震えながら眠る
二瓶佳子
第1話
「ねえ芽衣、そろそろ俺たちも子供作らない? 同僚の澤部の奥さん、二人目なんだって」
週末の朝に、キッチンでコーヒーを淹れながら、私の夫、大友和樹は静かに言った。ああまた、この話をするのかと、私の心に重い雲が垂れ込んだ。
「和樹、結婚するときに私言ったよね。子供は欲しくないって」
もう何度目だろうか。また同じ話をする。
「わかってるよ。でも、気持ちが変わったりすることもあるでしょう」
「ないよ」
和樹はきっと、私の気持ちが変わるかもしれないと思って、結婚の時に子供は作らないという話を了承したんだ。
それって、そもそも、私のことを信用していないのではないか。
「私は、子供を作らない人生にしたいの。産みたくないし、育てたくない。人の子供は可愛いと思うよ。でも、自分で作るのとは違う」
ギュッと、心が締め付けられる。小さい子供を育てるということ。それは私にとって、もっともやってはいけないことだと思っているのだ。
「大友さん、もうすぐ誕生日だったよね」
移動したばかりの部署の上司、花見佳代さんが話しかけてきた。
花見さんは子供を三人産んで復帰した、我が社の女性社員のモデルケースのような人だ。
うちの会社は、上場企業であるものの、女性の役職者や役員が特に少なく、内外から批判が出ている。
それもこれも、女性が昇進しないのではなくて、居心地の悪い職場だから女性が居着かないだけなのに。
「あ、はい。来週ですね。三十五歳になります」
年々、一年が早くなっている。何かをしないと、あっという間に五年十年と進んでいくのだろう。
「三十五か。高齢出産じゃない」
「え?」
「子供、産むなら早い方がいいよ。子供は産むのも大変だけど、産んでからも体力勝負だからね」
多分親切心なんだ。
「あー」
ノートパソコンの画面を見たまま、無感情で返事をした。無視しないだけ、ありがたいと思って欲しい。
「不妊治療の補助金はさあ、42歳までだからね。あと7年しかないんだから、しっかり考えて活用しないとだめだよ」
不妊治療ね。そうですか。こちとら、避妊に全振りの人生です。なんて、口から出そうになる。
この三人も人間を作り出した女は、全ての人が子供が欲しいに違いないなんて本気で思っているのだろうか。
女である以上、それが当たり前だとでも? 思慮が浅くて羨ましい。
「そうですね」
とりあえず、返事をする。
結婚したら子供を作ることが、義務なんですか。子供を作らないことに、なにか罰則でもあるんですか。妊娠て、もっとデリケートなことなんじゃないですか。セックスしないと妊娠しないでしょうに。セックスしていることを、公言して生きているようなものじゃないか。
それを言ったら結婚もか。
そもそも、結婚もしたくなかった。一人で十分だと思っていた。
結婚こそ、グロテスクな制度だと思う。私は一生この人だけどセックスしますって公言しているようなものなのだから。
この地球で、生物として生まれてきて、子供を作らないことは罪なのでしょうか。遺伝子を残さない私には、地球に居場所がないのでしょうか。
花見さんは能天気に、子供の話をしている。子供は花見さんじゃないし、花見さんもまた子供ではないのに、子供の姿を借りて、社会にダメ出ししているように見える。この世界に自分一人じゃなくなっているのだ。そんな姿が、滑稽にみえてしまい吐き気がする。
私は私ただ一人で、居たい。私には、一人で居るという自由もないのだろうか。
女であるということは、産む性であるということを勝手に押し付けられているに過ぎないのに。
私の母親は、叩く母親だった。
何か失敗すると、その顔は能面のように固まり、光のない目で私を見る。
「どっちがいい?」
選ばせてくれた。竹でできた布団叩きか、素手か。
「叩かれないとわからないなんて、牛や馬と同じじゃないか!」
