第37話「桜の下で」
三月三十日。
ファーティマが日本を離れる日が来た。
桜が咲き始めていた。去年の四月、彼女が転校してきた時と同じように。季節は巡り、一年が過ぎようとしている。
俺は朝早く家を出た。空港まで見送りに行くためだ。
電車に揺られながら、この一年を振り返っていた。
黒いヒジャブを纏った転校生。最初は何も知らなかった。イスラムのことも、UAEのことも、彼女のことも。
でも今は違う。
彼女の全てを知っている。彼女の笑顔も、涙も、強さも、弱さも。
そして、彼女を愛している。
* * *
成田空港の国際線ターミナル。
ファーティマの家族は、すでに到着していた。
アフマドさん、ライラさん、ユーセフ。そして、ファーティマ。
みんな、旅立ちの準備を整えている。
「湊さん、来てくれたんですね」
アフマドさんが声をかけてきた。
「はい。最後まで見送りたくて」
「ありがとう。娘も喜びます」
ファーティマは、チェックインカウンターの近くで何かを探していた。俺の姿を見つけると、顔が明るくなった。
「湊!」
彼女は駆け寄ってきた。今日は白いヒジャブに、淡いピンクのワンピース。春らしい装いだった。
「来てくれたのね」
「当たり前だろ」
「嬉しい」
彼女の目が、少し潤んでいた。
泣くな、と言いたかったが、俺も泣きそうだった。
「少し、二人で話してきていいですか」
ファーティマが両親に聞いた。
「ええ、いいわ。でも、搭乗時間には戻ってきなさい」
ライラさんが答えた。その目は優しかった。
「ありがとう、お母様」
俺たちは、空港の端にあるベンチに向かった。窓の外には、滑走路が見える。飛行機が次々と離陸していく。
「いよいよだな」
「ええ」
ファーティマは窓の外を見ていた。
「一年前、この空港に降り立った時のこと、覚えてる」
「覚えてないよ、俺はいなかったから」
「そうね」
彼女は少し笑った。
「あの時は不安だったわ。知らない国、知らない言葉、知らない文化。やっていけるのか、わからなかった」
「……」
「でも今は違う。日本が大好きになった。この国で過ごした一年は、私の宝物」
ファーティマは俺を見た。
「そして、湊。あなたに出会えたことが、一番の宝物」
「ファーティマ……」
「ありがとう、湊。私を受け入れてくれて。私の世界を理解しようとしてくれて」
俺は首を横に振った。
「礼を言うのは俺の方だ」
「え?」
「お前に会って、俺は変わった。世界が広がった。知らないことを知る楽しさ、誰かを大切に思う気持ち。全部、お前が教えてくれた」
「湊……」
「だから、ありがとう。俺の人生を変えてくれて」
ファーティマの目から、涙がこぼれた。
「泣くなって言ったのに」
「泣いてないわ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわ。これは……これは……」
言葉が続かない。彼女は泣きながら笑っていた。
「ずるいわよ、湊。そんなこと言われたら、泣くに決まってるじゃない」
「悪い」
「悪くないわ。嬉しいの。すごく」
俺は彼女の涙を拭った。柔らかい頬。温かい肌。
「離れたくない」
ファーティマが呟いた。
「俺も」
「でも、行かなきゃ」
「ああ」
「待っててくれる?」
「何度も言っただろ。何年でも待つ」
「本当に?」
「本当だ」
俺は彼女の手を取った。
「必ず、また会おう」
「うん」
「アブダビに会いに行く。大学でアラビア語を勉強して、お前の国に行く」
「待ってるわ」
「約束だ」
「インシャアッラー」
「神が望めば、だな」
「ええ。でも——」
ファーティマは俺の手を握りしめた。
「私たちも望んでる。だから、きっと叶う」
「そうだな」
俺たちは見つめ合った。
言葉はもう必要なかった。
* * *
搭乗時間が近づいていた。
俺たちは家族のところに戻った。
「そろそろ行かないと」
アフマドさんが言った。
「湊さん、娘をよろしくお願いします」
「はい」
「遠くにいても、心は繋がっています。忘れないでください」
「忘れません」
ライラさんが俺の前に立った。
「湊さん」
「はい」
「娘を、お願いしますね」
「必ず、幸せにします」
ライラさんは微笑んだ。一年前には想像もできなかった、穏やかな笑顔。
「待っていますよ。アブダビで」
「はい。必ず行きます」
ユーセフが俺に近づいてきた。
「湊さん」
「ユーセフ」
「姉さんのこと、よろしくね」
「ああ。任せろ」
「約束だよ」
「わかってる」
ユーセフはにっと笑った。
「また、ゲームしようね。オンラインで」
「ああ。待ってるよ」
最後に、ファーティマが俺の前に立った。
「湊」
「ファーティマ」
「最後に、一つだけ」
彼女は俺の目を見つめた。
「私、日本に来て本当に良かった。湊に会えて、本当に良かった」
「俺も」
「愛してる、湊」
「俺も愛してる、ファーティマ」
彼女は俺を抱きしめた。強く、強く。
「マアッサラーマ」
さようなら。また会う日まで。
「マアッサラーマ」
俺も返した。練習したアラビア語で。
彼女は離れて、家族と一緒にゲートへ向かった。
何度も振り返りながら、手を振りながら。
やがて、彼女の姿が見えなくなった。
俺は一人、その場に立ち尽くしていた。
* * *
空港を出ると、桜が咲いていた。
満開には少し早いが、ピンク色の花が枝を飾っている。
一年前を思い出した。
教室の窓から見えた桜。転校生の彼女。黒いヒジャブに舞い落ちた花びら。
あの日から、全てが始まった。
スマホが震えた。ファーティマからのメッセージだった。
『飛行機、離陸したわ』
『気をつけてな』
『うん。湊、窓の外を見て』
『窓?』
『飛行機から、桜が見えるの。ピンク色の点々が、たくさん』
『そうか』
『去年、あなたと初めて見た桜。覚えてる』
『覚えてる』
『綺麗だったわね』
『ああ』
『来年も、一緒に見たいわ』
『見よう。約束する』
『待ってるわ』
『俺も待ってる。お前に会える日を』
しばらく間があった。そして、最後のメッセージが届いた。
『大好き、湊。ずっと』
『俺も。ずっと』
俺はスマホをしまい、空を見上げた。
飛行機が、遠くの空を飛んでいく。どんどん小さくなって、やがて見えなくなった。
彼女は行ってしまった。
でも、終わりじゃない。
俺たちの物語は、ここから始まる。
距離は離れても、心は繋がっている。
桜の花びらが、風に舞った。
ピンク色の花びらが、俺の頬を撫でていく。
来年の春、また桜が咲く頃。
俺は彼女に会いに行く。
そう心に誓って、俺は歩き出した。
空は青く、桜は美しく、風は優しかった。
新しい季節が、始まろうとしていた。
砂漠のお嬢様は日本がお気に召さない? えどりゅう @tarodragon
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