ケース③ タカトリラン
これは私が、人生で一番荒んでいた時期の話です。
そんな私にもようやく生涯寄り添える相手を見つけられたため、これまで記憶の片隅に追いやっていたあの頃の出来事を供養として送らせていただきます。
◇ ◇ ◇ ◇
両親は私がまだ幼い頃に離婚し、小学校高学年に上がってからはずっと母子家庭でした。
母は離婚してからというもの、まるで人が変わったように凶変していき、家庭内暴力は日常茶飯事になりました。
幸いにも私は一人っ子で、こんな思いをするような兄弟が他にいなかったことがせめてもの救いでしたが、堪え忍ぶ日々はあまりにも苦痛だった。
私立高校には通わせられないと中学の頃から言われていたので、勉強だけは頑張ってきました。
それだけならまだ良かったんですが、家のことは全て私に丸投げされ、自由な時間なんてなかった。
何かひとつでも出来ていなければ、当て付けのように目くじらを立てて叱られ、常に母のご機嫌を取ることだけが上手くなっていきました。
それはまるで自分の輪郭を削っていくようで、このままではいずれ心の形が二度と戻らないほど変わってしまうかもしれないと、そんな漠然とした危機感だけが募っていく日々だった。
それでもまだ未成年という身分ですし、親の扶養に入るしかない。母の機嫌を取ることがまず最初に覚えた処世術だった。
そんな日々でも、暗闇を照らす月明かりのように、私の支えになるものがありました。それは俗に言うネッ友です。
学校では地味で大人しい私には、友達と言える友達もいませんでしたが、当時流行っていたアバターコミュニティサイトで知り合った相手に、悩みを話したりして鬱屈した日々をやり過ごしていました。
そんなコミュニティサイトもやがて廃れていき、仲の良かったネッ友も気付けば最終ログインの表記は半年以上前と表示され、取り残されたような気分になった。
心にぽっかりと穴の空いた私に、母からの暴力やご機嫌取りに耐えられるはずもなく── 高校卒業を機に、大学進学を諦めて、高卒で働くことで親の元を離れる決心をしました。
内定をもらったのは事務員の仕事でしたが、お局様からのパワハラに耐えられず、二年で退職。自分では持った方だと思います。
その後、失業保険と少ない貯蓄を切り崩して無職を続けていましたが、当然すぐに底を尽きました。家賃の滞納も続いてしまい、退去勧告はすぐになされました。
これといった資格もない、ましてや高卒の私は再就職が難航。辞めた理由を正直にパワハラだったと話しても、企業側からすればメンタルが弱い人だとレッテルを張られていたに違いありません。
その頃はまだ、そうした目に対して今よりも厳しい時代でしたから。
やがて焦燥感は加速度的に高まっていき、そこから風俗業界に踏み入れるまで、そう時間は掛からなかった。
ネットで調べたなかから、最も出勤に融通が利いて、なおかつ給料面も事務員の頃の何倍も稼げる店に面接を申し込んだ。
その店は、店舗を持たないデリバリーヘルスと呼ばれる、女の子がお客さんの元へ直接派遣されるタイプの店でした。
面接として呼ばれたのはチェーン店のカフェ。面接に来た相手はどこにでもいるような男性で、想像していたイカつい人が来るイメージはどこへやらといった感じだった。
「
面接をしてくれた男性は愛想よく笑いながら言った。
即採用で驚いた。こちらが用意した履歴書なんてほとんど見ていません。年齢と容姿と喋った感じだけで合否を決めていたのだと思う。
その場で採用が決まると、私は住んでいるアパートが退去寸前であると話し、店が所有するという寮があてがわれることになった。
その日の内に体験入店という形で同日の夜から初勤務。予想外のスピード感についていける自分にも驚く程だった。
連れられたのはよくあるマンションの一角で、そこは待機所と事務室を兼用していました。
店長から軽い講習を受け、宣材写真をいくつか撮り、ほとんどがそれで時間が過ぎた。それから、私の源氏名は店長の命名で『マナ』に決まった。
