あなたのそばにいたくて

鍛冶屋 優雨

第1話

俺、佐倉恒一さくら こういちが地元に帰ってきて2週間ほどが経つ、

東京での生活を、高瀬由奈たかせ ゆなの事を今でも時々夢に見る。


目覚ましより少し早く目が覚めて、隣で眠る彼女の寝息を聞く朝。

忙しいけれど、確かに未来が続いていると信じられた日々だった。

だから、父が倒れたという連絡を受けたとき、俺の頭の中で何かが音を立てて崩れた。


実家は地方で三十年以上続く小さな料理店だ。

流行るわけでもなく、派手でもない。

ただ、常連に支えられて、細く長く続いてきた店だった。

父が厨房に立てなくなった瞬間、その均衡は簡単に崩れた。

売上は落ち、借金が増え、母は夜になると黙り込むようになった。


俺が戻らなければ、店は終わる。

それは、選択肢じゃなかった。

俺の修行のためと、喜んで知り合いが営む東京の料理店へ送り出してくれた父と母を思うと東京に留まることは出来なかった。


由奈にそれを伝えた夜のことを、今でもはっきり覚えている。


「俺、地元に戻って実家の料理店を継ぐよ。」


彼女は驚いた顔をしたあと、すぐに状況を理解した。

そういうところが、好きだった。


「一緒には……?」


言葉を濁す彼女を見て、俺は先に結論を言った。


「別れよう。」


言ってしまってから、後悔した。

本当は、関係を続けたい気持ちの方が強かったからだ。

でも、これから先の見えない生活に、彼女を巻き込みたくなかった。


何年かかるかわからない。

失敗するかもしれない。


そんな不安定な場所に、由奈を連れていく資格はないと思った。


彼女は、しばらく黙っていた。

泣きもしなかったし、責めもしなかった。


「……わかった。」


その一言が、胸に刺さった。

由奈は俺を安心させるようにわざとらしく笑った。


「すぐに別の彼氏を作るからね。あん時別れんじゃなかったって後悔すんなよ〜!」


そう言って、ニシシと笑う。

こうして俺達は綺麗に別れた。

だけど、俺は後悔を尻尾のようにズルズルと引きずって、勤めていた料理店を辞め、実家に戻っていった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


