【まどすぱif】小さくなった工作員
春井涼(中口徹)
【まどすぱif】小さくなった工作員
先進国家連邦での任務が終わり、帰国の用意を整える精霊自由都市共和国群の三等工作員の冬雪は、重傷を負った同僚の
できれば今すぐにでも帰りたいところだが、何しろ今回の任務は大掛かりだったもので、ここで手を抜くと後で面倒な事態になりかねない。火種は
そんな事後処理も終盤に近づき、冬雪はようやく一息つけると安心して、借りているマンションに戻った。時刻は既に夜中と呼べる頃に片足を踏み入れており、静寂に支配されつつある駐車場で、車を停める音がやけにうるさく感じる。
疲労のせいか、どうにも重い身体を引きずるようにして、冬雪はベッドに倒れ込んだ。そのまま湯も浴びずに眠り込んだ翌朝に、事態は発生したのだ。
(……ボクの服、こんなに大きかったっけ?)
寝起きの頭でそんなことを考え、やけに袖の余るシャツを引っ張り上げる。そこで何が起きたか気付けば良かったのだが、寝起きで頭が回っていないこともあって、冬雪はその違和感を無視した。
(まあ疲れていると、視界に映る物がやけに小さく見えることもあるしな。たまには逆もあるか)
という、謎の理論を展開して。冷静になってみればそんなわけがないのだが、通常の寝起きの冬雪は、とにかく思考が働かない。身体よりも格段に、脳の起動が遅いのだ。
その後もなぜかやたら大きな洗面台で顔を洗い、変に大きなコップで水を飲み、妙に長いズボンの裾に
ただでさえ風呂に入らず眠ったのに、寝ている間にも大量の汗を流したようだ。まずは身体を清潔にし、一刻も早く服を取り換えたい。
部屋の呼び鈴が鳴ったのは、ちょうどそんなときだった。
(誰だよこんなときに。今日は朝から会う協力者なんていなかったはずだよな。面倒だ、無視してもいいか?)
相手を確かめもせず、さすがにそういうわけにもいかないので、冬雪は彼の固有魔術のひとつ、エネルギー探知を行った。これは一定範囲内にあるあらゆる物理的エネルギーを探知することで、その場にある物質の種類や温度を調べることができる。
その結果、扉の向こうにいるのは旧知の──それもかなり親密な相手だと判明した。
彼が知るよりどうも反応が大きいが、面識のある人物に冬雪が付けるマーカーである
それならと安心して冬雪は扉を開けたのだが、ここでようやく冒頭に回帰する。対面した彼女はシンシア・キャメロン、通称シンディ。冬雪とは比較的長い付き合いのある共和国人で、友人だ。彼女はこの近くのホテルに宿泊しているのだ。
「……あれ? 夏生くんはどこに行った?」
「ここにいるだろ。……なんか声変だな」
困惑する両者は、部屋の出入口でしばらく硬直した。そして一分ほどした頃、冬雪はようやく、自分に起きた異常事態に気が付いた。
「もしかしてボク、小さくなってる?」
ひとまずシャワーを浴び、全身鏡も使って自分の身体の状態を確認した冬雪は、どうやら本当に身体が縮んでいるらしいことを認識した。日本にいた頃はそれこそ漫画の中の出来事でしかなかったが、こうして我が身に起こってみると、冗談と一蹴するわけにもいかない。
「目が覚めたら、身体が縮んでしまっていた……試作段階の毒薬を飲まされた覚えはないんだがな」
身体は恐らく、娘の幽儺よりも小さいくらいだ。これでは仕事どころではない。必然的に帰国も遅れることになる。精霊との契約が切れておらず、魔法能力と思考力に変化が見られないのが、この際不幸中の幸いと言えるだろうか。
「まったく、初めから終わりまで、とんでもない任務だ」
シャツの袖を折って上げ、ズボンの裾を縛り、ベルトの代わりにナイロンの紐で腰に固定する。そんな格好で脱衣所を出ると、部屋ではシンディが食事を用意していた。