実際の接客勤務は明日からになると言われ、講習後に寮として使っているマンションへと案内され、鍵を渡された。
事務室兼待機所として使っているマンションから徒歩で20分ほどの距離。寮としてキャストに貸すマンションはそれほど大きいものではなく、6階建てだった。
そして、私に与えられたのは407号室。401号室から隣の408号室までが全て、店舗が寮として使うために借りているそうだ。
「うわぁ、やっぱりクリーニングしてないじゃん! ちゃんと確認に来るべきだった」
重い鉄扉を開けた瞬間、つんとくる悪臭と淀んだ空気が鼻をついた。案内した店長が事前にマスクをしていたのはそういうことだったのかと、そのとき気が付いた。
靴を脱いで上がると、フローリングには埃が積もり、以前住んでいた誰かの生活の痕跡が、そのまま放置されていた。
部屋の隅には、ホストクラブで卸したと思われるシャンパンの空き瓶が数本転がり、ラベルにはどこぞのホストの写真が印刷されている。
恐らく、前までこの寮を使っていた人が置いたままにしたものなのだと思う。
傷まみれの机の上には、コードがぐちゃぐちゃに巻かれたアイロンがまるで遺品のように鎮座していた。さらには生々しい血痕とカミソリ。机の傷からも察するに、それの意味するものは想像に難くなかった。
「いやー、ごめんねマナちゃん。すぐにスタッフに掃除するよう言うから。少し待っててもらえる?」
金も行く宛もない私には、贅沢を言う資格などなかった。
翌日には退去寸前だったアパートは引き払い、滞納分の家賃は給料から分割でコツコツ払うと話をつけ、その日から風俗嬢としての生活がこのワンルームで始まった。
勤務初日はフリーの客が三人ついた。そのうち一人から延長と一週間後の予約も同時に貰い、えらく気に入ってくれた。
事務所のマンションに戻ると、店長や他のスタッフさんから褒め殺しをされて、正直嫌な気分はしなかったし、こんな仕事でも遣り甲斐を感じられていた。
それでも慣れない仕事、ましてやこんな特殊過ぎる仕事での苦労は思いのほか体に鞭を打っていたようで、寮に戻るとシャワーを浴びて横になるとすぐに泥のように眠りに落ちた。
最初に異変が起きたのは、そのときだった。
体の上に鉛を乗せられたように動けなくなり、目だけを動かして部屋を見渡すと、クローゼットの前に人影が立っていることに気付いた。
目を凝らすと、それは若い女だった。寮を間違えたのか?鍵をかけ忘れていた?などと尋ねようにも声が出ない。
長い髪を垂らし、ただじっとこちらを見下ろしている。
疲れているだけだ、そう自分に言い聞かせたが、その視線の不快感は肌にまとわりつくように残った。
気が付けば気絶するように落ちた。翌朝の頭痛は酷く、熟睡した感じがしなかった。
その日の待機中、化粧直しのスペースで一緒になった先輩嬢と雑談をする機会があった。気さくな人で、新人の私に向こうから話しかけてくれ、色々とアドバイスをくれる人当たりの良い人だった。
思わず気を許してしまい、私は何気なく寮での出来事を話してみた。
「あー…… あそこね」
先輩はマスカラを塗る手を止め、鏡越しに私を見て、声を潜めた。
「やっぱり出るんだ。昔から噂あるんだよね、あの部屋。私も最初はあそこの寮に入ってたけど、空気が悪すぎてすぐに彼氏の家に転がり込んだもん」
やっぱり、という言葉が胸に重くのしかかる。
しばらく何も言えず無言でいると、先輩を呼びに来たスタッフが待機所にやってきた。
「まぁまぁ、だらしない人ばっかりだから単に汚いだけよ。なんかごめんね、でもあんまし気にしないで! んじゃまたね~」
そう言い残すと、先輩はスタッフに連れられて待機所を後にした。
その直後、入れ替わるように店長が待機所へ顔を覗かせた。変に身構えていたが、店長はただ私の様子を窺っていただけだった。
