怪しいバイトに行ってみた

濃霧

第1話

「えーこのように、皆さんに自らの過去を振り返っていただいたのは、単に過去の出来事を思い出してほしいからではありません……注目すべきは、過去の出来事に対する、えー自らの認識なんですねぇ……」


 教授の覇気のない声をマイクが拾う。90分の講義も後半に差し掛かった頃だ。

 伊東透いとうとおるは最後列で頬杖をつきながら、意識が半分、夢の中を漂っているのを感じた。


「過去」という言葉に引きずられたのだろうか、いくつかのイメージが脳内に浮かぶ。

 黒い列。一つの生き物のようにうごめきながら、どこまでもどこまでも続いていく。あとは白くて軽い何か。カイロのように温かい。


 頭がぼんやりとして、浮いているような心地がした。足を勢いよく振り下ろしても手ごたえがない。


「大丈夫。ハンドルをしっかり握って、前を見て」


「無理だよ。できない。怖い」


 喉から少年の声がした。


 気づけば見覚えのある団地の近くの高台で、頭にはヘルメットが被さっていた。兄のおさがりの、白いヘルメットだ。かつてはこの高台で、同級生に見つからないように、決まって早朝に練習をしていたのだった。

 朝に弱く数日で音を上げた透を、兄は毎日起こしにきてくれた。


「大丈夫。兄ちゃんが後ろで支えててやるから、もう一回チャレンジしてみな」


 透は歯を食いしばり、「うん」と顎を引いた。

 ハンドルを握る手がブレないように強く握りなおして、ペダルを踏む。

 自転車がぐらつくたびに、荷台をそっと押さえられ、重心が中心に戻された。


「いい感じ。だんだんバランスが取れるようになってきてる。そろそろ手を離しても大丈夫かもしれないな」


「うん。え、うわあ!」


 まだ当分は支えていてほしいと思いつつも頷くと同時に、体が前に傾いて、下り坂に入ったことを知った。

 ブレーキを掴み損ねて、自転車は凄まじいスピードで風を切っていく。自転車の意の赴くままに走っていることに気づいて、途端に体がこわばった。体をひねって確認したが、坂の上に兄の姿はなかった。


「兄ちゃん!」


 透は叫んだ。声が低くなっていた。

 ひねった拍子にバランスを崩した体が勢いのまま、宙に放り出された。



  *



「透くん?」


 遠慮がちに肩を叩かれていることに数秒遅れで気づいた。傾いた体が椅子からころげ落ちそうになる。

 自力か支えてもらったのか、とにかく数秒後にはきちんと座り直していた。心臓がどくどくと音を立て、体が冷たく重たかった。


 爆笑やら愚痴やら適当な相槌の断片が重なり合って、講義室全体に広がっていた。教授はもう帰ったらしい。

 透の肩を叩いてきたのは、知らない女子だった。


 可愛らしい顔立ちにさして目を引かれなかったのは、他に注目せざるを得ないところがあるからだ。


「めちゃくちゃピンクだね」


 ツインテールの巻き髪は網膜に焼きつくような鮮やかなピンク色、西洋人形のような服は淡いピンク色だ。バッグやアクセサリーの類もことごとくピンク系統でまとめられている。


「ねえ大丈夫? 顔が真っ青だよ」


 ピンク髪は透の言葉には答えず、わざとらしいぐらい抑揚をつけて喋った。演劇担当の教授が喜びそうな、腹の底から出た声だ。


「ごめん、全然大丈夫。ちょっと寝ぼけてただけだから」


「そう? 雪より白くて心配」


 透はもう少し静かに話してくれないかと思いながらも、そう伝えるだけの気力がなかった。背中や脇の下が汗ばんでいて気持ち悪いし、早く帰って着替えたいのに。


「もしかしてちゃんと眠れてないとか? 目の下、クマがすごいよ。悩みでもあるの?」


「ほんとに大丈夫。別に何もないから」


 言いながら、脇に置いてあったお茶を取り、あおるように飲んだ。


「ふーん」


 ピンク髪の意味ありげな視線に少しずつ、気力がむしばまれていく。透はふと、頭に水を垂らされ続ける拷問の話を思い出した。

 あれはきっと、一気に痛みや不快感が訪れる拷問よりも苦しいのだろう。終わりが見えないのだから。


 次いで、過去のある場面が思い浮かんだ。



 リビングで、父と母が憔悴しきった顔で話している。次第に語気が荒くなり、言葉の投げつけ合いになる。

 温和で仲睦まじい両親のこんな姿は見たことなかった。どちらも悪くないことだけはわかっていた。透は両方の味方だった。


 外は無神経な言葉でまみれていた。

 透は喉に力を籠め、声を殺して泣くことを習得した。


 期間にしてみればそれなりに長かったはずなのに、今になって振り返ると一瞬の拷問だったように思える。



「……手強いね。そりゃそうか。じゃあまずインスタ繋がらない? 繋がろうよ」


 何やら勝手に話を進んでいるが、透はまったくついていけていなかった。

 急かされるようにリュックをかき回して、底の方からスマホを取り出し、言われたとおりにアプリを開いた。


 しばらく利用しない間にアップデートされていて、指が止まる。操作方法がわからない。 


 すかさず横から割り込んできて、これまたピンクの長い爪が器用に動き、すぐに交換は終わった。


 プロフィールでピンク髪の名前が「雪」であることを知った。先ほどの「雪より白い」というのは、降ってくる雪ではなく自分の事だったのだ。たしかにイントネーションに違和感があった。なるほど彼女は色白だった。


 透は何気なくそのアカウントを眺め、フォロワーの数に目を剝いた。透の百倍はくだらない。

 なぜわざわざ自分に交換を持ちかけたのか疑問だった。

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2025年12月29日 19:00
2025年12月30日 19:00
2025年12月31日 19:00

怪しいバイトに行ってみた 濃霧 @nome

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