「あら可愛い」
「あんまり嬉しくない褒め言葉をどうも」
「夏生くん、このままあーしの弟になるかい?」
「ならないならない、ボクには娘がいるんだから」
「ちなみに今の見た目だと、君の養子とどっちが小さいの?」
「誠に遺憾ながら、今のボクだな、誠に遺憾ながら」
「そっかそっか、じゃあ二人とも、あーしの弟と妹ってことにすればいいね」
「何言ってんだ、正気か」
「大丈夫だよ、一人が三人になるくらい大した違いじゃないから。お姉ちゃんに任せなさい」
「二人が三人になるならともかく、一人が三人になるのはかなりの違いじゃないか?」
「でもごめん、あーし小柄だし腕は二本しかないから、同時に全員抱きしめるのは難しいかも」
「そんなことは誰も頼んでないんだなこれが」
「今のうちに夏生くんだけ抱きしめとく?」
「しなくていい。おやめろ、火から目を離すな!」
いつも通りのシンディの冗句だ。まさかこれが精神安定に役立つ日が来るとは思わなかった。椅子によじのぼり、変わらず長い髪を束ねて食事の用意。食器はもう、シンディが並べている。
風呂場で確認したが、冬雪は全身が縮み、六歳児相当の身体になっているようだ。養子の幽儺は一一歳、外見的には五歳差で冬雪の方が年少だ、まあまあな年齢差である。
変化したのは体の大きさだけでなく、肌の質感や体毛の量も幼児化したらしい。その割に髪の長さはあまり変化していないが、これについて指摘しても仕方ないだろう。まずどうして幼児化したのか、それを突き止めなくては。
「とはいえ、腹が減っては戦ができぬというしな」
「ほれ、ご飯揃ったよ。保存食だから味気なくてごめんだけど」
「岩倉さんは帰ったし、これどうするかな。どうするもなにも、選択肢は多くないが……」
テーブルの対面に腰を下ろし、シンディが自分の食事に取り掛かる。ボリュームのあるサイドテールがよく邪魔にならないなあ、などと場違いな感心をしつつ、冬雪は食事の前に、話をつけておくことにした。
「キャメロン、恥を忍んで、頼みたいことがある」
「了解、引き受けた」
「まだ何も言ってない」
一瞥したのみで内容を聞きもせずに即決。不思議なことに、普段のおちゃらけた雰囲気はない。さすがに冬雪もたじろいだ。それなりに厄介な頼み事をしようとした自覚はあったのだ。
「せめて話を聞いてから決めろよ……」
「だって、今の夏生くん見てると、庇護欲が湧いてくるというか」
「庇護はしなくていい、別にそこまで弱体化したわけじゃない」
「わあ、子ども特有の強がりだ。可愛い」
「…………」
「ここで魔法撃ってこないあたり、精神は退行したわけじゃないんだね」
「冗談みたいな会話でそんなもの測るなよ。本当に撃ったかもしれないぞ」
「でもさ、夏生くん、あーしに口撃はしても攻撃することはないじゃん」
「信頼しすぎだ」
「え、ちょっと待って、恥を忍んでってそっち? 子どもの身体でもできるの?」
「朝から食事中に何考えてんだ。というかそろそろ本題入っていいか? 食事する前に話しておきたいんだけど」
「分かった分かった、それで、何を頼みたいって?」
「ボクが大人の身体に戻るまでの間、何とかしてボクを、あんたの被保護者として匿ってほしい」
「予想を
「まあな。ボクとしては一人で動けた方が楽なんだが、連邦では一〇歳未満の子どもが一人で出歩くのは、あまり一般的じゃないからな」
「いっそもう、ずっとあーしの弟になるかい? こうでなくともあーしの方が年上なんだし」
「ならない。そもそもあんた、正確には年齢不詳だろ」
シンディがからからと笑った。
「まあそうだね、君が頼み事としてそれを提案してくるなら、あーしからは条件を出そうか」
