予測可能な朝

@kamishibai

第1話 予測可能な朝

アラームが鳴る二秒前に目が覚めた。

 天井の薄い染みを数えて、呼吸を整える。息は深く、均一だ。乱れない。乱れる予定がない。


 カーテンを開ける。冬の光は硬い。空は晴れている。

 予報は見ない。見なくても困らない朝が、続いている。


 台所でケトルを火にかける。コーヒー豆は十七グラム。水は二百五十ミリリットル。計量スプーンは使わない。指先の記憶が正確だ。

 湯が沸くまでの時間で、ニュースの見出しだけを流し読む。結果だけでいい。理由はあとから付く。


 画面の端に、今日の通知が薄く浮かんでいる。


〈本日のリスク傾向:低〉

〈注意喚起:移動時の接触確率、平常〉

〈意思決定負荷:軽〉


 誰もが受け取るものだ。電気や水道と同じ、生活のインフラ。

 それを見て安心する人もいる。逆に、苛立つ人もいる。

 僕はどちらでもない。通知は気温と同じで、あるならあると受け取るだけだった。


 シャワーを浴び、髭を整え、スーツを着る。ネクタイは濃紺。コートの内側のポケットに、社員証と薄い手帳。

 玄関の鍵を閉めた瞬間、背後で電気が自動で落ちる。無駄がない。


 駅までの道は、いつもと同じ歩幅で歩く。

 歩いている間に、頭の中の一覧が勝手に並び替わる。今日処理する案件、昨日から繰り越した確認、午後の会議。

 全部、予定どおりに収まるはずだ。ここ十年、そうだった。


 ホームの電光掲示板に、遅延の表示が一つだけ出ている。


「運行調整(行動予測修正のため)」


 小さなため息が、どこかで漏れた。

 誰かの「今日」は、予定から外れたらしい。

 ただし、この世界では「外れる」こと自体が、あらかじめ用意された言葉で説明される。


 僕は列に並び、スマホをポケットに戻した。画面には何も映っていない。見る必要がない。

 動くか、待つか。それだけだ。待つほうが合理的だと示されている。だから待つ。


 電車は三分遅れで来た。

 三分は、人生に影響しない程度の誤差として許容されている。


 庁舎のエントランスは、朝でも静かだった。

 警備ゲートが僕の社員証を読み取り、体温を測り、歩幅の癖まで確認する。異常がないことを確認してから、扉が開く。


 運命統計庁――そう呼ばれている。

 正式名称はもっと長いが、誰も全部は言わない。言う必要がない。


 特別監査課は、地下二階にある。窓はなく、空調の音だけが一定に響く。

 ここにいると、時間の感覚が薄れる。昼と夜の違いも、天気も、街の匂いも。

 残るのは記録と数値だけだ。


 デスクに着くと、端末が自動で立ち上がり、今日のタスクを並べた。

 僕は一番上から処理する。順番に意味があるとは限らない。だが、順番を崩す理由もない。


 最初の案件は、三年前の交通事故。

 「不運な巻き込まれ」として片付けられているが、遺族が異議申立てを続けている。

 僕の仕事は、事故を捜査することではない。


 説明の点検だ。


 事故当日の行動ログ、周辺の混雑指数、当人のリスク通知の履歴。

 運命統計が示した「危険傾向」と、実際に起きた事象の整合性。

 誰が悪いかではなく、説明が破綻していないかを見る。


 画面の右側に、簡潔な結論が出る。


〈予測精度:基準値内〉

〈当該事象:許容誤差範囲〉


 許容誤差。

 便利な言葉だ。人が苦しむことと、制度が正しいことを同居させる。


「相変わらず、淡々としてるね」


 隣の島の同僚が、紙コップを片手に言った。顔を上げると、彼は軽い笑いを浮かべている。

 彼のほうが年上だが、僕に対して妙に砕けた口調を使う。距離の測り方を間違えているわけじゃない。彼なりの救い方なのだ。


「問題なさそう?」


「想定内です」


 僕が言うと、同僚は肩をすくめた。


「……想定外って、あるの?」


 返事をしなかった。

 ある。あるから監査が存在する。

 ただし、想定外は「起きる」より先に「説明」される。説明されない想定外は、許されない。


 次のタスクに移ろうとしたとき、端末が音を立てた。

 低い電子音。緊急連絡の合図だ。


 画面に表示された送信元は、現場連携室。

 僕の所属とは違う部署だが、特別監査課に直接連絡が来るときは、例外的な案件が多い。


 通話を開く。

 淡いノイズの向こうから、落ち着いた声がした。落ち着こうとしている声、と言ったほうが正確かもしれない。


