第四章 夜明けの錨

 東の空が、わずかに白み始めていた。


 港の輪郭が、群青色の闇の中からゆっくりと浮かび上がってくる。


​ 理恵は、涙を拭って少しだけ微笑んだ。その笑顔は、かつての美咲の面影を確かに宿していた。


「指輪、どうするの?」


「……海に捨てようと思っていた」


 高行は正直に答えた。過去と一緒に、この暗い海に沈めるつもりだった。


​「でも、やめる」


 彼は指輪の箱を、日記と共に内ポケットにしまった。今度は心臓の上ではなく、もっと深い、魂の場所に収めるように。


「これは、俺が背負っていくべき灯りだ。これを捨てたら、俺は本当に彼女を見失う」


​「そう。……それでいいと思うわ」


 理恵は背を向けた。


「もう行きなさい。十年遅刻したんだから、これからは一秒も無駄にしないで生きなさいよ。姉さんが見てるわよ」


​「ああ」


 短く答える。


 理恵は踵(きびす)を返した。数歩進んで、一度だけ足を止める。


 彼女は振り返らず、夜明け前の海に向かって、白く短い溜息を一つ吐いた。その背中から、妹としての重荷がふっと剥がれ落ちたように見えた。


​ 高行は一人、朝靄に包まれる港に残された。


 目の前には、変わらず巨大な氷川丸が鎮座している。だが、その威容はもはや彼を圧迫するものではない。嵐を越えてここに帰港し、安息を得た老兵のように見えた。


​ 冷たい風は変わらず吹きつけている。だが、それはもう肌を切り裂く刃ではない。


 頬に残る涙の跡を乾かし、彼の背中を強く、確かに押す風だった。


​ 彼は大きく息を吸い込む。


 潮の香りの中に、微かに、公園の花壇から漂う春の沈丁花のような甘い匂いが混じっていた気がした。


 止まっていた時計の針が、カチリと音を立てて動き出す。


​ 高行は一歩、踏み出した。


 過去という名の錨を上げた船が、新たな海へと漕ぎ出すように。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

錆びた錨~亡き恋人からの手紙と、十年越しの「嘘」の答え合わせ 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画