地元に戻ってからの生活は、想像以上に厳しかった。

料理だけじゃなく、経営、仕入れ、人付き合い。

東京では考えもしなかった現実が、毎日押し寄せた。

逃げ出したくなる夜もあった。

そんな時、由奈の顔が浮かぶと、踏みとどまれた。


「俺は、間違ってない。」


そう自分に言い聞かせながら、包丁を握り続けた。

ある日、店に昔の友人・直樹がやって来た。

懐かしい顔に少し気が緩んだ。

姉の美咲さんもついてきていた。


「おいおい。恒一、地元に戻っているなら親友の俺に一言くらい言えよな。水くせぇぜ。」


直樹はわざとらしくため息をついて、そう言ってきた。


「ごめん。父親が倒れて、家族やこの店の事でいっぱいいっぱいだったんだ。」


直樹は神妙な顔をして頷く、


「親父さんのことは聞いたよ。大変だったな。だけどな。俺とお前は親友だろ!辛い時こそ俺に頼れよ!」


直樹の姉の美咲さんも頷く、


「私もね。昔から、この店の味が好きでね。よく来ていたのよ。恒一くんのお母さんからお店を閉めるかもってきいて心配だったの。」


そう言って、美咲さんは深く頭を下げた。


「私、このお店を閉めてほしくないの。だから、恒一くんの力になりたい。私をここで働かせてください。」


俺は、正直驚いて最初は断った。


「美咲さんのお気持ちは嬉しいですけど、正直、今は人を雇っている余裕はないんです。だから美咲さんを雇えません。」


俺は美咲さんに頭を下げる。


だが、俺の言葉にも美咲さんは諦めなかった。

真剣すぎるほどの表情で、何度でも俺に頭を下げ、最終的には、


「お金は今はいりません。このお店が軌道に乗ったら、そのときに払って下さい。」


俺はその姿勢に心を打たれた。

親友の直樹も、


「美咲姉さんを雇ってくれないか?本人の言うとおり、給料は店が軌道に乗ってからでいい。何なら契約書でも何でも書いてもいい。」


「分かった。だけど、賃金は無理してでも、少なくても払う。それが条件だ。」


美咲さんは満面の笑顔を浮かべて、


「ありがとうございます。これからよろしくお願いします。」


美咲さんはよく働いた。

愚痴も言わず、弱音も吐かず、ただ店のために動いてくれた。

気づけば、俺は彼女に頼るようになっていた。

1年が経ち、2年が経ち、店は持ち直した。

客も戻り、厨房に笑顔が戻った。

そんな頃、元彼の由奈から電話が来た。


「近くまで仕事で来てて。久しぶりに、会えない?」


胸が一瞬、強く締め付けられた。

正直、会いたかった。

でも、過去に引き戻されるのが怖くて、一度断った。

すると彼女は、軽い声で言った。


「大丈夫だよ。私、もう新しい彼氏もいるし。そういうあなたは良い人いないの?」


その言葉に、安堵と痛みが同時に押し寄せた。


「俺はいないよ。店を立て直すのに必死でそんなことは考えられなかった。」


「そう。じゃあ、あなたに彼女ができたらダブルデートしようね。」


そう言って由奈は笑うが、俺は、


「元カノとダブルデートなんて拷問受けたくねぇよ。」


そう言って、不貞腐れる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


それから1週間後、店に現れた由奈は、変わらず綺麗だった。

それ以上に、強くなったように見えた。


「恒一。久しぶり〜!お店、綺麗じゃん。」


由奈が俺に親しげに話す。

美咲さんの視線が、由奈が俺に話しかけるたび、強くなる気がした。


由奈はすぐにそれに気づいたのだろう。


「お姉さん。心配しないでね。私は恒一とはちゃんと別れているし、大丈夫だよ。それに新しい彼氏がいて、うまくいってるしね。」


そう笑って言った。

由奈は俺と美咲さんに気さくに話しかけ、料理とお酒を飲み食いしていった。


お金を払った後、由奈は美咲さんを呼び、美咲さんの耳元で小さく何かを囁いた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


それから、しばらくした後、俺は美咲さんに告白された。

真っ直ぐで、不器用で、でも誠実な想いだった。

俺は断らなかった。

もう逃げる理由がなく、俺も美咲さんに惹かれていたからだ。


美咲さんといると、店も生活も心も安定していた。

由奈と別れてこれが正しい未来なのだと思う。


これからは美咲さんを守り、店を守って行かなければならない。


暖簾を下ろす夜、東京の夜景を思い出すことがある。


選ばなかった未来は、はるか遠くにあり、もう見えなくなっている。



――元彼女・由奈 視点――


店を出た瞬間、

胸の奥に張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。

夜風が少し冷たい。

それだけで、泣きそうになる自分が嫌だった。

「新しい彼氏がいる。」

恒一に言ったあの言葉は、全部嘘だ。


本当は、あの日、別れてから、

誰とも付き合っていない。

仕事に没頭して、忙しくして、

時間が経てば忘れられると思っていた。

でも忘れられなかった。


今回この町に来たのも、

仕事は理由の一つでしかない。

彼がどうしているのか、

彼の店はまだ続いているのか――

それを確かめたかった。

もし、店が立ち行かなくなっていたら。

もし、彼が限界まで追い詰められていたら。

その時は、仕事を辞めてでも、ここに残るつもりだった。


料理は得意じゃない。

経営のことも詳しくない。

それでも、隣に立って、同じ方向を向く覚悟だけはあった。

でも、店は明るくて、恒一の顔には余裕があって、

そして――彼の隣には、美咲さんがいた。

一目でわかった。

あの人は、恒一のことが好きだ。

だから、私は恒一に言った嘘を続けた。


「彼氏がいる。」

「もう大丈夫。」


それが、一番、恒一と美咲さんを安心させる言葉だと思ったから。


帰り際、美咲さんに言った言葉も、本心だ。


「アイツ、押しに弱いから。頑張ってね。」


本当は、誰よりも私が、彼の押しの弱さに甘えようとしていた。


お店の暖簾が、夜風に揺れている。

あの人が守った場所。

あの人が選んだ人生。

私は、そこにはいない。

それでも――

彼が幸せなら、それでいい。

そう思えるくらいには、

ちゃんと、愛していた。

夜道を歩きながら、

ポケットの中で、静かにスマートフォンを握る。

連絡先の一覧には、当然、「新しい彼氏」なんて名前はない。

私は前を向いて歩き出す。

夢見ていた未来を、選ばれなかった未来を胸の奥にしまったままで。

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あなたのそばにいたくて 鍛冶屋 優雨 @sasuke008

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