霊性を元にするべきではないが、現実が頭の中の現実性に依拠する将来性があるこの際、そのことに反して、帰納で現実を求める何かを霊性のそれとすることは、現実と頭の中の現実性を繋ぎ合わせるという計画の遂行を良であると評する為の裏付け的な批判先の存在となる。霊性は直接批判してはならず、頭の中の現実性を構築する為の礎として批判されるという性質を批判されるより先に有している。霊性から現実性へと情報の性質が変化した瞬間、知った現実と記憶するという現実が一つに合わさる証拠になる。現実と霊性が対立することはなく、超自然な存在を保有するマナイムズの力によって、霊性が現実を霊力で捉えて包括する。現実を包括する霊力はアニミズムとしてマナイムズについてのことを内容に表現する権限によって、言語化を元より言語に落とし込む。言語化の働きを人ならざる神が創り出した変換能力と表せるが、神は言語化の元となる能力の姿である。姿から能力が発するのではなく、能力から姿が発する為、姿による制約を能わずに能力を発する。物質から能力を導出している術とは反対に位置する術であり、神は物質の形を無形に変えても、あるいは、元より無形からでも術を発する。形ある言語は神を現せない。形而上は形を求めないが、神は形を求めずに存在するのではなく、元に形とは示していないとする能力から形ある姿というものを現している。その為、形而上の対象とするには、能力から姿を現す仕様を示唆し得ていない為矛盾する。即ち、形而上を超えた存在的な何かとして神がいる。この為、形而上は神以外である霊的なものなどの分析に当たる。

 予想化する内面至上主義は外見より内面を第一優先にしたものの捉え方をする為、内面の何かが外見の働きを別の働きへと変える変化の性を持ち、働きの内に外見が存在を表す内面の示唆を性の説明的な内容に持つ。この為、内面は働きの変化の説明を要する為に外見を示唆的に用いることはあるが、働きの説明を表す故に内面を外見への批判として用いることはない。内面は示唆する為だけの外見を求めて、場合において用いるのであり、外見を放棄しなかった欠如のものとして外見を内面の表現に含めているのではない。ないし、内面の表現に現れる外見についての部分を外見の観点から批判して良い点はない。外見至上主義は内面の点を外見に準えて決定している為、内面だけの観点を充足と捉えるか欠如と捉えるかで分け隔てられる。外見至上主義ではなく内面至上主義を絶対とする為には、内面という形では捉えられない何かを予想として扱っている点を原始的な在り方であると捉えねばならない。原始的な在り方を時の流れが認めることなどあり得ない為、内面至上主義は現実主義と併用され得ない。この点、内面至上主義は本質的に夢見がちなのである。現実の細かさを追求する為に内面至上主義を夢見がちな馬鹿を生むものに過ぎないとして排他しても良い。寧ろ、そうするべきである。内面至上主義はやはり霊的なものの類である。外見至上主義から内面至上主義へ移し替えて、霊的なものを外見と伴わせる為には、外見至上主義を看破するだけでは物足りない。また、内面至上主義が外見至上主義より利点が多いものとして数的に内面至上主義を最優先にして良い。そうであっても外見至上主義の非正義は続いている。即ち、数的に利点が多いという比較で外見至上主義が負けることなどあり得ない。並び、数的に利点が多いという性質は内面至上主義の欠点となる。翻って、数的に利点が少ないという性質が内面至上主義の利点となる。外見至上主義は数的な性質を一切乞わずに至上に到達し得る為、数的な性質で優劣の立場を決めるような話に乗る利点はないということになる。批判の観点で外見至上主義と内面至上主義を結び付けることでさえ不可能になると、整合性が取れた命題を作ることが不可能になる。命題を作る為の中立な考え方が必須である。「至上主義」なるものだけを使う場合、どちらの方に相応しい条件が倣うのかという意義になる為、外見と内面を対立させるままになる。外見から内面へと変更したい為、対立よりも同じ点の方を見付けたい。このような導出した内容となる為、至上主義は中立の候補として却下する。要するに、至上主義に正当な内容は作れないということである。他方「直観主義」というものがある。理性の内、直観にだけ中立の内容が備わるとする際、外見に対してそれは外見至上主義に依る外見であるのか、内面至上主義が時偶に表す外見に依るのか、この二通りから選ぶ一つの決定を持つやり方を示す。この際の直観主義は直観で下した内容を第一にするという主義ではない。直観を主義の性質として中立に好ましい内容が導出されるという内容となる。「直観」と示しても実態を定かにすることを表立てて正体に準えることは不可能であるが、直観という存在を何となく分かる場合、その何となくというものを使役する対象として第一に信じることとする。直観主義はこの際「直観前提主義」と改名して呼んでも良いようなものである。当人と示しても人が沢山いるように、当人の直観によって直観主義に含まれる直観の性質は人それぞれ異なる。だが、直観というものが何かも知れず、知ったようなもので直観前提主義に当該する直観として信じて良いはずはない。