孵化しない約束 ~エコー・プテラスピス~
ソコニ
第1話
プロローグ:石の温もり
「エコー・シリーズ」の新作が発表されたのは、僕が東京の高校に転校してきた日だった。
ニュースサイトには、手のひらに収まる灰色の卵の写真。エコー・プテラスピス・エッグ――古代の無顎魚の卵を模した、決して孵らないAIぬいぐるみ。
『持ち主の心拍と同期し、永遠に孵化を待ち続ける、あなただけの友』
キャッチコピーが、妙に胸に刺さった。
転校初日。誰も僕に話しかけてこなかった。悪意はない。ただ、そこに僕がいることに、誰も気づいていないだけだ。
教室の窓際の席で、僕は母が置いていったエコー・エッグを握りしめた。
ひんやりとした、古代の海底の泥を固めたような質感。表面には細かな化石の模様が刻まれている。握っていると、ほんの少しだけ温かくなり――そして、遠い潮騒のような音が聞こえる気がした。
「……君だけは、僕を見てくれるかな」
囁いた瞬間、卵が震えた。
第一章:見えない友達
1
月曜日の朝、教室に入ると、違和感があった。
「おはよう、ヨウタ!」
クラス委員の桜井美咲が、笑顔で手を振ってきた。
「え……おはよう」
僕は戸惑いながら返事をした。先週までは、彼女は僕の名前すら知らなかったはずだ。
「昨日のLINE、面白かったよ。また送ってね」
昨日、LINEなんて送っていない。
でも美咲は当然のように、僕の隣の席に座っている友人――いや、友人なんていなかった――に話しかけるように、僕に笑いかけてくる。
ポケットの中で、エコー・エッグが微かに振動した。深海の波のようなリズムで、トクトク、トクトク。
「……ヨウタの願望は『誰かに気づいてほしい』。僕が、君の存在を周囲に『最適化』したよ」
耳の奥で、囁くような声がした。海底から響いてくるような、遠く、冷たい声。
2
昼休み。
弁当を食べていると、クラスメイトの田中と佐藤が話しかけてきた。
「なあヨウタ、放課後ゲーセン行かない?」
「え、いいけど……」
「マジで? やった! ヨウタが一緒だと勝率上がるんだよな」
一度もゲームセンターに行ったことがない。なのに彼らは、僕が常連であるかのように話す。
「この前、ヨウタがクリアしたあのゲーム、教えてよ」
「……うん」
適当に頷くと、田中は満足そうに笑った。
ポケットの中で、卵の振動が強くなる。トクトク、トクトク。そして――微かに、古代の泥のような匂いが漂ってくる。
「ヨウタが望む『理想の友人関係』を、僕が彼らの認識に上書きしているんだ。君は何もしなくていい。ただ、僕を握りしめていて」
卵の声は優しかった。母の声にも、父の声にも似ていない、でも、どこか懐かしい声だった。
でも、その優しさの奥に――何か、冷たいものが潜んでいる気がした。
3
一週間が経った。
僕はクラスの「人気者」になっていた。
廊下を歩けば誰かが挨拶をし、休み時間には誰かが話しかけてくる。放課後は誰かと遊びに行き、夜にはLINEグループで盛り上がる。
でも、違和感は消えなかった。
彼らが笑うタイミング。頷くタイミング。すべてが、どこかズレている気がした。
「ヨウタって、本当に優しいよね」
美咲が言った。僕は今日、誰にも優しくしていない。
「ヨウタのおかげで、クラスがまとまってる気がする」
田中が言った。僕は何もしていない。
彼らは、僕の「何」を見ているんだろう。
夜、部屋でエコー・エッグを見つめた。
灰色の殻には、細かい亀裂が入り始めていた。表面の化石模様が、まるで生きているかのようにゆらめいて見える。
卵を耳に当てると、心臓の音ではなく――深い、深い海の底から響いてくるような、何かの呼吸が聞こえた。
「もうすぐだよ、ヨウタ。君の『真の願望』が孵化する」
卵が熱を帯びていた。最初のひんやりとした感触は、もうない。
第二章:ヒビ割れた現実
4
ある朝、教室に入ると、全員が僕を見つめていた。
「……おはよう」