そう言いながら、私が選んだ素手で、私の臀部を直に叩くのだ。私が牛や馬と同じなのではなく、牛や馬扱いしているのは、母本人であるというのに。
叩かないと教育できない自身を顧みることはない。あくまで子供である私が悪くて、自分はそれを矯正している善意の存在であると。
「私の手だって、痛いんだ!」
そう言いながら私を叩く母は、全てを私のせいにするのだ。私が悪いから私が痛みを与えられ、それをする母の手を痛くするのも私であると。小さな私は震えているだけなのに。
最初の衝撃が来るまでの瞬間の恐怖を忘れたことはない。
冷たい空気。
北側の、外から見えない部屋に連れて行かれ、お尻を出す。
私の心は凍りつき、閉ざされる。
痛みに耐えて、歯を食いしばる。
私の白いお尻には、母の手の跡がくっきりと映し出されるのだ。
私の体にそのような痕跡を残す母は、もはや私にとって安らげる母ではない。
叩かれた瞬間から、もう私は母に甘えられないし、母に安らぎも求められない。家庭は一気に油断してはならない空間になる。そしてそれは、一生続くのだ。もう、母は私を守ってくれる存在ではない。最も近くにいる敵なのに、子供の私は悔しいことに、それを頼らなくては生きていけない。
早く大人になって、敵と距離をとりたい。
ある時母は、こう言った。
「あんたは実の母親に人見知りするようなところがあったからね」
人見知りか。
そうではないのだ。また失敗したら、あなたに叩かれるから。そして私は子供だから、予期せぬ失敗を回避できないのだ。
また叩かれる不安と恐怖で、よそよそしい態度になってしまうのだ。実の親のそばが、まるで監獄。
神経を研ぎ澄まして、機嫌を損ねないように、母に擦り寄るしか生きて行くことができない。
自分の家が、まるで戦場。ゲリラ兵として、敵地に潜伏しているのは私。敵に見つかったら銃殺される。毎日震えながら眠った、そして私の心は、何度も蜂の巣になっていたんだ。
大学生になったある日、授業の合間に友達と話していた。その友達は、華やかな可愛い子で、よく授業が一緒になったのだ。
なんの話をしていた時だったか、覚えていない。ちょっとツッコミを入れるような軽いノリだったはずなんだ。でも、私の右手は、大きく振りかぶっていて、それを見た友達は、ぎゅっと身体を縮めたのだ。
ハッとして私は、その手を下ろし、隠した。
そのまま話し続けて、なんとか誤魔化した。
でも、それは、私の心に楔を打ち込んだのだ。
大きく振りかぶって、叩こうとしていたよね。なんで? なんで、私は友達を叩こうとしたんだろうか。
自分の右手は震えている。私の心も、震えている。
頭によぎるのは、あの冷たい空気と痛み。光のない母の目。
私の心に刻まれてしまった、人を叩く行為。
自分が叩かれたことがあるから、人を叩くことにハードルが存在しないのだ。
これはまずい。私は、簡単に人を叩くことができるのだ。普通の人は、他者を叩いたりはしないし、そこには大きなハードルがあるはずなのに。
私は自分を制しながら気をつけて生きていくしかない。
はっきりと、歪んでしまった自分を自覚したのだった。
花見さんを筆頭に、うちの部署の飲み会が開催された。正社員と派遣、すべて女性だ。若い女の子もいれば、中年女性もいる。女性が活躍していることを内外にアピールするための部署なのだ。
しかし女子だけの部署などを作って、それ自体がむしろ差別的であるという発想はないのだろうか。これが、古いドメスティックな企業の限界なんだろうか。
「うちのお兄ちゃんなら、これは食べられないわ」
派遣の吉住さんが野菜炒めを食べながら呟いた。
「うちのお兄ちゃん?」
「息子よ。お兄ちゃんは偏食でね。こういう味付けがダメなのよ」
息子のことをお兄ちゃんとよぶ母親。そして、おそらく、こういう味付けがダメであると言うのは、息子ではなく自分が思っていることだろう、吉住さんは、もうその野菜炒めを食べていない。
