第2話

 夜の都市に雨が降る。

 舗装された道路は鏡のようにネオンを映し、赤と青の光が水たまりの中で滲んでいた。

 アルテミスはフードを深くかぶり、人波の影を縫うように歩いていた。


 背後には、確実に“追う意思”がある。

 アマテラスコーポレーションの特殊部隊。

 都市監視網と連動したドローン、熱源を読む強化兵。

 この街そのものが、彼女を探す“網”になりつつあった。

 銃声が遠くで弾ける。


 アルテミスは反射的に路地へ滑り込み、濡れた壁に背を預ける。

 戦闘は合理的な選択ではない。

 今は、存在を記録させないことが最優先だった。

 短時間だけステルスを起動し、彼女は夜の喧騒に溶け込む。

 背景のネオンを肌が透過し、雨粒が彼女の輪郭を避けて流れる。


 そして、ネオンがひときわ濃く滲む一角で足を止めた。


 ――『La Vie en Roseバラ色の人生


 古いネオンサインが、脈打つようにピンクの光を放っている。

 半開きの扉の向こうから、低く絡みつくジャズと、甘く焦げた匂いが漏れ出していた。


 アルテミスは、ほんの一瞬だけ静止し、そして扉に手をかけた。

 扉を開けた瞬間、熱が押し寄せた。


 外の雨の冷気とはまるで別物の、湿り気を帯びた空気。

 視覚、聴覚、嗅覚――起動しているすべてのセンサーが、同時に警告を発する。

 複雑に交差する安物の香水。

 煮え切らないアルコールの蒸気。

 そして、空間に満ちる幾多の鼓動と体温。

 赤紫の照明の下で、人の輪郭が重なり、揺れ、溶け合っていく。


 精密な演算回路は、それらを一つの情報として束ねることができず、

 処理しきれない感覚をノイズとして弾き出した。


 ――過負荷。


 アルテミスの内部で、わずかな演算遅延が発生する。

 数値化できない揺らぎが、感覚系を満たしていく。

 彼女にとって、ここは「人間たちの隠れ家」であると同時に、感覚を麻痺させる「嵐の中心」だった。


 だからこそ、ここを選んだ。

 低い天井。

 壁際には厚手のカーテンで仕切られた半個室が並び、その隙間からは、囁き声、くぐもった笑い、吐息が漏れてくる。

 カウンターの隅では、男が女の指を握っている。

 壊れやすい硝子細工を扱うように、震えるほど慎重な手つきで。


 女は笑っている。

 だが、その笑顔が何を意味するのか、アルテミスには測定できない。

 彼女のデータベースによれば、

 あの行為は「執着」あるいは「愛」と呼ばれる、非合理的なエラー行動に分類されていた。


 アルテミスは、場違いなほど静かにその光景を見つめていた。


「あら……?」


 艶やかな声が、すぐそばで落ちる。

 振り向くと、紫のドレスに身を包んだ長身の人物が立っていた。


 流れるような金髪。

 深紅のルージュを引いた唇が、意味ありげに弧を描く。


「迷い込んだのかしら、それとも……自分から?」


 距離は近い。

 香水の甘さと、人の熱が混ざった空気がセンサーを撫でる。


「……身を隠せる場所を探しています」


 アルテミスが正直に答えると、女――マダム・ローズは、ふっと目を細めた。


「あなた、いい肌してるわね。どこのメーカー?……それとも、本物?」

「……意味がわかりません。機能に問題はありません」


 ローズはくすりと笑い、アルテミスの顔を覗き込む。


「ふふ、そうじゃないわ。あなたの目よ。何も欲しがっていない、空っぽの目。この街で一番の贅沢品だわ」


 そう言って、ローズの指が、アルテミスの頬に触れた。


 ――未知の接触。


 センサーが反射的に反応し、表面温度を計測する。

 36.5度。

 人間の平均体温。


「……あなた、冷たいわね」


 指先の熱を確かめるように、ローズは小さく息を吐く。


「……でも、きれいだわ。悲しいくらいに」


 アルテミスは、ローズの瞳の奥に、自分を映す「期待」という色の光を読み取った。


「……美しさは、生存に必要ですか?」


 ローズは一瞬だけ驚いたように瞬きをし、

 それから、ゆっくりと微笑む。


「ええ。この街ではね。パンよりも、弾丸よりも」


 その言葉に、アルテミスはわずかに演算を走らせる。

 だが、論理的な結論は導き出せなかった。

 ローズは、喉の奥で愉快そうに笑う。


「ふふ……なるほど。隠れたい理由も、あなた自身も……どちらも面白そうね」


 彼女は身を翻し、店の奥へと歩き出す。


「来なさい。あなたの“居場所”、考えてあげるわ」


 赤紫の光の中で、扉が閉じる。

 外の雨音は、もう届かなかった。

 アルテミスは一度だけネオンの滲む夜を振り返り、そして何も言わず、その背を追った。

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アルテミス千年の孤独 未人(みと) @mitoneko13

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