コップの水 (エッセイ)
あらいぐまさん
第1話 コップの水
彼には、毎朝コップ一杯の水を飲む習慣があった。
起き抜けのぼんやりした頭で、ただ喉を潤すために飲むだけの水。
味もなければ、特別な感情もない。
それは生活の中に埋もれた、何の意味もない行為だった。
ある日、彼はふとしたきっかけで「水はどうして透明なのか」という動画を見た。
光の散乱、分子の振動、波長の吸収――難しい言葉が並んでいたが、その中の一つの説明が心に引っかかった。
――透明に見えるのは、光がほとんど吸収されずに通り抜けるから。
翌朝、いつものようにコップの水を口に運んだとき、彼はその透明さをじっと見つめた。
ただの水だったものが、光の通り道に見えた。
「へえ……」
それだけのことだった。けれど、その小さな「へえ」が、胸の奥に静かに灯った。
その日から、彼は少しずつ調べるようになった。
水の温度で味が変わる理由。水道水がどこから来て、どこへ戻っていくのか。
地球上の水が何億年も循環していること。
コップの中の水が、かつては雲であり、海であり、氷であり、誰かの涙だったかもしれないこと。
知れば知るほど、コップの水は「ただの水」ではなくなっていった。
ある朝、水を飲みながら彼は思った。――世界は、知るほどに深くなるんだ。
これは、「何を調べればいいのか」という種類の気づきだ。
だが、気づきには他にもいろいろな形がある。
「この条件で、これを上手くやるにはどうすればいいのか」と言う方法の気付き。
やってみた結果、なぜ上手くいったのか、あるいはなぜ上手くいかなかったのかという原因への気づき。
どれも、世界の見え方を少しずつ変えていく。
生活は相変わらず苦しい。体調も不安定で、未来の見通しも立たない。
それでも、「気づく」という小さな変化が、彼の世界を少しずつ広げていった。
知識は、現実そのものを変える力にはならない。
けれど、気づきは現実の“見え方”を変える力を持っている。
見方が変われば、行動できる。
コップの水が透明である理由を知ったように、
自分の人生にも、まだ気づいていない意味があるのかもしれない。
それはつまり、行動を起こせる余地がまだ残っているということだ。
そういう小さな気づきこそが、弱い者にとって世の中を渡っていく為の力になる。
コップの水 (エッセイ) あらいぐまさん @yokocyan-26
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