この人は、母親になって自分の意見を自分名義で言うことができなくなったのだろうか。そんなことすらも、母親は取り上げられるのだろうか。いや、それを嬉しく思っている人もいるのだろう。
自分の言いづらい意見を、自分以外の名義にして主張する。それが子供であれば、使いやすい名義なのだ。
吉住さんは、60近い年齢だ。吉住さんが言うところのお兄ちゃんとやらは、少なく見積もっても30前後の成人男性である。
まるでそのお兄ちゃんとやらが幼児かなにかのように、話す吉住さん。彼女は、ずっと専業主婦で、この5年くらいではじめてアルバイトをしてみたそうだ。きっとそれまで、彼女には母であるという肩書きしかなかったのであろう。もう成人している息子のあれこれなんて、この場にいる誰も興味がないのに、吉住さんから出てくる言葉は全てその息子のことである。
「大友さんは、子供を産みたいとかないんですか?」
一人がそう、私に尋ねた。ふと見ると、その場の全員が、私の返答を待っていた。
「私、私は……」
この場には、既婚者も未婚者も、経産婦も産んだことのない人もいる。
「私は、もし子供ができたら、育てることになったら、叩いてしまう気がするんです」
つい、言ってしまった。
「だって、小さい頃は日本語も通じないし、泣いたりとか、されたら。その時の私の精神状態が、追い詰められているような状況だったとしたら。泣き止まなくて、途方に暮れていたとしたら」
全員が、私を見ている。
「叩いてしまいそうで、そんなこと、したくなくて」
叩かれて育てられた。
私は、人を叩くハードルがないのだ、きっと気持ちが決壊したら、叩いてしまうに違いない。そして私は、地の底まで落ちていくのだ。
そんな思いをしたくない、それならばいっそ、その機会を得ることを回避したほうがよい。
「叩いてしまいそう、か」
花見さんの表情が、見たことのない岩のような顔になっていた。その震える、岩のような顔面には、後悔が浮いているように見えた。
「わかる」
絞り出すように、言葉を出した花見さん。
ああこの人は、叩いているんだと、なぜかクリアに理解した。そしてそのことを、後悔している。
私がなりたくなかった母親の姿がそこにはあった。
「だから、私は子供を産みたくないし、育てたくないんです」
そう、最後まで伝えた。花見さんにはわかったかもしれない。私が叩かれて育てられたことが。負の連鎖を断ち切りたいということが。
何も考えずに、子供が欲しいなんて思えるようになりたかった。こんな苦しい気持ちを抱えて生きていくことになるなんて、想像もしていなかった。
あの時の、凍りついた空気に、私の幸せな子供のいる未来は破壊されてしまったのだ。
「でも、夫と二人で、楽しく生きていますよ」
子供がいないことが不幸ではないと思うことに必死だった。言い訳してまで、私は不幸ではないと必死に訴えた。
そうであることがすでに、不幸であることの証明のようなのに。
「そういえば、大友は健康診断引っかかっていたでしょう、必ず病院に行ってね。それを会社に報告しないといけないから」
「はい、来週予約入れたので、必ず行きますよ」
「健康診断? 何に引っかかったんですか? 血糖値? 中性脂肪?」
まだ年若い子が、引っかかった内容を無邪気に聞いてくる。自分達はまだ引っかからないから。でも、私もそうだった。
「ううん、子宮頸がん」
一瞬静かになった。
「それ、私も引っかかっていた。なんか、いきなりガンになるんじゃなくて、その前段階でひっかかる仕組みみたいでね」
花見さんが淡々と話しだした。
「そうなんですか」
「異形成っていう、細胞が変化してる段階でひっかかるから、そのままガンにならない確率の方が高いらしいよ。私は、結局ガンにはならないで治癒したけど。だから大友も大丈夫だよ」
「そうなんですね」
子供を産む気がないのに、生理は来る。どうして人間は、必要な時だけ排卵をしないのだろうか。
排卵なんて私には必要ないのに。むしろ、子宮すら必要がない。不要な内臓を持ち歩いて、不要な内臓の機嫌をとって生活しているのだ。
