ここにいた

きほう

ここにいた

 ココがいないアトリエは、井戸の底みたいに深く、音がない。

 いつも通りの冷えた空気。

 絵の具と油の匂い。

 白いキャンバスが壁に寄りかかっている。

 キャンバスの真ん中には、灰色の毛並みに似た空白が沈んでいた。

 照明が、やけに明るく感じる。

 もう三週間も経つ。

 僕はブラシを握ったまま、動けないでいた。

 

 ──猫がいないと描けないの?


 昔、同業の友人に笑われた言葉が頭に響く。

 否定しようもなかった。

 ココがいなければ僕の絵じゃない。

 僕とココは二つで一人の、イラストレーターだった。


 イラストレーターとして名が出はじめたのは、美大生のころだ。

 ある日、ココはスタジオの外に生えた草の先を眺めていた。

 その先には、真っ赤なてんとう虫。

 たまに手で触れようとするが、遠慮したように手を引っ込める。

 愛おしい姿を焼き付けたかった。

 壁に腰を下ろし、急いで、けど邪魔しないように静かに描く。

 下書きができるたら、スタジオで仕上げ。

 平面の線に絵の具が乗ると、絵の中のココに命が宿る。

 本物のてんとう虫はもう飛んでいってしまったけど、 絵の中では今もココは興味深そうに赤い点を覗いていた。


 その絵が、SNSで思いがけず拡散された。

 たくさんの人たちから「かわいい」「最高」「もっと見たい」と言われ、僕たちは虚像の世界で少しだけ有名になっていった。

 そこからも、ココのおかげでとんとん拍子に仕事が舞い込んできた。

 雑誌の表紙に広告、グッズ。

 気づけば「猫絵師」と呼ばれていた。

 大きな仕事を片付けた日に、二人でしたささやかなお祝い。

 SNSのアイコンは、今でもその時のココのままだ。


 でも——

 ココは、もういない。



 ココとは、小学生の時に出会った。

 冷たい雨の日、公園の前に差し掛かると声が聞こえた。

 声の主を探して滑り台の下を覗き込むと、子猫が震えていた。

 ずぶ濡れで、今にも消えそうな、灰色の体。

 最初は怯えて警戒していたけど、手を差し伸べたらすぐに近寄ってきた。

 きっと、心細かったのだろう。

 ココを抱き抱えながら、濡らさないように気をつけて、家まで走った。

 傘を前に突き出していたから、ランドセルも靴もびしょ濡れになった。

 走った後の息苦しさと、胸に抱えた小さな温もりは、今でも昨日のことのように覚えている。


 僕の絵には、当たり前のように画面の端にココがいた。

 気まぐれでキャンバスに寝そべり、構図を壊し、尻尾でパレットを汚す。

 そのたびに僕は怒るふりで笑い、ブラシを握り直した。

 僕は導かれている。

 いや……ちがう。

 僕はただ、ココに甘えていたんだ。

 右手よりも自分に近い存在。

 僕たちは二人で、ひとつだったんだ。



 葬式はしなかった。

 動物病院で小さな骨壺に納められた灰を紙袋に入れたまま棚の奥へ押し込み、「まだ入院中」と自分に嘘をついた。

 死を口にすれば、現実になる気がして怖かった。

 今でもまだ、ココは部屋の隅で丸まって寝ている。

 そんな気がしていた。



 アトリエの隅、ココが最後に眠ったクッションと毛布を白い布で覆う。

 薄い布の先が瞼に浮かぶだけで、呼吸が荒くなる。

 目を逸らし、閉じる。

 滲む視界の先に、灰色のヴェールが浮かんでいた。


 それでも、時計の針だけは正確に回り続ける。

 朝七時に起き、ミルで豆を挽き、ドリッパーから細い湯が落ちる。

 出来上がった黒い液体を眺めながら、椅子に身体を沈めた。

 以前は毎朝、湯気の向こうでココが背伸びをし、尻尾でカップを揺らした。

 