「マナちゃん、調子はどう? 今日はパネル指名が入ってるんだね。さすがよ!」
これまでの私の人生とは、ご機嫌取りをする側だったから、そういった言葉に妙な心地の悪さがあった。
初日から「間違いなく磨けば必ず輝く原石だ」と気に入られ、フリーの客を優先的に回してくれると言ってもらえていた。
すると店長は脂ぎった顔をテカらせながら、熱っぽく語る。
「うちは今さ、看板だったルナちゃんって子が長期休暇中でね。店としては次のトップが欲しいんだよ」
ルナちゃんというのは、この店でぶっちぎりのナンバーワンだった伝説的な嬢らしい。
「ポスト・ルナは間違いなく君だよ、俺の目に狂いはない。源氏名を『マナ』にしたのも、響きを寄せたかったからなんだ」
期待されていることへの満足感と、得体の知れない重圧が入り混じる。
寮であった出来事を店長にも言おうと思ったが、どこか期待を裏切られてしまうようで言い出せなかった。
生活のためだ。もしあれが幽霊だとしても── 私一人が我慢すればいい。我慢するのには慣れてるから。そう思っていた。
それからというもの、新人期間を過ぎて固定客が何人か付きはじめ、ますます店長からの期待が高まっていた。
あの影はいまだに私の間借りする寮に現れ、時には私の顔を覗き込むようなこともあった。
それでも親に虐待されていた頃に比べれば……。物理的な怪我を負わされているわけではない。そう言い聞かせ、耐え忍ぶ日々に逆戻りしていた。
しかし、そのストレスはやがて仕事にも影響が出始めた。
ある日のことだ。フリーで入った新規客が、私がホテルに入るなり顔を見ると露骨に眉をひそめた。
「君さ、霊感とかある?」
私は客の放った一言に身震いした。
どうやらその男性客は霊感が強いらしく、私に纏わり付く不穏な気配に耐えられないと言い出した。
結局、何もせずにチェンジとなった。
チャンスを逃した悔しさよりも、霊感があるという客にまで指摘されたことでより現実味を帯び、私は恐怖で精神的に追い詰められていった。
待機所に戻るや否や、店長は私の顔を見るなりおもむろに声をかけた。
「なんか調子悪そうだね? まさかマナちゃんがチェンジだなんて。それに顔色が優れないよ。なにかあった?」
その言葉に、私は堰を切ったように寮での怪奇現象や、客に言われたことを打ち明けた。
店長は私の話を、ふんふんと神妙な顔つきで聞いていたが、明らかに何かを隠している、そんな様子だった。
すると店長は、誤魔化さないでほしいと私が一言告げると、重い口を開けて語り始めた。
「……実はね。あの寮の部屋、何年か前に住んでた子があそこで自殺してるんだよ」
あっさりと告げられた事実に、私は言葉を失った。
「俺はそういう非科学的なことは信じないんだけどさ。マナちゃんもやっぱりダメだったか…… でも寮はいまあの部屋くらいなんだよね」
店長は困ったように頭を掻くと、デスクの引き出しに手を伸ばした。
「付き合いのある不動産屋に影山さんって人がいるんだけどね? 他に何か案内できる物件がないか聞いてみるけどさ。 ん~、他に空きあったかなー。ちょっと待ってて」
そう言って、店長はスチール棚に並べられた分厚いファイルを取り出した。
寮の契約書や、その他の小難しい書類が挟まれたそのファイルをめくっていた、その時だ。
ひらりと、一枚の紙が私の足元にこぼれ落ちた。
履歴書だった。
「あっ」
私は反射的にしゃがみ込み、それを拾い上げた。
店長に渡そうとして、不意にその写真が目に入った。
息が止まるかと思った。
履歴書の写真に写っている女──
それは、毎晩私の枕元に立ち、じっとこちらを見下ろしている、あの幽霊と瓜二つだったのだ。
そして、名前の欄には本名が書かれていたが、その横の余白に、赤ペンで大きく源氏名とおぼしき名前が殴り書きされていた。
『ルナ』
かつてのナンバーワン。長期休暇中だと言われていた子だ。
もしや、それがあの部屋で死んだ女だったのか……?