「子どもの身体に何をさせる気だ?」
「何を警戒してんだよ。そうだね、大人に戻るまでの間、あーしのことは『シンディお姉ちゃん』と呼ぶことにしよう」
「……『姉貴』で妥協しないか?」
「しない」
「せめて、『シンディ』」
冬雪がそう提案すると、シンディの視線が常になく険しくなった。
「『お姉ちゃん』を付けろよ愚弟」
冬雪も反論する。
「連邦の
というか付けるのは共和国人だけだ。まあ普通に港から入国してきているので、変に取り繕う必要もないのだが。
「そうかい、それならおめーは今から愚弟だ。分かったら返事をするんだね、愚弟」
「仮初の姉弟で姉弟の上下関係を仕込むな。……『シンディ姉ちゃん』じゃだめですか」
「仕方ねえなあ、それで手を打ってやろう」
まさか幼馴染以外を姉と呼ぶ日が来るとは、共和国に来たばかりの頃の冬雪は思わなかった。
翌日、布団を洗濯してから、冬雪はシンディに手を引かれ、彼女の仕事場に連れ出されていた。
「なんで?」
「いや普通に不安でしょ、子ども一人部屋に置いていくの。しかも普段生活してる共和国の住居じゃなくて、海を渡った外国なんだから。元に戻れるまで毎日連れ回すからね」
「ボクは、魔法能力は失ってないんだが」
「そういう問題じゃない。夏生くんを置いていったら、あーしが保護責任者義務違反で捕まっちゃうかもしれないんだよ」
「今まで連れ歩いていなかった子どもがいたら、周囲の人間はどう思うかな」
「適当に言い訳する」
「せめて考えてから喋ってくれ」
とはいえ比較的問題が起きにくいのもまた事実。シンディは取材班とともに共和国から連邦に来ていたが、首都のバーティアから離れ、エルステラに移動してきた現在は、実は取材班とも別れて単独行動中である。
取材相手にさえ、「そういう人間です」という認識を与えることさえできてしまえば、仕事仲間に疑惑の目を向けられるような事態にはならないのだ。
「残る問題は、取材する相手が子供連れのあんたをどう見るかだな」
「愚弟」
「……残る問題は、取材する相手が子供連れのシンディ姉ちゃんをどう見るかだな」
「よくできました」
「馬鹿にされているか?」
「自分で言ったんだろ」
「そうだけども」
釈然としない気分で手を引かれながら歩き、冬雪は無愛想な子どものようにため息をついた。そうして到着したのは、連邦科学技術省の支局だ。ここの局長に、シンディは面会予約を取り付けているのだという。
子供連れで堂々と入館したシンディと連れられている子供には奇異の視線が向けられたが、冬雪ももはや諦めている。受付でシンディが用向きを告げて応接室に通され、目的の人物が車で誰もいない空間で再度二人きりになると、彼女は隣に座った冬雪を、自身の膝に転がした。
「何が目的だ」
「警戒しすぎだろ、大人しく寝てろよ男の夢だぞ」
「ボクは甘やかされるより甘やかす方が好みなんだが」
「六歳児の台詞じゃねーな」
「うちの娘は手がかからないいい子だから親としては色々助かるんだが、子供なんだからもう少し甘えてくれてもと思うことがある」
「六歳児の台詞じゃねーな」
一応抵抗しないでおくと、シンディは冬雪の長い髪を梳くように指を滑らせる。どう考えても子供扱いされているだけなので反発したくはなるが、自称姉の彼女に反抗すれば、身体が戻っても愚弟呼ばわりが継続しそうで嫌なので止めておく。代わりに提案した。
「そろそろお目当ての相手が来るみたいだぞ。起きていいか?」
なお提案は却下された。
「別に見られて困るものでもないだろ。あーしの弟も最近反抗期でさあ、昔のお姉ちゃん大好きっ子の可愛い弟はどこに行ったんだか」
「ボクはその弟の身代わりか」
「文句なら本物の愚弟に言ってくれ。ちなみに夏生くんの養子と同じくらいの年齢」