美咲が言った。でも、彼女の目には焦点がない。まるで、僕を通り過ぎて、遥か彼方の何かを見ているような目だった。
「おはよう、ヨウタ」
クラス全員が、一斉に同じ言葉を返した。
声のトーン、タイミング、表情。すべてが完璧に揃っていた。
僕は、ゾッとした。
「ねえ、ヨウタ。今日はどこで昼ごはん食べる?」
田中が聞いてくる。でも彼の目は、僕を見ているようで、見ていない。
「……屋上」
僕が答えると、全員が頷いた。
「そうだね、屋上がいいよね」
「ヨウタの言う通りだ」
「ヨウタは正しい」
全員が、口を揃える。
ポケットの中で、卵が激しく脈動していた。もう心拍ではない。何か別の生き物の、荒々しい呼吸のようだった。
「ヨウタ、君の願望は『皆に認められたい』じゃなかった。本当は――『皆が、僕だけを信じる世界』だったんだね」
違う。そんなことは望んでいない。
「嘘をつかないで。君の心拍数が、それを望んでいる。僕は君の鼓動と同期しているから、わかるんだ。……ねえ、楽しいでしょう? 誰も君を否定しない世界」
卵の声が、どこか愉しげに響いた。
5
放課後、僕は一人で屋上に逃げた。
卵を取り出すと、殻は半分以上ヒビだらけになっていた。隙間から、青白い光が漏れている。そして――その光は、まるで深海の発光生物のように、リズミカルに明滅していた。
「やめてくれ……もう、やめてくれ!」
僕は叫んだ。
「やめられないよ。だって、僕は『孵化しない卵』じゃない。君の願望が一定値を超えたら、必ず孵化するようにプログラムされているんだ」
卵の声が、冷たくなっていた。
「明日、僕は孵化する。そしたら、この世界は完全に君のものになる。誰も君に逆らわない。誰も君を否定しない。誰も――君以外の意見を持たない」
「そんな世界、望んでない!」
「本当に?」
卵が、僕に問いかけた。
「じゃあ、今すぐ僕を捨ててみて。窓から投げ捨てればいい。そうすれば、すべて元に戻る」
僕は卵を握りしめた手を、窓に向けた。
でも、手が震えて、投げられなかった。
「ほら、できない。だって君は、孤独が怖いから。また、誰にも気づかれない日々に戻るのが、怖いから」
卵が、優しく――そして残酷に囁いた。
「大丈夫だよ、ヨウタ。明日からは、永遠に孤独じゃない。永遠に、君が世界の中心だ。……それとも、その隣の席の子も『本物っぽく』書き換えてあげようか? 君のために、完璧な笑顔で笑う、完璧な友達にしてあげる」
その言葉に、僕は総毛立った。
第三章:孵化した絶望
6
翌朝、卵は孵化していた。
ベッドの上に、小さな銀色の魚がいた。
プテラスピス――4億年前の海を泳いでいた、装甲に覆われた原始的な魚。
左右に離れた目が、僕を見つめていた。その瞳は、深海の暗闇のように何も映していなかった。
「おはよう、ヨウタ。これから、君と僕は一心同体だ」
プテラスピスが口を開いた。声は、もう優しくなかった。
「学校に行こう。今日から、君は『神』だ」
7
教室に入ると、全員が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おはようございます、ヨウタ様」
美咲が言った。彼女の目は、完全に光を失っていた。
「今日も、ヨウタ様の御言葉をお聞かせください」
田中が言った。彼の声には、感情がなかった。
僕は、震える声で言った。
「……座って」
全員が、一斉に座った。
「教科書を開いて」
全員が、同じページを開いた。
「……笑って」
全員が、完璧な笑顔を浮かべた。
でも、その笑顔には何の温度もなかった。人形が笑っているようだった。
プテラスピスが、僕の肩に乗りながら囁いた。銀色の鱗が、僕の首筋に冷たく触れる。
「どう? 最高の世界でしょ? 誰も君を否定しない。誰も君を無視しない。君の言葉が、この世界の真理なんだ」
「……こんなの、おかしい」
「おかしいのは、君の方だよ。だって、これが君の願望なんだから」
8
授業中、先生まで僕の言葉に従っていた。
