【ジャズエイジ×百合】ジャズの囁き ~Whispers of Jazz~
南條 綾
ジャズの囁き ~Whispers
1925年 サンフランシスコ
霧の朝、八百屋の裏部屋で目を覚ました。サンフランシスコの霧はいつも厚くて、外の音を柔らかく包み込む。遠くで汽船の汽笛が低く鳴り、街がゆっくりと目覚めていく気配がした。
私はベッドから起き上がり、冷たい床に裸足を下ろした。鏡の前に立って、ボブに切った銀髪を指で整える。母は「女の子は髪を伸ばすものよ」と何度も言うけれど、私は短い方が好きだった。首筋がすっきりして、風が直接肌を撫でる感じが、アメリカらしい自由を思い出させてくれる。
まだ父と母が起きる前だった。棚の奥に隠してあるジャズレコードをそっと取り出す。ルイ・アームストロングの『West End Blues』。針を落とすと、トランペットの最初の音が小さく部屋に広がった。禁酒法の時代に、こんな音楽を聴いているなんて知られたら、父はきっと激怒する。でも、この音だけが、私の心を本当に揺さぶるものだった。
朝食の支度を手伝いながら、店を開ける。八百屋は小さな店で、キャベツや人参、時には珍しいアジアの野菜も並ぶ。日系人の客が多いけれど、白人の客もちらほら来る。
その日、珍しい客が来た。金髪で、青い目をした若い白人女性だった。短いスカートにビーズのネックレス、赤い口紅。まるでヴォーグ誌の表紙から抜け出してきたようなフラッパーそのものだった。
「新鮮な野菜を探してるの。ここが評判いいって聞いたわ」
声は明るくて、少し東部の訛りがあった。私は黙ってキャベツを紙に包みながら、彼女を盗み見た。彼女は微笑んで、私の目を見返した。
「あなた、名前は?」
「……アヤ」
「私はエヴァリン・ハリス。みんなエヴィって呼ぶの。ニューヨークから来た新聞記者よ」
その青い目が好奇心で輝いていて、私の心が少しだけ揺れた。それが、私とエヴィの出会いだった。
数日後、エヴィがまた店に来た。今度は野菜を買いにではなく、私に話しかけてきた。
「日系移民の暮らしについて取材してるの。あなたに話を聞かせてくれない?」
父と母は警戒した顔をしたけれど、私はどこか嬉しかった。誰かが、私たちのことをちゃんと見てくれるなんて、初めてだった。
それから何度か店に通ううちに、エヴィは私を誘った。
「今夜、ジャズクラブに行かない? 本物の、ハーレムの音楽が聴ける場所よ」
家を出るのは嘘をつかなければならなかった。「友達の家に泊まる」と母に言って、心臓がどきどきした。
クラブはフィルモア地区の地下にあった。路地の奥の扉をノックし、合言葉を囁くと、重い扉が開いた。階段を降りると、煙草の煙とウィスキーの匂いが一気に押し寄せた。禁酒法の時代なのに、誰もがグラスを手にしている。
ステージでは黒人のバンドが演奏していた。トランペットが空気を切り裂き、ピアノが絡みつき、ドラムが体を震わせる。私は息を飲んだ。
エヴィが私の手を引いて、ダンスフロアへ連れて行った。
「踊りましょう」
私は最初、足がもつれた。チャールストンなんて、鏡の前で一人で練習したことしかない。でもエヴィの手が私の腰に回ると、自然に体が動き始めた。足が軽くなり、笑いがこみ上げてきた。
煙の中で、エヴィの金髪が揺れ、青い目が私だけを見ていた。
汗をかきながらテーブルに戻ると、エヴィがウィスキーを注文した。私は飲めなかったけれど、グラスを手に持つだけで大人になった気がした。
「あなた、どんなことを考えてるの? いつも」
私は少し迷って、ぽつぽつと話し始めた。アメリカで生まれたのにパスポートは「外国人」。土地は買えない。父と母の期待が重い。白人社会からも、日系社会からも、どこにも完全に属せない孤独。
エヴィは黙って聞いて、手を握ってくれた。温かかった。
「あなたは美しいわ。アヤ。強い目をしてる」
その言葉に、私の中で何かが崩れた。
クラブを出て、暗い通路の陰で、エヴィが私にキスをした。柔らかくて、甘くて、煙草とウィスキーの匂いが混じった、絶対に許されない味だった。私は震えた。でも、離れたくなかった。
それから、私たちの秘密が始まった。エヴィのアパートは街の丘の上にあった。小さな部屋だけど、レコードが山積みで、壁にジャズのポスターが貼ってある。彼女はグリニッジ・ヴィレッジで育ったボヘミアンで、自由な恋愛観を持っていた。
「愛に性別なんか関係ないわ」
私は戸惑った。アメリカで、そんなことを口にする人なんて見たことがなかった。でもエヴィの腕の中で、私は自分を許せた。
夜ごと、抱き合って、囁き合った。エヴィの肌は白くて柔らかく、私の黒髪を指で梳いてくれる。レコードをかけながら、チャールストンを部屋の中で踊ったり、私が作ったおにぎりをエヴィが「おいしい!」と笑って食べたり。でも、現実はいつも追ってきた。父がエヴィのことを怪しみ始めた。