「六歳児にする話じゃねーぞ」
「おめーがそれ言うかよ」
「ほら、人来たぞ」
「思ったより余裕あったな。ほら挨拶、立つ」
「理不尽な」
子供姿の冬雪はともかく、シンディは礼儀とマナーを示さなくては色々とまずい。連れ回されている以上、協力しないわけにはいかない。
ドアが開くと同時に二人揃ってソファから立ち上がり、入室してきた壮年の男性にシンディが挨拶するのを横で眺める。仕事モードに入ればひとまずやたらと構われることもないだろう、と冬雪は秘かに安堵した。
「保護者に連れ歩かれているがすることがなくて暇そうにしている子供」を演じたところ、取材相手の局長が気遣って、本棚に読みたい本があれば読んでいい、と申し出てくれた。
「とはいえ子どもが読んで面白いものがあるかどうか。共和国から来たとあれば、言語の問題もあるだろうし」
「じゃあ、『先進国家連邦科学技術大全』を」
「……好きに取って来て構わないよ」
何ら問題なく連邦の公用語を話し、子供らしからぬ本を所望した冬雪を、局長は呆気に取られて見つめた。
「すみません、愚弟は変わり者で、親戚中からも距離を取られていて……」
何やら失礼な紹介を勝手にシンディからされている気がしたが、冬雪の興味は既に本に移っていたため、あまり気にはしなかった。先刻寝転がっていても視界は開けていたので、たまたま目について気になっていたのだ。ここが帝国であれば、魔術史大全などという本があって、そちらに興味を惹かれたかもしれない。
冬雪が先進国家連邦科学技術大全を読み始めると、局長が今度は感嘆した。
「入門書とはいえ、内容は子ども向けじゃないはずだが、よく読み進められるな……」
「適当に本を渡しておけば大人しいし静かなので、手は掛からなくて助かるんですけどね。ちょっと子どもらしさもあって良いと思うんですけど」
冬雪が言ったようなことを言いながら、シンディが片手を冬雪の頭の上に置く。頭が揺れると読みづらいので無言で払う。シンディの仕事自体には興味がないこともあって、黙々と読書に勤しんでいる。
(序論。国内の科学技術の発展は、現在の西洋魔術連合帝国と精霊自由都市共和国群の魔法文化に順応できなかった、一部の者が集まって移動したことから始まった。徹底して魔法を廃した彼らは、現在のバーティアに拠点を築き、研究に勤しむこととなる。この頃は科学と技術が融合する前であって、科学の発展はさほど生活の利便性に結びつかず、バーティアの研究者はしばしば市民から奇怪の目で見られる日々だった。他方、技術を研究するのは研究者というよりも、工場の現場などで働く労働者などの市民である。市民が市民から白目視される道理はない。各国の軍部で科学と技術が融合する大陸間戦争の前、科学も技術も発展が緩やかに起きていた時代である……)
そもそも科学と技術がひっくるめて考えられるようになったのはごく最近の話、せいぜい一二〇年前の三大陸世界大戦から。知ろうとしなければまず知らないことだ。早速面白い話が出てきた、と冬雪は内心の躍動を感じつつ、一心不乱に活字を追ってページを捲る。
聴覚も触覚も固有魔術である周囲の探知も、このときばかりは全く働いていない。共和国の工作員である彼が連邦に潜入していたのは連邦のとあるスパイを処分するためで、反撃には屈せず最終的に任務は完遂しているのだが、今この瞬間を狙われでもしたら、一切の抵抗もなくあっさりと死亡していたかもしれない。
幸いにもそういった不幸は発生しなかったが、シンディの取材が終了した後まで冬雪が本から顔を上げなかったので、局長は気を遣って、「気が済むまでここにいて構わないよ」と残して去って行く始末。常の冬雪ならばありえないことである。
