第1話 どぶ川パーカーの女王

 リズミカルなドラムのビート。

 燻したように渋く響くギターの音色。

 その音色が聴こえ始めると、心もち目を細める。自分では、妖艶さを演出しているつもりなのだろう。口もとには「どうですかぁ?」と言わんばかりの余裕の笑みを浮かべている。

 その口もとにマイクを近づけると、実にのびやかに唄い手に徹する。


 普段話すときとは違う少し鼻にかかったようなくぐもった声と唄い方で、椎名林檎女史の「歌舞伎町の女王」を、意外にも上手に唄うのである。


「……あぁ」

 曲が終わって、うっとりとした声音でそう言った。

「今日は気分えぇわ!」

 目を細めたまま、三創唯音はこぢんまりとしたカラオケの部屋で一人うっとりと言い切った。

 刹那、スマホから通知音が鳴った。

(…うん? なんぞ?)

 机の上に放り出されたスマホの液晶画面には、メッセージアプリの通知。よく見知った名前と≪今日の解析基礎、教室変更だって≫のメッセージ。

「ほーん……」

 と、唯音はスマホのアプリを立ち上げると、返信を打った。

 既読がつくや否や、通話の着信。

「うげっ」

 唯音はしばし硬直したが、意を決して、

「…すまん」

 着信を切断した。

 今度は、スマホの着信音。

「ひえっ」

 唯音はスマホを持ったまま、上体をのけ反らせた。

(…こりゃ、流石に出んとマズいか……?)

 渋い表情のまま、スマホに上体を近づける。そして、スマホの画面に人差し指を近づけ、

「あ。申す申す?」

 と、厭そうに言った。

『やっと出やがったか。なんでさっき切ったんだよ…』

 スマホの向こうから聞こえるのは、少し低めの女性の声。

「…ワシの答えはさっきのメッセージや!」

『いや…。自主休講って…』

 と、呆れたように返してきた。

「ごめんごめん…。でもあたい、今カラのオケでひと時のcongéコンジェ中やから。今日は行きません!」

 いやにハッキリとした発音でそう言った。ちなみに、「コンジェ」とはフランス語で「休暇」を意味するそうである。

『知らんぞ~、どうなっても…。試験間際になってあたふたする様が目に浮かぶけどなぁ~……』

 スマホの向こうからも、嫌味たっぷりな口調で返ってきた。

「いや、ま~ぁ? そういうときには~? 優秀この上ない~? 巻向マキムク清華サヤカさんに~? おノートを見せていただくんですけどぉ~?」

『は?』


 この瞬間、世界は音を失った。

 そして、巻向清華が奏でる罵詈雑言がこの世界に溢れ、唯音は―


「……ごめんちゃい」

 開いてしまったパンドラの箱を、人差し指の指圧をもってそっ閉じしたのであった。


ふと、窓ガラスに写った自分の姿を見た。

深いグリーンの長袖パーカー、ダークグレーのスウェット、黒のスニーカー。

お気に入りのパーカーは、大学の同期から


「どぶ川パーカー」


と揶揄されている。

(私のお気に入りなのに、失礼な!)

机に設置されているデンモクを引き寄せた。

「はい、時間は有限。切り替えてこ、切り替えてこ!」

そう騒ぎ立てると、次なるリリックを奏でるために曲の予約をしようとした。

先ほどの選曲。

目に飛び込んできたのは、


「どぶ川パーカーの女王」


の文字。

「誰がどぶ川パーカーの女王やねん! それ、ただのどじょう女やんけっ!!」

一息に叫んでいた。

 と、

「………あ。ちげーわ、歌舞伎町の女王だったわ…」

単なる見間違い。唯音は「へへ…」と笑った。そして、次なるリリックを見定めるために、デンモクを操作した。

しばし、無言でタッチペンを振るっていた。

動きが、止まった。

肩が、小刻みに波打つ。それは、鼻からのリズミカルな息の音も合わさり、次第に大きく波打っていった。

唯音が口もとを手で覆った。


「……いや、…どじょう、女て、…………」

自分の発言が自分にクリティカルヒットしたようだ。

が、すぐにピタリと動きを止めた。その表情は、口を真一文字に結び、真顔。


「……は? ウケてないが?」


と、唯音は言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どぶ川パーカーの女 ペンネ @A_la_mano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画