この不要な臓器に振り回されてきた。血を吐き、精神を地の底までひきずりおろし、私に苦悩を与え続けた不要な内臓。
「子宮頸がんですね。このサイズだと、全摘出を提案します」
目の前の女医は、私に淡々と説明している。可愛い柄の描かれたスクラブを着て、長い髪をポニーテールにしている。
「全摘出? 何を? ガンを?」
ドラマのような、泣き崩れるようなシーンはなかった。でも、全く勉強していなかった範囲の説明を聞いているような状態で、脳は妙に冴え渡っていた。
「子宮とその付属する部分を、摘出したほうがいいということです」
「子宮と、その、付属?」
「大きく、人生を変えてしまうお話だと思います。このサイズでは、妊孕性の温存は、難しいと思います。もちろん、セカンドオピニオンを行うことは問題ありませんが」
「にんようせい……?」
「妊娠する能力のことです。卵子凍結などが、最近だとよく聞くかと思いますが、この場合、子宮摘出なので」
「卵子を凍結しても、そもそも戻す子宮がないということですね」
「その通りです」
その女医は、訓練されているのだ。淡々と、しかし優しく話してくれる。私が理解しやすいように、図を書いて説明してくれる。
この女医は、美人だ。指輪をしている。美人で、女医で、結婚もしていて、きっと人生順風満帆なのであろう。私なんかとは違う、完璧な人生を歩んでいるのであろう。私のように歪まず生きているに違いない。うらやましい。
「わかりました」
「セカンドオピニオン用の紹介状は」
「セカンドオピニオンは結構です。その分時間かかっちゃいますよね。手術の予約を、最短のスケジュールでお願いします」
女医が私を見ている。一人でいきなり即決したのがそんなに珍しいのだろうか。夫に相談したところで、治療を受けるのは私なんだから、私が決めるに決まっているのに。
私以外の何人にも、私のことを決められたくない。
こんな時、子供がいなくて本当に良かったと、心の底から思える。もし、この状況で子供がいたとしたら、子供の送り迎えが、学校が、お世話するのに親を呼ばないと、いろんなことを考えて、調整して、走り回ってその上で決断になるのだろう。
それが、せいぜい夫に、入院中着替えを持ってきてもらう程度のことで済んでいる。
それにもし子供がいたら、ガンなどという治療が大変で、死ぬかもしれない病気にかかることは、たくさんの負担をかけることになる。この子を置いて死ねないなどという、物語のヒロインのような気持ちになるかもしれない。
今の私には、そんなふうに思う相手はいない。夫にだって、先に死んでゴメンくらいの気持ちだ。
涙一つ出ない。むしろ早く取り出して欲しい。私の体に害を成す子宮を。
よく考えると、ずっと害を成していたに違いない。子供を産みたくないと思った小さな子供の頃から、不要の長物で、害でしかなかったのだ。そんなもの、早く縁を切りたい。
職場に報告すると、女性陣の反応はさまざまだった。
「ガンなの? うちのおじいちゃんもガンでね。精巣ガンなのに、取りたくないってわめいていて。じじいのくせにあれなのよね」
「大変ですね」
「うちの大叔母も、今ガンの治療中で。抗がん剤で痩せちゃって」
「大変ですね」
どうして私本人がガンなのに、本人ですらない他人のガンの報告を受けるのだろうか。
お爺さんの精巣ガンと、まだ子供が産める年齢の私の子宮頸ガンの波及する影響値は同じだと考えているのだろうか。どうして大変なのは私なのに、私が大変ですねと言ってあげないといけないような話をしてくるのだろうか。
当事者でない人は、簡単に負担の重さを勝手に推しはかり、バランスが取れていないとしても、自分が知っているわずかに似たものをぶつけようとする。当事者じゃないとわからないことも多いのに。
「子宮を取った場所ってどうなるか知ってる?」
花見さんは言った。