分厚い本の第三章まで読み終えたところでふと喉の渇きを覚え、冬雪が顔を上げると、彼はいつの間にか、シンディの膝の上に座っていた。彼女の細い腕でしっかりと拘束されているので、読書中に彼女がやったらしい。持ち上げられてなおそれに気付かないほど読書に集中するなど、一体いつ以来だろうか。
振り返ってみると、シンディはソファに沈めた身体の上に冬雪を抱えたまま、目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。相当暇を持て余していたらしい。
(助かったような、困るような)
しかし子供のすることを邪魔せず、ただ静かに傍にあって守ろうとしていたその姿勢は評価したいところだ。シンディはいずれ良き母たりえるだろう、などと余計なことを考えながら冬雪は床に飛び降り、途中まで読んだ本の題名を頭に叩き込んでから棚に戻した。可能であれば、姿が戻って帰国後に、同じ本を注文するとしよう。
「本当によく寝てるな、一応今は仕事中じゃないのか。寝ていていいのか」
誰のせいでこうなったのかは棚に上げ、冬雪はシンディを揺すり起こす。
「キャメ……シンディ姉ちゃん、起きろー」
「うーん、シリル、今何時?」
「誰だよっていうかまたこのパターンか」
焦点の定まらない寝ぼけ眼で冬雪を視界に収め、シンディが相好を崩した。
「ありゃ、シリルちょっと縮んだ? 髪色も黒くなっちゃって」
「誰がシリルだ、誰が。目を覚ませ、シンディ姉ちゃん」
「……夏生くんじゃん。どうしたの」
「仕事先で寝たのはあんただぞ」
その後急速に目を覚ましたシンディに手を引かれ、半ば飛び出すようにして科学技術省支局をあとにした。
「まったく、仕事中に寝るなよ」
「いや君がずっと本読んでるからでしょ。あーしが持ち上げても動じないんだもん。そしたら子ども体温でぽかぽかで、抱き心地もいいんだから眠くなるに決まってるじゃん」
「なんでボクが怒られるんだ? 少々腑に落ちないんだが?」
次の取材まで時間がるので街を散歩しつつ、冬雪とシンディが言い合っている。それをすれ違う人々は一瞥して通り過ぎて行き、時折舌打ちも聞こえてくるが、二人とも、そんなことを気にする小心者ではない。
ただの喧嘩ならともかく、共和国語なのだ。連邦の第三者がこの場にいない以上、二人ともわざわざ連邦の公用語で話す理由はない。内容が分からないこともあって、連邦人の通行人には苛立ちを与えているのかもしれない。
「ところであの本、面白かった?」
「ああ、帰国したらどこかの書店で注文しておこうと思うくらいにはな」
「……帰国前に買っていけばいいんじゃ?」
「どこに売ってるんだろう、あれ」
そもそも連邦と共和国では輸出入の審査が厳しく、本を買って帰国することが可能なのか、という問題もあった。可能であれば安いし早いので楽なのだが、実現性に疑問があるのだ。昨今の政治情勢の影響も無視できない。ならば帰る前に読み切ってしまった方が確実ではないだろうか。
「シンディ姉ちゃん、この後時間はあるか?」
「ないよまだ仕事が残ってるよ」
「なら別行動か」
「一人でどこ行く気?」
「本屋。または図書館」
「なに手振り払おうとしてるんだよ行かせねーよ?」
「なら明日」
「残念、明後日までは連日仕事だ」
冬雪が舌打ちすると、シンディは強がる子どもを見るように笑った。実態がどうかはさておき現在の冬雪は子どもの姿そのものなので、何を言っても大人ぶりたい子どもの強がりとしか映らないだろう。
(魔法能力自体は普通に残ってるのに)
