海の母

楢原由紀子

前編:発見

 「ママ?どうしたの?」

多くの犠牲を伴った長い大戦が終わり、イギリスは平和を取り戻した。

犬の散歩をする者や子連れの大人たちが海岸沿いにちらほらと見受けられる。

以前と変わらぬ日常の姿がそこにあった。

波打ち際の親子連れ自体はよくある光景だった……しょっちゅう立ち止まり、何かを拾い上げるのが子どもではなく母親の方であることを除けば。


 結い上げられた暗褐色の髪、襟付きのピンとしたシャツ、眼鏡の奥の鋭い眼差し。

女性は手のひらに乗せた貝を凝視する。貝殻の内側に一見黒いもやのように見えるものが広がっていた。

「もしかしたら、これが……!空白を埋める答えなのかもしれない……!」

もの問いたげな子の視線にも気付かず、四十路の女性は興奮を抑え切れない声で呟いた。



 「また今年も台風か……」

「ようやく戦争が終わったと思ったら神も仏もないのう……」

「借金して揃えたノリヒビが全滅だ。もう海苔採りは諦めるしかねえな……」

打ち上げられた流木と原形を留めぬ無数の残骸が暴風雨の凄まじさを物語る。台風一過の有明海の浜辺に荒涼とした景色が広がっていた。

その惨状を前に海苔漁師たちが力なく肩を落とす。

熊本県の水産試験場かがみ分場ぶんじょうで働く技師、太田は彼らの姿を見つめながら言葉もなく奥歯を噛みしめた。


 ――海苔が養殖できさえすれば……!このままでは海苔漁は滅びるしかない。有明海の営みが、日本の海苔産業が崩壊してしまう……!!――

若者は拳をきつく握りしめた。



 「ママ!卵の殻の薄膜3個取ったよ!!」

「私は2つ!!」

「もうそんなに?すごい、いっぱい培養できるわね。ママ助かるわ!」

「ねえ、ママが描いてる迷路みたいな絵はなに?」

「これはコンコセリス。赤ちゃんの海藻ね」

「コン……?」

子どもたちは耳慣れない音に眉を下げ、口をもごもごさせる。

女性は柔らかい表情で微笑んだ。



 「太田君!太田君!!ここに居たのか!」

「おはようございます、瀬川先生。血相変えてどうされました?」

水槽の前で太田は首を傾げる。

九州大学の瀬川助教授(現在の准教授)は太田の腕をぐいぐい引っ張り隅に連れて行くと、もどかしそうに懐から折りたたんだ紙片を取り出す。

「マンチェスター大学で藻類を研究しているドゥルー博士から手紙が届いた。太田君、これは凄い発見だぞ……!!」

瀬川は一旦呼吸を整え、言葉を続ける。

「ひょっとしたら……上手くいけば……海苔を養殖できるようになるかもしれない!!」

「なんですって⁉」

太田は目を見開く。


 「こちらは私が急ぎ訳したものだ、君に進呈する。彼女の手紙の要点はこうだ」

瀬川の声に盛岡訛りが混じる。彼が夢中になっている証しだった。

「イギリスの海岸で拾った貝殻にポルフィラ・ウンビリカーリス(アマノリの一種)の幼体が付着していた。彼女の故郷、ウェールズで食用されている海藻だ。自宅に持ち帰り、顕微鏡で観察したところ、穿孔性せんこうせい藻類そうるいの新種と見做されてきたコンコセリス・ロゼアに酷似していた。

そこで、ノリの果胞子かほうしを卵の殻で培養したところ、果胞子は殻に穴をあけ、潜って糸状に成長し、殻胞子かくほうしを放出した。日本の海苔もそのようにして成長し、ノリ芽になるのではないか、と……!」

「それは……!!」

太田は雷に打たれたように立ち尽くす。

瀬川が引率してきた大学生たちは放置され、手持無沙汰に分場の中をうろうろしていた。

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海の母 楢原由紀子 @ynarahara

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