「白人の女と付き合うな。日系人の誇りを忘れるな」と厳しく言われた。母は黙って涙を流した。
街ではアジア排除連盟の活動が活発で、店のガラスに石が投げ込まれたこともあった。「日本人帰れ」の落書き。
エヴィの新聞社からも圧力がかかった。彼女の記事が「アジア人寄りすぎる」と上司に叱られた。それでも私たちは、霧の路地で手を繋ぎ、密会を続けた。
ある夜、またスピークイージーに行ったとき、大規模な警察の摘発があった。サイレンが鳴り、警官がドアを蹴破って入ってきた。私たちはパニックになって逃げ惑い、裏口から路地へ飛び出した。息を切らしながら隠れ、エヴィが私の手を強く握った。
「怖いわ、アヤ。でもあなたがいれば大丈夫」
そのとき、私は初めてはっきり言った。
「私、エヴィを愛してる」
エヴィの目から涙がこぼれた。私たちは路地の壁に寄りかかり、震えながらキスをした。霧が二人を隠してくれた。
私たちの関係は1年を迎えた。
私は夢を見ていた。エヴィと一緒にニューヨークへ行きたい。ハーレムのコットン・クラブで本物のジャズを聴き、自由に生きる夢。でも現実がそれを許さなかった。
エヴィの新聞社からワシントンD.C.への転勤命令が出た。
「一緒に来て、アヤ。私たちの生活を始めましょう」
私は迷った。家族を捨てられない。日系コミュニティの絆は強く、親を裏切るのは罪悪感が大きすぎた。
その頃、街の反日感情は頂点に達していた。1924年の移民法で日本人の入国が完全に禁止され、日系人への視線が氷のように冷たくなった。
ある日、店の前でデモが起きた。「日本人帰れ!」のプラカードを持った男たちが叫び、客が減った。
エヴィはその様子を取材して記事にした。それが新聞に載ると、彼女は「白人の裏切り者」と罵られた。手紙で脅迫も来た。
私たちは大喧嘩した。
「私たちは違う世界の人よ!」
私は泣きながら叫んだ。エヴィは私を抱きしめて、「愛があれば乗り越えられる」と繰り返した。でも、私は行けなかった。エヴィは一人でワシントンへ去った。
エヴィがいなくなって、私は抜け殻になった。手紙を待ち続けたけど、何も来なかった。八百屋の手伝いを機械的にこなし、ジャズレコードを棚の奥にしまい込んだ。夜は眠れず、天井を見つめて過ごした。
父と母は私の様子がおかしいことに気づいていたけれど、何も聞かなかった。日系人の親は、子どもの心の痛みを言葉にしないことが多い。
街はますます荒んでいった。反日感情は収まらず、他の日系人の店が襲われた話も聞いた。
私は自分を責めた。エヴィを愛したことを。家族を裏切りそうになったことを。臆病だったことを。
数ヶ月後、ようやく手紙が一通届いた。
「ごめんなさい。怖かったの。社会の目が、新聞社の圧力、周りの視線。でも、あなたなしでは生きられない。本当の気持ちを抑えきれなかった。ニューヨークで待ってる。」
私は泣いた。長い間、抑えていたものが一気に溢れた。
その夜、父と母にすべてを話した。恋のこと、愛のこと、逃げたいこと。父は黙って聞き、母は泣いた。
「行っておいで。でも、帰る場所はいつでもある」
私は荷物をまとめ、列車に乗った。サンフランシスコを離れる霧の朝だった。
1927年ニューヨーク。
ハーレムのクラブで、エヴィは待っていた。デューク・エリントンのピアノが響く中、私は人ごみをかき分けて彼女に近づいた。
エヴィは私を見つけると、涙を浮かべて駆け寄ってきた。私たちは抱き合い、キスをした。周りの人々がちらりと見たけれど、ハーレムの夜はそんなことで動じない。
その夜、私たちは自由に踊った。チャールストンも、スローなブルースも。体が触れ合い、心が重なる。
小さなアパートを借りて、一緒に暮らし始めた。貧しくても、笑い合えた。私はエヴィの記事を手伝い、日系人の視点から不平等を訴えた。彼女の原稿に、私の言葉が載るようになった。
1929年の株価大暴落が来て、ジャズエイジは終わった。大恐慌の時代、私たちはさらに貧しくなった。仕事は減り、食うや食わずの日もあった。
それでも、私たちは離れなかった。隠れたサファイアのコミュニティに加わり、同じような女性たちと出会った。彼女たちの話に勇気づけられた。
夜、アパートの窓から街を見下ろしながら、エヴィに言った。
「私たちはジャズみたい。自由で、混ざり合って、美しい」
エヴィは私の手を握り、微笑んだ。
「あなたが私のメロディーよ。アヤ。永遠に」
時代は厳しく、世間は私たちを許さなかった。でも、私たちの愛は、ジャズの調べのように、静かに、しかし確かに、囁き続けた。
【ジャズエイジ×百合】ジャズの囁き ~Whispers of Jazz~ 南條 綾 @Aya_Nanjo
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