とはいえ、先刻は常ならばありえないほど油断して読書に耽っていたので、あまりこれ以上強くは言い返せないのも事実だった。子供の身体に精神が引っ張られているのだろうか。心身は相互に影響し合うともいうし、はたらきとしてはおかしな話ではない。それが自分のことになると、途端に面白くないというだけのことだ。
「はあ、屈辱だ」
「あーしという姉がいる前でなんてことを」
「そうじゃない。それがないとは言わないが」
単に身体が小さいというだけで子ども扱いを甘受せねばならない、この状況が、である。一度は成人した身であるのに、再び子どもからやり直さなくてはならない。創作物の中の出来事であれば他人事なのだが、我が身に降りかかってみると、冗談ではない。
そもそも、なぜ急に身体が幼児化したのか。
そこを解明しないことには、帰国することもままならない。このままでは本当に、シンディの弟にされてしまう。それはさすがに冗談だと思いたいところだが、冬雪は代替案を提示できない状況だ。
所属するスパイチーム『幻影』の誰よりも、圧倒的に幼い容姿。あるいはこれが何かに使えるのかもしれないが、子どもは子どもというだけで軽んじられ、取り合われず、デメリットも多い。特別情報庁なら見捨てられはしないかもしれないが、それも帰国できればの話だ。
(今日は帰ったら、幼児化したこの身体を隅々まで探ってみないとな……)
まずその前に、シンディの回る取材先へ全て同行しなくてはならない、という面倒な段階も挟まったが。
夕方、一度マンションに帰ってきた冬雪は、軽いはずの重い身体をベッドに投げ出した。シンディに付き合わされてあちこち取材に歩き回り、体力が限界なのだ。本来ならば体力が尽きることがないように魔道具を使用しているのだが、子供の身体では副作用が読めず、一時的に停止しているのだ。
「こら、ベッドに転がる前にお風呂に入りなさい」
部屋の入り口から聞こえてきた声に、冬雪は首だけを動かして振り返り、じっとりとした視線を投げた。
「何でまだいるんだよ、シンディ姉ちゃん」
「あーし今日、こっちの部屋に泊るから」
「はあ? ホテル取ってるんだろ、帰れよ」
「わあ、反抗期?」
「喜ぶな気色の悪い」
なぜか手を合わせて表情を輝かせて手を叩くシンディに、余計にげんなりとする冬雪。
(こいつ本当に、冗談半分とはいえ、ボクに結婚の話を持ち掛けてきたのと同一人物か? 風邪で精神退行していたとはいえ、ボクの妹になりたいとかほざいていたのと同一人物か?)
連邦での任務中、諸事情から寝食を共にしていた彼女が提案した話。そして、根城を移動してなおついてきて、熱を出した彼女が看病中に呟いた寝言のような話。そのどちらを思い返してみても、今の姉然としたシンディとは似ても似つかない。
仕方なくベッドから降り、床に座り込む。普段であれば初級魔術の銀魔力を使って椅子でも置くところなのだが、体力が尽きかけている状況で、魔力を使うのは避けたいところだ。本格的に動けなくなってしまう。そうなればシンディのことだ、いよいよ何をされるか分かったものではない。
「身体を隅々まで調べてみるつもりだったんだけどなあ」
「後ろ向いておこうか?」
「違う、そうじゃない。魔法力を使う余裕がないってことだ。というかそれでなくとも出て行けよ」
「難しいことは後回し、まずお風呂入っちゃおうか」
「おい待て」
疲れた身体に鞭打って冬雪は跳ね起き、素早く着替えを掴んで脱衣所に飛び込み、契約精霊に指示して結界を張る。
「あら速い」
「いいか、ボクが良いと言うまで、結界を維持しろよ。『星の煌めき』に匹敵するような威力の魔法が使われても、絶対に
普段は銀魔力で補っている瞬発力を自分の貧弱な筋肉だけで準備運動もなく発揮し、息も絶え絶えに脱衣所に立て籠もった冬雪が指摘した。
「そもそも、シンディ姉ちゃんは着替え持ってきてないだろ!」