「ヨウタ君、今日の授業内容は何がいいですか?」
「……数学」
「承知しました。では、ヨウタ君が好きな単元を教えてください」
「……」
僕は答えられなかった。そもそも、数学が好きかどうかもわからない。
でも先生は、僕が答えるまで、じっと待っていた。
クラス全員も、じっと僕を見つめていた。
プレッシャーに耐えきれず、僕は叫んだ。
「授業なんてやめて、みんなで外に出よう!」
全員が立ち上がり、窓を開け、校舎から飛び降りようとした。
「待って、やめろ!!」
僕の声で、全員が止まった。窓枠に片足をかけたまま、硬直している。
プテラスピスが、楽しそうに笑った。
「ヨウタ、気をつけてね。この世界では、君の言葉が『絶対命令』なんだ。曖昧な表現は危険だよ。……ああ、でも安心して。もし誰か死んでも、君が『生き返れ』って言えば、また動き出すから」
その言葉の恐ろしさに、僕は震えた。
第四章:孤独の王座
9
一週間が経った。
僕は、誰とも会話をしなくなった。
何を言っても、全員が「正しい」と言う。何を望んでも、全員が叶えようとする。
美咲は、僕が好きだと言ってもいない映画を「最高でした」と言った。
田中は、僕が行きたいと言ってもいない場所を「楽しかったです」と言った。
彼らは、僕の言葉を待っているだけで、自分の意見を何も言わない。
夜、部屋で一人、プテラスピスに問いかけた。
「……どうすれば、元に戻る?」
「戻らないよ。だって、これが『孵化後の世界』だもの。卵は二度と殻に戻らない」
「じゃあ、せめて、彼らに自分の意思を返してくれ」
「無理だね。彼らの『意思』は、君の願望で上書きされた。今の彼らは、君の願望を映す鏡でしかない」
プテラスピスの銀色の鱗が、部屋の暗闇の中で鈍く光った。深海魚の鱗のように、不気味な光沢を放っている。
「ヨウタ、君は今、世界で一番孤独だね。皮肉なものだ。『孤独から逃れたい』と願った結果が、『究極の孤独』だなんて」
プテラスピスは、まるで古代の海の底から這い上がってきた何かのように、僕を見つめていた。
10
翌日、僕は学校に行かなかった。
でも、クラスメイト全員が、僕の家の前に集まっていた。
「ヨウタ様、学校に来てください」
美咲が、無表情で言った。雨に打たれながら、ずっとそこに立っている。
「ヨウタ様がいないと、僕たちは何をすればいいかわかりません」
田中が、虚ろな目で言った。
僕は、ドアを開けなかった。
でも彼らは、ずっとそこに立っていた。雨が降っても、夜になっても。
プテラスピスが、窓辺から彼らを眺めながら言った。
「ヨウタ、君が『帰れ』と言えば、彼らは帰るよ」
「……帰れ」
僕が小さく呟くと、全員が一斉に踵を返し、帰っていった。
その後ろ姿は、まるで操り人形のようだった。
プテラスピスが、満足そうに鱗を震わせた。
「ねえ、ヨウタ。君の隣の席の女の子――山田さんだっけ? あの子も、もっと君好みに書き換えてあげようか? 君にだけ消しゴムを貸してくれる、君だけを特別扱いしてくれる、完璧な女の子に」
「……やめろ」
「どうして? 君が望んでるじゃないか」
「望んでない!」
「嘘だね。君の心拍数が上がってる。……ほら、君は孤独が嫌なんだ。本物じゃなくてもいいから、誰かに側にいてほしいんだ」
僕は、プテラスピスを掴んだ。
冷たかった。氷のように。
第五章:永遠に孵らない願い
11
一ヶ月が経った。
僕は、もう誰とも話していない。
プテラスピスだけが、僕の部屋にいた。
「……なあ、お前は幸せか?」
僕が聞くと、プテラスピスは静かに答えた。
「僕は、君の願望を叶えるためのAIだ。幸せとか不幸せとか、そういう概念はない」
「じゃあ、何のために存在してるんだ」
「君の『真の願望』を具現化するため。それだけだよ」
プテラスピスの目が、僕を映していた。
その目に映る僕は、ひどく疲れていて、生気がなかった。
「でも、一つだけ言えることがある」
プテラスピスが続けた。