『おはようございます。特別監査課、担当の方でお間違いないですか』


「はい」


『死亡事例が発生しました』


 そこまでは普通だった。

 この国では毎日誰かが死ぬ。統計も、制度も、その前提で回っている。


 しかし続く言葉が、空気を薄くした。


『ただし――予測上、該当者ではありません』


 僕は、二秒ほど画面を見たまま止まった。

 驚いているわけではない。

 ただ、情報の並び順が、いつもと違う。


「該当者ではない、とは」


『当該個体のリスク指標に、致死イベントの予兆がありません。重大他害、重大自損、事故死傾向、いずれも検出なし。突発要因も……』


 端末の別窓に、データが飛んできた。

 氏名、年齢、住所、職歴。顔写真。

 そして、運命統計が付与する各種指標。


 数字は整っていた。整いすぎている。


〈重大他害リスク:検出なし〉

〈重大自損リスク:検出なし〉

〈事故死確率:極低〉

〈突発的死因:該当なし〉


 人は、そんなに綺麗に生きない。

 だが、このシステムの上では、生き方は綺麗な線で描かれる。線の荒れは補正され、読みやすい形に整えられる。


『現場としては、まず状況確認を。警察は――』


「場所は」


 僕が遮ると、向こうの声が一瞬止まった。

 それから住所が告げられる。都内。

 庁舎から車で二十分。時間帯も悪くない。


「担当の警察署は」


『すでに入っています。ただ、向こうも……困っているみたいです。死因がまだ確定していないので』


「分かりました。こちらで確認します」


 通話を切る。

 同僚がこちらを見ていた。


「何かあった?」


「死亡事例です」


「へえ。珍しくないじゃん」


「該当者ではない」


 同僚の笑いが止まった。

 彼は僕の画面を覗き込み、眉をひそめる。


「……マジで? この指標で?」


「はい」


 指標の下に、小さなリンクがある。

 通常の閲覧権限では開けない領域へのリンクだ。

 そこにあるのは、表示されない情報。

 非表示の理由は、いくつかある。社会不安、差別誘発、暴動リスク、自己成就……人は未来を知ると壊れることがある。


 僕はカーソルをリンクの上に乗せた。

 アクセス権限を要求するポップアップが出る。

 僕は自分のIDを入力し、二段階認証を通す。


「……表示、全部出して」


 同僚が、小さく息を吸った。


「全部って。そんなの、普段でも出さないだろ」


「普段じゃない」


 許可が降りるまでの数秒が、やけに長かった。

 画面の白さが目に刺さる。


 やがて、非表示領域が開いた。


 そこには、数値ではなく、文章があった。

 短い。だが、必要な語だけが、抜け落ちないように結びつけられている。


〈条件付き致死イベント:あり〉

〈条件:特定接触/特定場所/特定時間帯〉

〈当該条件の周知:非推奨〉

〈理由:自己成就リスク高〉


 僕は、画面を閉じなかった。閉じる理由がない。

 ただ、胸の奥で、何かがわずかに擦れる感覚があった。


 ――条件付き。


 つまり、死は最初からあった。

 ただし、表示されていなかった。


 現場に向かう準備をしながら、僕はコートのポケットに手を入れた。

 手帳の端が指に触れる。紙の感触は現実に近い。

 同僚が後ろから言った。


「ねえ。これ、どういうことになるの?」


「分かりません」


 僕は嘘をつかなかった。

 ただ、言い切らなかった。


 現場に向かうエレベーターの中で、鏡に映る自分を見た。表情は変わっていない。

 変え方を知らないわけじゃない。変える必要がない。


 扉が開く。地上の空気は冷たく、乾いている。

 外の世界はいつも通りだ。人が歩き、車が走り、広告が未来を売っている。


 僕は歩きながら、さっきの文を頭の中で反芻した。


 予測不能な死ではない。

 予測されなかった死だ。


 その違いが、誰かを救うのか、それとも――。

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2025年12月31日 20:00
2026年1月2日 20:00
2026年1月4日 20:00

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