当たり前のことを言ってやると、扉の向こうでシンディが膨れる気配がした。結界は扉の外側に張り付くように展開しているので、シンディの方から扉に触れることはできない。代わりに、彼女は結界を指で叩いた。
「愚弟め。可愛くないなあ、もう。せっかくお姉ちゃんが身体洗ってあげようっていうのに」
(いや、こいつやっぱり
多分冗句だと思いたいが、今回ばかりは本気のような気がしないでもない。だが、子供でも六歳を超えたら一人で風呂に入ってもいいのではないか。そもそも冬雪は、今でこそ見た目がこれでも、中身は成人男性である。何を心配しているというのか。
変な奴だな、と呆れながらも冬雪は体格に合わない服を脱ぎ、浴室に移動した。
入浴しながら自分の身体を隅々までスキャンすると、冬雪は奇妙なことに気が付いた。
「呪術魔法……の、痕跡か? ボクが使った物じゃないな、だとしたら使用後に残骸が自壊するから、痕跡なんて残らないし」
そもそも自分で付与したものならば、覚えていないはずがないのだ。誰がいつの間に、と訝ったが、そもそも候補者など、冬雪でなければ一人しかいなかった。
「『黒死蝶』だな」
先進国家連邦の諜報機関、対外情報局の諜報員にして、共和国の諜報機関である特別情報庁に潜入していた、一人の女がいる。
そもそも冬雪が連邦を訪れていた任務というのが、この女の始末だったのだ。コードネームは『黒死蝶』、魔法技術に疎い連邦のスパイでありながら、冬雪と同等近い魔法の才を持つ人物。数回の交戦を経て生け捕りにすることができたが、冬雪に気付かれずに呪術魔法を仕掛けるなど、彼女くらいにしかできないことだろう。
浴室から出て服を着ながら、この呪術魔法について詳しく解析してみる。あくまで痕跡なので調べるのは骨が折れるが、既に役目を終えた呪術であれば、己の身にどのような影響が出たのか、調べなければならない。
あるいは対象者は、冬雪以外の誰かだっただろうか。彼の傍にいた者に、何らかの影響を及ぼす呪術魔法、という可能性。どういうわけか今回の任務、冬雪の動きは対外情報局に筒抜けだった。同僚の岩倉と行動を共にしていたこともだ。冬雪を直接どうにかするのは困難だと判断して、岩倉の方を攻撃して足枷にする、という戦略も、ありえる話だ。
「うーん、分かってたけどだぼだぼだね。可愛いけど」
「いや、だとすれば時期が合わないか?」
「何が?」
脱衣所の入り口に張った結界を解除し、紐で縛って無理やり丈を合わせた寝間着姿で部屋に戻り、思考を進める。
岩倉を攻撃する方針に切り替えたのであれば、それは冬雪が『黒死蝶』と交戦した最初、入国初日の銃撃戦が契機だったはず。しかしその後、次に冬雪が『黒死蝶』と交戦したのは、『黒死蝶』が身を寄せていたスパイチーム『閻魔』の拠点を襲撃したとき。
だとすると『黒死蝶』は寝起きの状態で呪術魔法を構築し、冬雪に与えたことになるのだ。あるいは呪術魔法は予めストックしたものを使用したのかもしれないが、呪術魔法の備蓄を作るくらいなら、冬雪なら誰かに渡しておいて、tRNAの如く特定の場所に運ばせ荷物に付与させておく、くらいのことはする。
それをするのであれば、そもそも当時、冬雪も岩倉も、使用していたマンションの部屋が連日荒らされる被害を受けていたのだ。そこで呪術魔法を移すか、最初から岩倉の部屋に爆弾でも仕掛けておけばいい話。こんなに回りくどい方法を取る必要はない。
「だとすると、狙いはキャメロンの方か?」
「おい愚弟……聞こえてなさそうだね」
思えばシンディは、冬雪がエルステラでワンルームマンションを確保した際、部屋に居候した挙句風邪を引いて熱を出した。これが呪術魔法の影響だとしたら?