直観を捉える理性は人それぞれであり、その分、現れる直観もそれぞれのものでありながら、人やその他の直観を有する存在に備わっていることとする。直観前提主義で対立を生み出したり、直観はずばり示す通りのものであると断定したり、それとは直観前提主義の直観に相当すると決め付けたり、これらの断定と決定は誤りである。直観は何かを至上に当たるこの世の最も至上な対象であると決めることを存在化することなどしない。外見至上主義も内面至上主義も何かしらを至上とする面では互いが排他される一面に置かれている。しかし、直観を前提にする為に外見に含めることは無理なことである故、直観を前提に信じる為には、内面として直観を信用の元に含める。その点に際しては、人の判断の拠り処が頭の中にある内面のものの直観に拠る上では内面至上主義が適う。外見至上主義は場合において発生する点については、直観がそうする可能性はある。従って、外見至上主義が場合の全てから排他されることはない。内面至上主義は外見至上主義に負ける点を含めるが、外見至上主義と内面至上主義を同じ点で結び付ける仕様においては内面至上主義が一歩勝る。内面至上主義は外見至上主義を従える直観を仕様の前提に置くのであり、その仕様の前提に向けて直観前提主義という固有な役目を与えている。直観前提主義という固有な役目に含められる直観がなければ、直観前提主義や内面至上主義どころか外見至上主義を成立させていると言語化して表にすることが不可能である。つまり、外見至上主義よりも直観前提主義を含めることとした内面至上主義の方が秀でている。これぞ、内面至上主義が外見至上主義より一歩勝る所以である。直観主義が内面至上主義を契機することによって、直観が主義それ自体の役割を担うのではなく、言葉が主義を満たす為に直観を礎に用いて位置付ける直観前提主義を作った。言葉は主義の形態で持って礎となった直観を論理立てることの前提に準えて、論理の内包する情報の一部として扱う。直観前提主義は外見至上主義を退けた至上の内面至上主義をこの世に活かす為の手立てを明らかにしないといけない。一時の場合において、この世の至上に位置付けされる内面至上主義を論理の導き方として扱う。となると、内面至上主義は内面の表現に差し当たって論拠を気にしない為に直観を踏まえる点がある。論拠を気にしない場合に対して空想が表出したとすれば、この場合の直観は空想が何であるのかを説明しないことを兼ねるべく、具体的な内容に表出したということを含めて、表出が空想の使役に依るものではなく、外界に現れ得る対象を目指して表出したのであるというものを表にする。これを論理ではなく、直観が従えた今後の説明に向けた前提というものとするのである。空想は汎用性が高い字義であるので、空想という題から導かれる具体例を外界に現れる対象であると見做して、表出したということを後に定かな条件として条件付けるのである。具体例に「具体例A」を用いるとしよう。今、空想の存在とした具体例Aはその存在が定かでない状況を前提に踏まえて、空想について扱った内容の中、今、具体例Aを空想の要素とする。そこから具体例Aは空想の要素の中でも言語の外界の対象としてのみ現せたという個体性を表にする。それは言語化という行為において、言語化を果たしたという結末であり、それ故、論理を言語化したことの結果であるものとして捉える限り、論理が外界に現れる対象の言語として捉えられる今に尽き、論理内の結論として完璧な仕様を含んでいるのである。これにて、過程に次ぐ結論まで表出の中身として表にすることが適った。以上、前提から過程を通じて結論までの流れを完璧な完成度で仕上げた。内容を整理すると、前提は直観があるということ、過程は空想を存在の根拠にした具体例Aを扱えたということ、結論は具体例Aを言語で外界に現れる対象として表出させたということ、これら三点によって求め切ったという内容となる。直観前提主義は論理内に正当な論理を構築することをし得る。よって、内面至上主義は直観前提主義を一部の要素と見做し、直観からその内面を導き出すことによって、内面至上主義を論理性のあるものとして形にしたのである。あるいは、形によって内面至上主義の本質が表現の源として現れたのである。内面至上主義という存在に誤りはない為、主義として狂ったことは表にしている。内面至上主義は真面目な話として扱われる。直観を占める直観前提主義は外見至上主義と内面至上主義の両方を扱う中立的な考え方であるが、その中立的な考え方は内面至上主義の性質に根差している。直観前提主義がいかなる場合にも現れる概念ならば、内面至上主義もまた、直観前提主義が直観に依拠するように直観をそのものの内面として内面至上主義を直観的にある在り方の一つとして依拠することとなる。それは外見至上主義では不可能な扱いの仕方である為、内面至上主義は外見至上主義からその至上の位を奪取し、至上の位へと到達したこととなる。故に、外見至上主義は終わった。そして、内面至上主義が至上の位に位置したと同時に、かなりの醜い人が抱えていた霊性は現実性へと変化する。そこには直観前提主義が内面至上主義に触れているという唯一な優位性の証を捨ててはおけない。かなりの醜い人は直観を第一にした現実への捉え方を持つ。