雪の娘 3-2
こちらの寝息を密かに窺う美津江の気配を感じて、哲夫は内心苦笑しながら、眠ったふりを続けた。
やはり彼女も眠ってはいなかったらしい。
美津江はそっと車を抜け出すと、冷凍室に向かった。
哲夫は美津江が扉の中に消えるのを見届けてから、ゆっくり車を降りた。
先ほど扉を閉めてから、まだ二十分もたっていない。庫内での水の冷え具合までは見当がつかないが、残り湯の表面に、氷が張りはじめた程度だろうか。
哲夫は遠慮なく扉を引いた。
庫内の美津江は、明らかにドラム缶を押し倒そうとしていた。
「……しかしまあ、直情的というか、後先を考えないというか」
美津江は一瞬硬直し、それからおずおずと振り返った。
今にも冷や汗を流しそうな顔に、それでもぎこちなく笑顔を浮かべている。「……奥さんが、気になってしまって」
白い息が、まるで煙のように濃い。
哲夫はいつもの素朴な頬笑みを崩さず、しかし冷ややかに言った。
「次のチャンスは、ないよ」
美津江は眉をひそめた。
「……何のことですか」
哲夫は
「あまり暑いと溶けてしまうような娘が、よく半年も君たちの家で暮らせたものだと思わないかい? 僕はひと月ももたずに、僕の部屋に戻ってきてくれると思っていた。まったく、里子はつくづく頭がいいよ。まあ、それほど草間のそばにいたかった、ただそれだけなのかもしれないけど……ちょっと、くやしいけどね」
「……それは、そうですね。でも今、チャンスとか、何とか」
美津江の口調に、さらに反感が籠もった。
この娘は、本来罪を犯すだけの
「君がまさか、始めからあんな成り行きを予想していたとは思わない。でも、草間が早く帰れるようになったことを、君は知っていたんじゃないのか? あいつの仕事ぶりは、僕も良く知っている。どんなに里子を大切に思っていたかもね。せっかくの早い帰りを、里子に知らせないはずはないんだ。しかし今夜、里子はあいつを出迎えなかった。そしてあの家で、外からの電話を初めに受けるのは、たぶん君だ。君はそれとなく、そう、たとえば、草間の親父さんに電話とは逆のことを伝えたりすれば、君にとって望ましい、なんらかの進展が期待できるわけだ」
美津江は唇を震わせながら言った。
「……何をおっしゃっているのか、解りません」
「草間に電話して、訊いてみるかい?」
美津江は黙りこんだ。
「そもそも、たとえ何があったとしても、里子があんな現場にうっかり身を置くはずがない、ってことだよ。よほど気を許した相手に、うまく状況を隠されでもしない限りはね」
それ以上の断言は不要だろう――唇を噛みながら顔を伏せる美津江を見て、哲夫は言葉を切った。
「奥さんなんて……奥さんなんて……」
うつむいたまま、小さく呟いていた美津江が、突然、身を躍らせた。
「――いなくなっちゃえばいいんだ!」
子供のように叫びながら、そのままドラム缶を押し倒す。
円形の蓋のような氷の板が、水といっしょに勢いよく奥に流れた。
それは滑るのをやめた瞬間、水と共に床に凍りついた。
美津江は荒い息をつきながら、床に膝を落とした。
そのまま床に凍りつきかねないので、哲夫は慌てて美津江の腕を掴み、引き立たせた。
美津江は口をきつく結んで、哲夫を見上げた。
もうどうなってもいい、そう言っている目だ。
しかし哲夫はなんの気負いもなく、変わらぬ微笑を浮かべていた。
「次のチャンスはない、って言っただろう」
美津江の目が、大きく見開かれた。
寒気で蒼白だった顔が、さらに真っ白になった。
哲夫も、気配で悟っていた。
里子は――すでに背後に立っている。
しかし、振り向いた哲夫の目に映った里子は、まだ霧のように薄く、輪郭も定かではなかった。それでも顔のあたりに、懐かしい目鼻立ちが見てとれた。
「……やっぱり、山に戻らないと、駄目かな?」
里子の霧はゆっくりとうなずいて、白布のようにたなびきながら、哲夫の前に回った。
怯えきっている美津江の肩に、霧の手が触れた。
美津江は
霧は、明らかに微笑している。
哲夫はドラム缶を起こしながら、美津江に言った。
「恨み辛みがあるくらいなら、君はとっくに凍え死んでるよ」
まだ不安げな美津江に、里子の霧も、穏やかにうなずいて見せた。
「さて、出ようか。こんな所に長居していたら、それこそ美津江さんが凍っちまう。里子にその気がなくてもね」
哲夫はためらう美津江の手を引いて、扉に向かった。
雪の娘 バニラダヌキ @vanilladanuki
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