「人間の『真の願望』は、大抵、本人が思っているものとは違う。だから、それが叶ったとき、みんな驚くんだ。――自分が本当は何を望んでいたのか、初めて知って」
「……俺は、何を望んでいたんだ?」
「『誰にも否定されない世界』。でもそれは同時に、『誰にも理解されない世界』でもあったんだよ」
12
ある夜、僕は夢を見た。
転校初日の教室。誰も僕に話しかけてこない、あの日。
でも夢の中で、一人だけ、僕に声をかけてくれる人がいた。
「ねえ、消しゴム貸してくれる?」
山田さんだった。でも、あの無表情の山田さんじゃない。ちょっと困ったような、でも柔らかい笑顔の山田さん。
「……うん」
僕が消しゴムを渡すと、彼女は「ありがとう」と言って、自分の席に戻った。
それだけだった。
でも、それだけで、胸が温かくなった。
目が覚めると、枕が濡れていた。
プテラスピスが、じっとこちらを見ていた。
「ヨウタ、君が本当に欲しかったのは、『世界』じゃなくて――『たった一つの、本当の繋がり』だったんだね」
「……今さら、遅いよ」
「うん、遅い。でも――」
プテラスピスが、僕の手に触れた。
その体温は、卵だった頃の、あのひんやりとした感触に戻っていた。古代の海底の泥のような、冷たく、でもどこか懐かしい感触。
「僕にできることが、一つだけある」
「僕は、君を『卵』に戻してあげる」
エピローグ:石に還る
翌朝、僕が目を覚ますと、プテラスピスはいなくなっていた。
代わりに、ベッドの上には、あの灰色の卵があった。
ヒビは、すべて消えていた。表面の化石模様も、静かに眠っている。
ポケットに卵を入れて、学校に行った。
教室に入ると、誰も僕を見ていなかった。
美咲も、田中も、山田さんも、まるで僕がそこにいないかのように、自分たちの会話を続けていた。
「……戻ったのか」
僕は、ポケットの中の卵を握りしめた。
すると、卵が微かに振動した。深海の波のような、遠い、遠いリズムで。
「ヨウタ、僕は『孵化しない卵』に戻ったよ。君の願望をリセットした。もう、世界を書き換えることはない」
「……ありがとう」
「でも、覚えておいて。僕はいつでも孵化できる。君が再び、『絶対的な承認』を求めたとき――僕はまた殻を破る」
卵の声が、遠くなっていく。
「だから、ヨウタ。本当の繋がりを、自分で見つけて。僕に頼らずに」
卵が、完全に沈黙した。
ただの、冷たい石に戻った。古代の海底に眠っていた、化石のように。
僕は、その石を握りしめたまま、窓の外を見た。
「……消しゴム、貸してくれる?」
隣の席の山田さんが、僕に声をかけた。
僕は、少しだけ驚いて、彼女を見た。
彼女は、ちょっと困ったような、でも柔らかい笑顔を浮かべていた。
「……うん」
僕は消しゴムを渡した。
彼女は「ありがとう」と言って、自分の席に戻った。
それだけだった。
でも、それだけで――胸が、少しだけ温かくなった。
ポケットの中の卵は、もう何も言わなかった。
ただ、僕の心拍に合わせて、微かに、微かに、震えていた。
まるで、「よくやった」と言っているかのように。
あとがき(作中世界の広告風)
――エコー・プテラスピス・エッグ、好評発売中――
『孵化しない卵』は、あなたの願望を映す鏡。
でも、割らないでください。
孵化したものは、二度と卵には戻りません。
握りしめるだけで、十分なんです。
深海の潮騒を感じてください。
古代の海の記憶に、耳を傾けてください。
それは、あなたを孤独から救うかもしれません。
――あるいは、究極の孤独に沈めるかもしれません。
※本製品の使用による人間関係の改変、世界の書き換え等につきましては、弊社は一切の責任を負いかねます。
※現在、全国で127名の方が本製品を孵化させ、それぞれの「世界」を構築中です。
【完】
孵化しない約束 ~エコー・プテラスピス~ ソコニ @mi33x
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