外見至上主義は内面至上主義に至上の位を委ねた為、霊性を外見至上主義に取り込み、かなりの醜い人の死滅したはずであるままの面を消去する。霊性は外見を手に入れた。神は能力から姿を現すが、霊性は姿から能力を現した能力の種類内にあるようにある「霊性」のものということとなる。霊性を持つ存在を人は「霊」などと呼ぶのであるはずであった。姿から能力を示す為、姿を現す能力に他の能力が束縛され易いことが神以外の存在に与えられた宿命的な性質である。人も霊も姿に束縛された能力を扱うしかない点は同じとなる。人の理性は総じて現実性に委ねられる訳であるが、その理性を内面至上主義が従えていることは無論のこと、外見至上主義においてでさえ神以外の存在という姿に委ねられた条件付けによって、外見から人の理性を捉える。要するに、人の理性はその対象となるという事実上、外見至上主義にも通用している。外見によって人の理性を決めることもあれば、人の理性によって外見を決めることもある。どちらに優先付けされた根拠があるという訳ではなく、異なる場合によって、人の理性を内面的に捉えるか、外見的に捉えるかが用途変更される。外見至上主義は内面至上主義を従えることはしない。一方、内面至上主義は外見至上主義を従えられるので、人の理性を内面の一部として捉えながら、外見至上主義から捉えた外見の一部とも捉える。どちらの意見も同じ点に収まると、そこに中立がある限り中立的な考え方を司る直観前提主義は、人の理性が頭の中から表に現れるまでの中で、頭の中にある場合と表に現れる場合のそのどちらにも正当な評価をする。寧ろ、頭の中にある場合と表に現れる場合のそのどちらの評価も行わないものは、ただ唯一にして中立を保つ直観前提主義に反している。直観前提主義に反するということは常にどちらか一方に意見を委ねながら、誤って偏りがある意見を表にしているということになる。難しそうではある頭の中の理性を求めることをどのように求めるのかと言えば、情報に対してその背景や事情を想像力に委ねれば良いというだけのことである。直観とは他に尋ねるものではなく、そのように個の中でも求められる情報を事前に扱えるようにしておくことである。外見から元は頭の中にあるような理性を求めることも難しそうではあるが、それを実際にどのように求めるのかと言えば、存在よりも実在を優先した観点に基づいて、外界に現れる対象から視野を広げて対象それ自体について知覚すれば良いのである。外界に現れる対象のみならず、対象それ自体から知覚した対象のまとまりは、多様で膨大な情報を一辺に扱うことである為、情報に対して知覚した背景や事情に関する情報を多様で膨大な情報のものと見做し、取り込み、多様で膨大な情報を一辺に扱うことに集中すると良い。現実はすぐ先にしか現れない為、最初の情報から頭の中だけで理性の情報を交わすことには無理がある。その為、外界から情報の発出と使用をすることによって、理性を現実的に用いて頭の中にある現実性を現実にある性質として分かっておくことなのである。

 内面至上主義が至上の位を獲得した。「かなりの美しい人の女性が世界と矛盾があることとが世界観の中で結び付けられる前に矛盾をなくす期間が解決する間まで設けられたとする。」と記されたことで発せられた期間は終わった。その要因は根底から外見至上主義が終わったことに依拠した。また、世界観はかなりの美しい人の女性が持っていたような一番素晴らしくありながら独占状態にあるものとはなくなった。至上の世界観がかなりの美しい人の女性以外の人の元から喪失したことで失われた至上の観点は基準を持ち直し、混乱を齎すだけの多様性に基づく観点を滅ぼし、調和が取れた観点が齎される。また、かなりの醜い人は元から生きる人として存在する。誰であれ生きることは人の元に宿るのであり、調和が取れた観点であるということは「生きること」というものが変わらずにある定めである限り、皆同じものとして存在化する。調和が取れたものこそ生きることの証に相応しい。生きることにおける観点は内面至上主義の内容に相応しい。内面至上主義は生きることで優劣を付けることよりも適材適所を重んじる内容を最優先することになるが、生きることの拠り処が個的に存在していることに関してのみ全般の捉え方を慣らす。故に、生きることこそ正義である。従って、適者生存は非正義である。まず、生きることが正義であるならば、正義なき外見至上主義と弱肉強食が内容を加えた世界の非存在であるだとか、死滅したはずであるままであるだとか、これらのことは一切関わりを持たない。世界は元からあり、死滅は客観に基づいた事実であるか、主観では条件的に体験しても人生に活かすことが不可能な人生最後を迎える為の現象そのことであるか、およそいずれかの内容に含められる。世界は外見から捉えるかも知れないが、外見から捉えるだけで全ての評価を下すことなどし得てもし得て良いことではない。人の直にある性格や人格などの内面を主に評価し得てこそ、明白に捉えられる存在を「人である」と明言する。

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外見至上主義 検副 @a1hvd6g

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