「さあ、穴が開くわけではないでしょうから、他の臓器が入り込むのではないでしょうか」
子供を産みたくないと言った私が病気で妊娠出産を手放す。私に取っては、望んだ姿になる。
「私、三人目を産んだ時に、子宮を取っているんだよね」
「そうだったんですか」
「出血が止まらなくなって。ほら、子宮って、子供を育てるくらいだから、大きな血管が接続していてね。どう頑張っても血が止まらなくて、何リットルも出てしまって。なんか、子供が出たなって思ったら、何かがドバって出る感覚があってさ。みるみる眠くなって、そのまま、次に目を覚ましたのは一週間後だった」
三人産んだ花見さんは、てっきり出産に強いタイプなんだと思っていた。一週間意識不明であったということは、文字通り命がけの出産になって、命が危なかったということか。
「子宮を取らないと命が危なくなってしまって、医師の判断で分娩から子宮全摘出に切り替えて、子宮を取ったの。あの時子宮を取らなければ、私は死んでいた。出産に立ち会っていた私の夫は、自分の足元に広がる私の血の海を見て、ぶっ倒れたんだけどね」
ほんとうに、子宮という臓器は、女をどうしてくれるのか。
「だから私も子宮がないんだよ。お腹の大きな傷と一緒に、私の体からはもう取り除かれているの。それでも、女であることは変わらないし、何一つ、変わらないよ。本当に。なにも」
女でなくなるなんて、考えていない。でも、この言いぶりでは、花見さんは、女ではなくなると思っただのだろう。
「そうですか」
私にとって、出産を手放すことは、子供を叩いてしまう未来からの決別で、福音なのに。
「明日、本当に来ないで大丈夫?」
「うん。だって、病院側は特に居てもらう必要はないって言ってるんでしょう? それに、手術8時間とかかかるんだよ。その間、ずっとここにいるの、きついでしょう」
「でも」
「手術が終わったら、病院から電話が入るから。それだけ取ってもらえれば。携帯番号伝えてあるからさ」
和樹は、私より不安な顔をしている。優しい人なのだ。入院初日の今日は、有給を取って私に付き合ってくれた。とくにやることもないのに。
病室のベッドは窓側で、空が青く見えている。明日の朝8時半から、手術が始まるのだ。
「何か、食べたいものがあったら買ってくるよ。今夜から絶食でしょう?」
「大丈夫。今更、食べたいものなんてないよ。昨夜、最後の晩餐とかって言って、ステーキ食べに行ったじゃん」
「そうだけど」
和樹は、几帳面に荷解きをしてくれている。冷蔵庫のカードを買い、タブレットのWi-Fiを設定している。
「タブレットで、漫画も動画配信も見れるからね。ゲームも!」
「うん、ありがとう」
持ってきた電源タップを刺して、いつでも使えるようにしてくれている。
「お義母さんに連絡しないで、本当にいいの?」
「うん。いい。そもそも普段から連絡しないじゃん」
「そうだけど」
「この間、実家に少しだけ行ったからそれでいいよ」
「それも5年ぶりでしょ」
「それすら、できれば行きたくなかったよ」
母とは距離を置いている。母は、なぜ自分が距離を置かれるのかを理解できなくて、会うたびに呪いの礫を投げつけてくる。だからいやなのに。
「従姉妹の梨花ちゃん、子供生まれたんですって。男の子」
母は上機嫌に話す。
「へえ」
私はその手の話に興味がない。
「芽衣も、子供そろそろ考えないと、高齢出産になっちゃうわよ?」
私を叩いたその女は、そんなことなかったかのように生きている。なかったことになっているのかもしれない、あの冷たい空気も、光のない目も、あの震える体も私は忘れることなんてないのに。
「私、子供欲しくないってずっと言ってたじゃん」
母は自分の都合の良いことしか、記憶しないのだ。そんなことでよく生きてこれたと思う。専業主婦であるということの一番の利点は、歪んだ人間であるということが露呈しないことであると思う。
「そんなの、変わるじゃない。子供はかわいいわよ」
