雲の色、心の色
クランベア*
第1話
私は一度間違えた。
あの時押してやるべきじゃなかったあの子の背を、押してしまった。
「電車の乗り換え気をつけるのよ」
「小学生じゃないから大丈夫だって」
登校初日の息子を玄関まで見送る。リビングに戻るとお弁当がそのまま放置されてるのを見つけて慌てて息子を追いかける。追いかける途中に蹴ってしまった椅子をそのままに外に出てみると、まだそこまで遠くまで行っていなかった息子を呼び止める。
「隼人!」
私の声を聞いて後ろを振り返った息子の元まで駆け足で行く。お弁当忘れてる、と言いながらランチバッグを顔の位置まで上げて見せると、
「…ありがとう」
と一言だけ返ってきた。中学生のある時期から元気が無くなった息子は、受験が終わって無事に高校生になった今でも元気が戻らない。
「はい、お弁当。無理はしちゃダメよ」
「別に無理してないけど」
そう言って息子はすぐに背を向けて歩き出してしまった。その後ろ姿を見て、どうか今度こそ私は間違えないようにしようと、そう思った。
「ただいま」
短縮授業を受けて帰ってきた息子の声と顔を見て、なんとなく良いスタートを切れたのかもしれないと思った。
「お帰りなさい。どうだった?友達になれそうな子はいた?」
そう聞けば、少し面倒臭そうに
「初日だからまだ分からない」
と返ってきて、それはそうかと思い直した。しかし、その後に「でも」と聞こえたので少し驚きながら視線を息子に戻すと
「幼稚園一緒だったあいつが、同じクラスだった」
と続けて言われた。
あら、あいつって誰のことなのかしら。幼稚園が一緒ってことはたける君とかかしら。
「あいつって誰のことなの?お母さん知ってる子かしら」
そう聞けば、何となく気まずそうに、そしてやっぱり面倒臭そうに
「…美那。堀山美那」
とだけ答えて、今度こそ制服を着替えに行ってしまった。
美那ちゃん?あの元気いっぱいだった子よね。隼人と仲良かったかしら。
そう頭の中で記憶を思い起こしながら、昼食のためにキッチンに向かった。
それからというもの、隼人から美那ちゃんに関連する話を聞くことはなかった。私が聞けば答えてはくれるが、隼人自身から話を聞いたことは片手で数えられる程度だ。元々あまり自分のことを話さない子だから、そもそも中学生の時と比べたら話してくれるようになった方なのだけど。
けれど、毎日顔を見ていれば分かる。きっと、美那ちゃんは隼人にとって少し嫌な存在になってしまっているのだと。
きっと本人に自覚はないのだろうけど、美那ちゃんと同じクラスだったと言っていた初日よりも少しずつ表情が暗くなっている。話を聞く限り、美那ちゃんは今も小さかった時と変わらず明るくていい子なのだろう。きっとどんな子にも声をかけることができる、そんな子なのだろう。
でも多分、隼人には少し難しい相手かもしれない。今の隼人に必要なのは美那ちゃんみたいな明るさじゃなく、例えるなら温かいココアのような、ほっと息をつける落ち着ける居場所だ。
きっと私の予想は合っていた。入学してから二ヶ月程経った時だった。
「あいつと、離れることにした。少しだけ」
夕食中にそうポツリと言いながら、息子は味噌汁を飲んだ。
「それがいいわ。きっと、美那ちゃんは今の隼人には合わないのよ」
決して意地悪を言ったつもりはなかった。ただ、やっと息子が自分のことを大事にする選択をできるようになったのだと、そう思って言っただけだった。
けれど、いつものように「うん」と返ってくると想定していた息子の反応は外れていた。
「…それってどういう意味」
「え?」
「なんでお母さんが俺のことを決めるんだよ」
その息子の、あの時より少し低くなった、けれど変わらない声を聞いて、私は察する。
あぁきっと、私はまた間違えてしまったのだと。
「俺のこと何も知らないくせに」
何も知らないくせに?そんなことはない。あなたははメロンが好きでしょう。食べすぎてお腹を壊したこともあるくらいに。ロケットも好きだったじゃない。お母さんはあまり詳しいことは知らないけれど。
何でそんなことを言われたのかしら。
言葉が、とても痛かった。
それからは、ただでさえ少なかった息子との会話が更に減った。夫には元気がないと心配された。あまりにも心配されるものだから数日前の例の会話を話せば、それは君が悪いよと夫にも言われてしまった。
「隼人は今新しい生活に慣れるのに精一杯なんだ。今は見守るべきだよ」
「でも」
「でもじゃない。君は少し過保護な気質がある。もう隼人も高校生だ。そろそろ隼人を信用してもいいんじゃないか?」
「…そうね」
夫は全然分かってない。隼人は性格的にまだ私の助けが必要なのに。
最近、私は夫のことも、息子のこともよく分からなくなってしまっていた。何で息子はあの時あんなに怒っていたのかしら。何で夫は息子にあんなに冷たいのかしら。
私の言動は、確かに本の通りに正しいはずなのに。
寝室に入り、もう一度本を手に取ってパラパラとめくる。
『これで完璧!思春期の子どもと関わるための心得!』
一通り流し見を終え、また元の位置に戻す。
「…うん。やっぱりこれで合ってるはずよね」
そう呟いて寝室のドアを閉めた。
それから更に一週間程経ったある日。息子はいつもより遅く家に帰ってきた。
「お帰りなさい。学校はどうだった?」
会話が少なくなった後でも必ず言っていた挨拶と質問。いつもなら気まずそうに「ただいま」とだけ返ってくるはずが、今日は何だか違っていた。
「楽しかったよ」
そう、小さな声がポツリと聞こえた。
「あ、あら、そうなの。どんなことが楽しかったの?」
今まで、学校の感想でポジティブな言葉を聞くことはなかった。初めてのポジティブな感想に驚きながらもそう言えば、珍しく息子は微笑みながら
「雲の色が分かった気がしたことかな」
とだけ言って、靴を脱いで洗面所に行ってしまった。
言葉の意味はよく分からないけれど、何だかいい方向になったようで良かった。
そう思いながらリビングに戻れば、手を洗い終わった息子がこちらを見ていた。
物言いたげな視線に気付いた時に脳裏に浮かんだのは本の内容だ。
『子どもの言葉には真摯に向き合いましょう。あなたの聞く姿勢が子どもにとって良い影響を与えます。』
努めて明るい表情で息子を見る。その私の表情を見て、息子は苦しそうな表情になりながら言い切った。
「お母さんのおかげじゃないから」
予想していた言葉とは全く違う言葉が返ってきて衝撃を受ける。私は何もあなたにしてあげられてないということ?
「…え?」
「美那は、俺を助けてくれた。美那が今の俺に合わないんじゃない。俺が、今の美那に合わないんだ。…今度は俺が、あいつ…美那が俺にしてくれたみたいにすればいいだけなんだよ」
そう言い切る息子は、以前のような明るさを取り戻しつつあるような気がした。
雲の色、心の色 クランベア* @cranbear_3
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