 そんな当たり前も、今はない。

 観葉植物の葉は噛み跡一つなく艶やかで、床には絵筆一本転がっていない。

 整いすぎた静けさが、暗幕の降りた劇場のように部屋を覆った。




 ココがいた、最後の日。

 夜更けまで作業机にへばりつく僕の足元で、ココは一度も動かず、ただ丸くなっていた。

 名前を呼ぶと少しだけ尻尾が動いた。

 胸の内に灯った、小さな違和感。

 でも締め切りに追われていた僕は、筆洗いの水を替えることを選び、キャンバスを塗り重ねる方を選んだ。

 翌朝、微かな温もりを残して、静かに止まっていた。


 もしあの時、絵を置いて抱き上げていれば──変えられたのかもしれない。

 後悔が枕元に広がり、微睡に落ちることを許さない。

 僕の手は凍りつき、線を一本引くたびに罪悪感が滲む。

 筆の先を何かが押さえつけて、離さない。

 そして、絵を描くことができなくなった。



 雨の日。

 なんとなく、アトリエの隅の棚を開けた。

 転がり落ちた古いブラシの根元に、灰色の毛が絡まっている。

 瞬間、あの日の午後が目の前に浮かぶ。

 パレットを倒されて、ココが絵具まみれで逃げ回った日。

 「コラ!」と叫びながら追いかけて、結局笑ってしまった。


 床に広がる赤と青と灰色の混じった色。

 僕の人生で、いちばん鮮やかな事故。


 そのとき、声が聞こえた。

 耳の奥で、確かに揺れる。

 聞き慣れた音。

 絵を描き始める時に決まってかけてくれる、励ましのような鳴き声。


「ココ?」


 返事はない。

 だけど、わかってる。

 ブラシを握り、真っ白なキャンバスの前に立つ。

 白い布をめくれない手が震え、筆洗いの水が跳ねて床に黒い雫を撒いた。


 また、声が聞こえた。

 幻聴?

 例えそうでも構わない。

 確かにココの声だ。


 誇りを被っていたキャンバスに、筆を叩きつける。

 ココとの思い出でが絵の具に溶け込んでいく。

 線は歪み、色は滲む。

 灰色の空白。

 何かが形になっていく。


「ありがとう、ココ」


 声に出した途端、涙が筆先を濡らした。

 絵の具と水滴が激しくうねり、キャンバスを彩る。

 みっともない姿。

 けれど、手は止まらなかった。


 ココがいた部屋の光。

 毛並みの濁った影。

 僕を見上げる琥珀色の瞳。

 消えてしまった、けれど消えない思い出。

 自らの欠片。

 共に生きた日々。

 その一瞬を、描き続けた。




 雨の音が優しく響いている。

 いつのまにか、日付を跨いでいた。

 呼吸が浅く、指が痺れている。


 絵の中のココは、僕の足元に座り、首を傾げて何かを告げようとしていた。

 

「おかえり、ココ」


 その瞬間、アトリエの空気がわずかに震えた。

 

 鳴き声。

 振り向くと、白い布が風もないのにふわりと持ち上がり、静かに床へ落ちた。

 光の柱の中、毛布と小さなクッション。

 そこには誰もいない。

 ——いや、いた。




 声はもう、聞こえない。

 ただ、部屋の温度が少しだけ変わった。

 温かく、包み込むように。


 涙も言葉も出なかった。

 それでも胸の底に沈んでいた重石が、わずかに浮かび上がる。


 僕は、ひたすら描き続けた。

 絵の具が乾き切る前に、灰色の思い出をそっと重ねた。


 そして、一枚の絵が出来上がる。

 あの日の自分。

 あの日のココ。

 二人で微笑むように笑いあった、なんてことない1日。


「……ここに、いたんだね」


 キャンバスの上に、灰色の毛が一本、ゆっくりと落ちていった。

 それを拾い上げ、絵の左端にそっと合わせる。



 夜が明けはじめていた。

 窓を開けると、雨の匂いがアトリエに満たされる。

 ココが嫌いだった匂い。

 けど、僕たちの始まりの香り。

 僕の背中を押す、小さな吐息。


 絵の具が乾く頃、雨は上がった。

 柔らかい光が差し込み、風がアトリエの中を揺らす。

 水面がかすかに震えた。

 灰色の輪郭ゆらりと伸び、アトリエに影が伸びる

 アトリエが一枚の絵になった。

 光が、その縁をなぞってゆく。


 僕はゆっくりと、深く息を吸った。

 ココはもう、ここにはいない。

 それでも、僕はもう──筆を置くことはないだろう。


 ありがとう。

 僕たちは、ここで、いつも一緒だ。

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