第36話「母の涙」
三月下旬。
ファーティマの帰国まで、あと一週間を切っていた。
荷造りが始まり、彼女の部屋は段ボール箱で埋まっているらしい。一年間で増えた思い出の品々。その全てを、アブダビに持ち帰る。
俺は、できるだけ彼女と過ごす時間を作っていた。放課後、休日、少しでも空いた時間があれば会った。
そんな日々の中、ファーティマから連絡が来た。
『母が、湊に会いたいって』
『ライラさんが?』
『ええ。最後に話したいことがあるみたい』
最後に。その言葉が、胸に刺さった。
『わかった。いつ行けばいい?』
『明日の午後、うちに来て』
『了解』
ライラさんが、俺に何を言いたいのか。不安と緊張が入り混じった気持ちで、俺は翌日を待った。
* * *
土曜日の午後。
俺はファーティマの家を訪れた。
玄関で出迎えてくれたのは、ファーティマだった。
「来てくれたのね」
「ああ」
「母、リビングにいるわ。私は席を外すから」
「お前は一緒にいないのか?」
「母が、二人で話したいって」
二人で。緊張が増した。
リビングに入ると、ライラさんがソファに座っていた。
前回会った時とは、また少し印象が違っていた。厳しさは薄れ、どこか寂しげな雰囲気がある。
「座りなさい」
「失礼します」
俺は向かいのソファに座った。
しばらく、沈黙が続いた。
「湊さん」
ライラさんが口を開いた。
「はい」
「帰国まで、あと一週間です」
「……はい」
「娘と、正式に付き合っているそうですね」
「はい。先日、告白しました」
「聞きました」
ライラさんの表情は読めなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか。
「遠距離になっても、関係を続けるつもりですか」
「はい。何年かかっても、ファーティマさんのそばにいたいです」
「……」
ライラさんは窓の外を見た。三月の青空が広がっている。
「娘は、幸せそうですね」
「え?」
「あなたと一緒にいる時。とても幸せそう」
意外な言葉だった。ライラさんの口から、そんな言葉が出るとは。
「私は、ずっと反対していました」
「……はい」
「娘が傷つくのが怖かった。外国の男の人と付き合って、うまくいかなくて、悲しい思いをするんじゃないかって」
「……」
「でも、あなたを見ていて、少し考えが変わりました」
ライラさんは俺の方を向いた。
「あなたは、本気で娘を大切にしてくれている。それは、わかります」
「ありがとうございます」
「でも——」
彼女の声が、少し震えた。
「それでも、やはり不安なのです」
「不安……」
「娘が日本に残して行くもの。あなたとの思い出。それが、娘を苦しめるのではないかと」
ライラさんの目が、潤んでいた。
俺は驚いた。あの厳しいライラさんが、涙を見せている。
「遠距離は、辛いものです。会えない時間、募る寂しさ。私にも経験があります」
「経験……?」
「夫と結婚する前、夫はドバイで働いていて、私はモロッコにいました。二年間、遠距離でした」
初めて聞く話だった。
「毎日が辛かった。会いたくて、声を聞きたくて。でも、簡単には会えない。何度も諦めようと思いました」
「……」
「でも、夫は諦めなかった。何度も手紙をくれて、電話をくれて。いつか一緒になろうと、言い続けてくれた」
ライラさんの涙が、頬を伝った。
「だから、わかるのです。遠距離の辛さも、それを乗り越えた時の喜びも」
「ライラさん……」
「あなたに、それができますか」
彼女は俺を見た。涙を流しながら、真剣な目で。
「何年も待てますか。娘のために」
「待てます」
俺は迷わず答えた。
「何年でも待ちます。ファーティマさんは、俺の全てですから」
「……」
「遠距離は辛いと思います。でも、諦めません。ライラさんとアフマドさんが乗り越えたように、俺たちも乗り越えます」
ライラさんは目を閉じた。
涙が、次々とこぼれ落ちる。
「お母様」
いつの間にか、ファーティマがリビングの入り口に立っていた。
「ファーティマ……」
「話、聞こえてた。ごめんなさい」
ファーティマは母親のそばに歩み寄り、隣に座った。
「お母様、私は大丈夫よ。湊がいてくれるから」
「でも——」
「お母様とお父様が乗り越えたように、私たちも乗り越える。信じて」
母と娘が、見つめ合った。
ライラさんは、娘の顔をそっと撫でた。
「あなたは、私より強いわね」
「お母様の娘だもの」
「……そうね」
ライラさんは微笑んだ。涙で濡れた顔で、優しく。
「湊さん」
「はい」
「娘を、お願いします」
その言葉に、俺は深く頭を下げた。
「必ず、幸せにします」
「約束ですよ」
「はい。約束します」
ライラさんは立ち上がり、俺の前に来た。
そして——。
俺の両手を取った。
「ありがとう。娘を愛してくれて」
「いえ——」
「あなたなら、信じられます。娘を任せられます」
ライラさんの手は、温かかった。
あの厳しかった人が、今は穏やかな顔をしている。
「私も、応援しています。あなたたちのことを」
「ありがとうございます、ライラさん」
ファーティマが、母親に抱きついた。
「お母様……」
「泣かないの。あなたは強い子でしょう」
「お母様が泣いてるから……」
「これは、嬉し涙よ」
母と娘が抱き合っている。
俺は、その光景を見ながら、胸が熱くなった。
長い道のりだった。
最初はあれほど反対していたライラさんが、今は俺たちを認めてくれている。
一年前には想像もできなかったことだ。
「湊」
ファーティマが俺を呼んだ。
「こっちに来て」
俺は二人のそばに歩み寄った。
ファーティマが俺の手を取り、ライラさんの手に重ねた。
「三人で、約束しましょう」
「約束?」
「また、みんなで会おうって」
ライラさんは微笑んで頷いた。
「ええ。約束しましょう」
「必ず」
俺も頷いた。
「必ず、また会います」
三人の手が重なった。
約束が、交わされた。
窓から差し込む光が、俺たちを照らしていた。
春の光。新しい始まりの光。
終わりじゃない。
これは、始まりなのだ。
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