全身の血の気が引いていくのが分かった。
手が震え、履歴書を店長に突き返すように渡す。
しかし震えが止まらず、吐き気を催す。どうにもこのまま勤務を続けられる気がしなかった。
私は気分が悪いので早退させてほしいと告げると、店長は件の寮のこともあってか、快く了承してくれた。そして私は逃げるように事務所を出た。
外に出ると、夜の街は冷え込んでいた。
もう、あの寮には戻れない。戻りたくもない。
スマホを取り出し、身寄りの無い私は連絡先に入っている客という客に、片っ端からメッセージを送った。
『今日、寝泊まりするところがなくて。お願い、泊めてほしいの』
なりふり構っている余裕はなかった。
しかし、急な願いに即座に応えてくれる相手はいなかった。既読すらつかない画面を睨みながら、私は途方に暮れた。
こうなったら、体を売ってでも今夜の宿を確保するしかない。
私は人通りの多い通りまで歩き、いわゆる立ちんぼをすることにした。
街灯の下に立ち、通り過ぎる男たちの視線を待つ。
寒さが生地の薄いコートを突き抜け、芯まで冷えてくる。
ふと、何かの気配を感じて、車道を挟んだ反対側に目をやった。
いた。
あの女だ。
ガードレールの向こう側に、あの寮にいた長い髪の女が立っている。
だが、その視線は私を怨みで睨んでいるわけではないようにも見えた。
女は無表情のまま、静かに右の肩を上げ、人差し指をピンと伸ばしてなにか言いたげに指差した。
何を示しているのか。
吸い寄せられるように、私は指差された左の方角を見た。
「マナちゃーん! マナちゃーーん!」
雑踏の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。
その声は店長だった。
キョロキョロと周囲を見回しながら、私を探し回っている。私はそれが狂気的に思えた。
あの時、事務所で見せた心配そうな顔とは別人のような、獲物を逃がすまいと食らいつく捕食者の目つき。
ゾッとして、再び女の方へ視線を流す。
女は、静かに首を横に振っていた。
『行ってはいけない。捕まってはいけない』
私の勝手な思い込みかもしれないが、そう言っているように感じた。
これは霊障などではない。もっと生々しい、危険な何かが迫っている。
本能が警鐘を鳴らし、私はその場を逃げるように走り出した。
ヒールの音を響かせ、路地裏へと駆け込む。
その時、だった。
ピコンッ
ポケットの中でスマホが震えた。
ビクリと肩を震わせながら画面を見ると、一番の常連客からのメッセージだった。
『いま仕事終わったところだよ、困ってるならおいで。タクシー代は出すから』
普段なら気色の悪ささえ感じる絵文字も、今だけは安堵に変わった。続いて、客の住所が送られてきた。
地獄に仏とはこのことか。私は走りながら辺りを見回してタクシーを探した。
しばらくして、行灯が点灯しているタクシーが目に入った。車道に割り込む勢いで手を上げて停車させる。
滑り込んできたタクシーに乗り込むと、私はシートに深く沈み込んだ。
無意識に早口で行き先を告げると、車はゆっくりと動き出した。
運転手は中年の男性で、バックミラー越しに愛想のいい笑顔を向けてきた。
かなり明るい口調で人当たりが良さそうで、張り詰めた空気が少しだけ和らぐのを感じた。
流れる街の景色を眺めながら、ようやく呼吸が整ってくる。ホッと安堵のため息がこぼれた。
一体、店長はなぜ私を探し回っていたのだろうか。あの寮のことと関係があるのだろうか。
それに、ルナとおぼしきあの霊はなんだったのだろうか。私になにを伝えたかったのだろうか。
そんなことばかりが頭の中を過っていた。
もうその時点で、私はあの店を辞める決心がついていた。給料が未払いのままになってでも、バックレてでも、戻りたくはなかった。
とにかくあの恐怖から逃げたかった。これでもう終わりだと思っていたし、そう願っていた。
家に呼んでくれた客は、何故か風俗としてのサービスを受けたがらず、マッサージや会話だけして帰るようなお爺さんだ。きっと今日も体を求めることはない。今夜は安心して眠れる。
そう安堵した、その時だった。
運転手がハンドルを切りながら、何気ない様子で話しかけてきた。
「お客さん、お二人は姉妹ですか? 揃ってお綺麗ですね」
「え……?」
心臓がバクバクと鳴る音が耳にまで聞こえるようだった。
間違いなく私は一人で乗ったはずだ。
さっきの言葉が聞き間違えなのかと思い、聞き返した。しかし、返ってきた言葉は──
「変なこと言いますねお客さん。隣にいるの、姉さんか妹さんじゃないの? それともただのお友達?」
私は恐る恐る、ゆっくりと顔を横に向けた。
誰もいないはずの後部座席の隣に目をやる。
「私も一緒よ、マナちゃん」
あの女が、座っていた。
血色の悪い青白い肌が鮮明に映った。
◇ ◇ ◇ ◇
次に私が目を覚ましたのは病院の室内でした。
どうやらタクシーで泡を吹いて気絶していたらしく、運転手さんが気転を効かせてそのまま緊急通報をして、指示を受けながら病院まで搬送して頂いたみたいです。
医者からは、ストレスの慢性化からくる自律神経失調症と診断されましたが、それが原因で幻覚を見ていたのでしょうか。私には分かりません。
しばらくルナが夢枕に立つことは続いていましたが、今の夫と出会ってからは、ルナが現れることはなくなりました。
ルナは私に何を伝えたかったのか、店長はなぜルナや私に固執していたのか。結局最後までそれを知ることはありませんでした。
あの407号室での出来事は、今でも夢に出てきます。
407号室の住人 藤原苺 @homura31
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