第5話:複雑な事情



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## **『蜃気楼:残影(Reverberations)』**


### **第五話:複雑な事情**


富樫は、海の家の中へ足を踏み入れた。ストーブの熱気が、湿った空気と共に富樫の顔を包む。彼は、毛布にくるまれた慶太の横で立ち止まり、その顔を覗き込んだ。その表情は、やはり無感情に近い。


悦司は、富樫の背後で固唾を飲んで見守っていた。富樫の出現によって、事態は新たな局面を迎えた。だが、それは安堵よりも、一層の緊張を呼び起こすものだった。


富樫は、ゆっくりと悦司の方へ振り返った。その目は、まるで心の奥底を見透かすかのように鋭い。


「きみ。……口は堅いほうかね?」


富樫の言葉は、刑事らしからぬ、どこか私的な響きがあった。それは、形式的な質問ではなく、悦司の人間性を試すような問いかけだった。


悦司は、富樫の視線に射抜かれながらも、一瞬の躊躇もなく答えた。


「おう! 死んでも口は割らねーからな!」


若さゆえの、やや誇張された言い回しだったが、その瞳には真剣な光が宿っていた。悦司の言葉には、一度決めたら貫き通すという、彼のまっすぐな意志が込められていた。


富樫は、その言葉に、わずかに口元を緩めた。それは、刑事としてではなく、一人の人間として、悦司の若さに触れた瞬間の表情だった。


「そうか。……若者らしくて、いいな」


苦笑いしながら、富樫は呟いた。その言葉の裏には、自らの過去や、あるいは慶太の若かった頃を重ねるような、深い感慨が滲んでいるようにも見えた。富樫は、ストーブの横に置かれた簡素な椅子に腰を下ろすよう悦司に促した。


「いいか、よく聞いてくれよ。事情が、かなり複雑なんだ」


富樫の声は、低く、重い。悦司は、ストーブの火を見つめながら、富樫の言葉に耳を傾けた。


「まず、彼……山伏慶太は、数ヶ月前に一度、世間では『死亡』したことになっている」


富樫の言葉は、悦司の心を揺さぶった。プロローグで富樫が言った「一度死んだことになってるんだ」という言葉の意味が、ここで繋がったのだ。悦司は、驚きで目を見開いた。


「死亡……? なんだよ、それ。どういうことだよ?」


「警察も、彼の遺体は確認していない。だが、状況証拠から、彼の命はないと判断された」


富樫は、淡々と語った。その言葉には、警察組織としての限界と、一人の刑事としての無念が混じり合っているかのようだった。


「その『状況証拠』というのが、彼の、そして彼の周りの人間の……非常に、特殊な事情によって作り上げられたものだ」


富樫は、一度言葉を切った。そして、毛布にくるまれた慶太に視線を送った。


「彼が今、この場で倒れているのは……何者かに狙われたか、あるいは、自ら望んで『死んだふり』をしたのか。それはまだ分からない」


富樫の言葉は、悦司の頭の中に新たな疑問を巻き起こした。自ら望んで死んだふり? そんな馬鹿なことが……。


「一つだけ確かなことがある」


富樫は、再び悦司に視線を戻した。その目は、真剣そのものだった。


「彼は……おそらく、**『間違えられた』**んだ。あるいは、**『身柄を引き受けさせられた』**か、だ」


富樫は、慶太の身につけている泥だらけのスーツに視線を向けた。


「身につけていたスーツ。そして、あの崖下に転落した黒いセダン。これらが示すものは、彼の本来の状況とは、大きく食い違っている」


「本来の状況……?」


悦司は、困惑しながら聞き返した。


「ああ。彼の、以前の生活は、もっと……破滅的だった。スーツを着て、高級セダンに乗るような、そんな状態ではなかったはずだ」


富樫の言葉は、慶太の「死亡」の背景に、さらに複雑な人間関係や事件が絡んでいることを明確に示唆していた。悦司は、ストーブの炎が揺れるのを見つめながら、慶太という男の深い闇へと、否応なく引きずり込まれていくのを感じていた。


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『蜃気楼、Rebirth』 志乃原七海 @09093495732p

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