「かわいくないよ」
ならなぜ叩いて育てたのか。ここまで出かかる。
母は他責思考なのだ。自分は悪くない、何か悪いことの原因は、他人にある、そう考えている。
今ならよくわかる、子供は、環境に左右される。生まれながらに極悪非道な子供などというのは存在しない。劣悪な環境下で、悪いことをするのだ。
叩かれる原因は、私にあって、母にはないと、母は信じている。でも、それ自体が、私を苦しめているのに。
「芽衣も、もっと実家に帰ってきなさいよ。何年も帰ってこないじゃない」
この家に帰るのは、5年ぶりだ。一度帰ると、三ヶ月は魘される。
私を叩く、母の仄暗い亡霊と、それをなかったものにして私に擦り寄る母の怨念に取り込まれて、私の精神は異常をきたすのだ。
「いや、たまにでいいよ。私は」
そう濁して、ごくたまに実家に顔を出す。出すだけありがたいと思って欲しい。絶縁しないだけ、マシだと思って欲しい。
本当は、責め立てたい気持ちがある。なぜ叩いたのか。なぜ私に寄り添ってくれなかったのか。
それがどれだけ私を脅かし、私の人格形成に影響を与えたのかわかっているのか。母親に甘えられなくなった子供が、どれだけ歪で壊れた存在になるのか、わかっているのか!
でも、自分に都合のいいことしか考えていない母は、きっと話しても正確に意味を理解することはない。
得意の他責で、私をさらに責め立てるに違いないのだ。
ここは私が安らげない。厳しい環境の砂漠か、あるいは紛争地帯のように、私の安全を脅かすのだ。
安らげない場所に意味はない。そんなもの必要ない。だから距離を取る。自分を守るために。実家と疎遠になることで、私は私を守るのだ。
「子供、産めなくなってしまったね」
私の言葉に、病室であれこれと、明日の手術の準備をしている和樹が無言で振り返る。
「子供、和樹が欲しかったら、私と別れてもいいんだよ」
和樹の表情は、私からは見えない。
「私、もう産めないから」
そう言いながらも、私はこれまでに感じたことのない解放感を感じていた。まるで世界が手に落ちてきたような、どこかにさらわれていた自分自身を奪還したような、実はそんなすがすがしい気持ちだったのだ。
ついに明日、私は、子供を産まないことへの最大の免罪符を手にいれる。これを手に入れれば、何人も私を責めることはできない。
病気で子供が産めなくなりました。なんて素晴らしいのだろうか。なんて私を軽くするのだろうか。嬉しさがこみあげていた。
「俺は……」
お茶のペットボトルを冷蔵庫に入れながら、和樹は話しだした。
「俺は、そもそも自分で産めないから。産んでくれる人の犠牲のもとでしか、子供を望めない性だから」
産んでくれる人の犠牲。そんなふうに思っていたのか。そう、こと出産に関しては、負担の非対称性がひどい。女性の負担は命がかかるのに、男性には負担は全くないのだ。
「だから、子供がいない人生だって、もちろん想定していたよ。それに、俺は芽衣と結婚した時に言ったでしょ? 芽衣がいればいいって」
「でも、子供作らない? とか言ってきたじゃん。本当は欲しかったんでしょ?」
「違うよ。芽衣が、もしかしたら変わるかもしれないって思ってたの。気持ちが変わったときに自分が言ったことが足枷になったら、きついでしょ? だから、俺が定期的に言っていれば、気持ちが変わった時にそれに乗れるから」
子供が欲しくないと言っていた女の先輩が、四十過ぎで急に結婚して不妊治療を経て出産したことを思い出す。そういう人もいるのだ。
「そっか」
「治療、終わったら、何が食べたい?」
「うーん、またステーキかな」
明日になれば、私の体は大きな傷と共に、新しく生まれ変わるのだ。自由になる予感に、震えながら今夜は眠りにつこうとおもう。
(了)
震えながら眠る 二瓶佳子 @KC1129
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