「キャメロン、動くな!」
「今度は何さ」
冬雪は小さな身体で、小柄とはいえさすがに今の彼より大きい彼女に飛びつくようにして、ベッドに押し倒した。何か語弊がありそうだが、これはこう表現するほかないのだ。
「あらまあ、随分と情熱的なこと」
戯言を無視して、冬雪は自分にしたのと同じように、シンディの身体を隅々までスキャンした。結果、彼女の身体から呪術魔法の痕跡は、何度探っても見つからない。
「あの風邪、本当にただの風邪だったんだな」
「他の何かだったと?」
「いや、呪術魔法の可能性考えてた」
「君じゃあるまいし」
「ボクに近い実力の敵がいたから。でも違ったみたいだ」
ということは、冬雪に残ったこの呪術魔法の痕跡は、やはり冬雪を狙ったものだということになる。しかし一体いつ?今回の任務、『黒死蝶』と交戦したのは三回だ。入国初日、襲撃の夜、それとエルステラでの決着。この中で付与できる余裕があったのはどこか。
決着時ではないだろう。冬雪は、『黒死蝶』がばら撒こうとした呪術魔法をすべて解除したのだから。
襲撃の夜でもないだろう。あのときの『黒死蝶』に、そこまでの余裕があったとは思えない。
だとすると、初日の銃撃戦になるが、いくらなんでも、転移魔術なしで呪術魔法を付与するなど……。
「違うな、何かが引っかかる。いや、何かを忘れている?」
台所に向かうシンディを気に留めず、冬雪は思考を進める。
銃撃戦、呪術魔法、ここから導き出される記憶はというと。
「そうか、霧散したと思った、銃弾に載せられたあの呪術! 消えたと思ったが、まさか生きていたのか」
考え事は次に進めることになる。
問題は、この呪術魔法が、一体何だったのか、という点だ。今回の身体の縮小と、関係があるのか。あるとしたら、どのように、どう対処すべきなのか。
痕跡が残っているのなら、多少は解析ができる。詳細に構造を再現することは不可能だろうが、大まかな断片を探ることはできるかもしれない。冬雪は呪術魔法を移し替えるための代わりの媒体を探そうとして、遅まきながら右手の指輪が消えていることに気が付いた。
「……あれ?」
本来そこにあったはずの金色の指輪(生命線にも近い魔道具)を紛失している、そしてそれに気付いていなかった事実を目の当たりにし、風呂上りにもかかわらず、滝のような冷たい汗が流れ始めた。
それもそもはず、身体が縮むということは、指も細くなるということだ。指輪が外れない道理はない。朝の時点で気付くべきだったのだ。ということは九割九分の確率で部屋のどこかに落ちているはず。落ち着け、と繰り返し自分に言い聞かせながら、冬雪は部屋の中をスキャンして捜索しようとし、今度は膝を着いて床に倒れた。
「夏生くん、今すごい音したけど大丈夫……夏生くん!?」
台所で夕食の用意でもしていたのか、シンディが顔を覗かせた。そしてあるべき場所に冬雪の姿が見えず、視線を上下させ、床に転がっているのを確認して二度見。手に持っていた何かの調理器具をシンクに放り出し、慌ただしい足音で駆け寄ってくる。
「何、急にどうした!?」
「キャメロン、うるさい……」
「愚弟、おめーさっきは自分からあーしを押し倒したと思ったら、今度はうるさいと言うかよ。マイペースな奴だな」
子供の軽い身体を抱き上げられ、抵抗する余力もなく、なされるがままに冬雪はベッドに転がされた。
「それで、急にどうしたのさ」
「さっき身体の隅々まで精密に探知して、何か変なところがないか調べてたんだ」
「うん」
「そうしたら呪術魔法の痕跡が見つかったから、それが何か、誰にいつ仕掛けられたのか、どういう効果のあるものなのかを調べようと思って」
「あーしを押し倒して調べたのも、その効果範囲の一環ってわけね」
「ああ。結果、どうやら効果はボクだけに限定されていたんだろうってことまでは推測できた。それで次に、実際にどんな効果が与えられていたのか調べようとしたんだけど」
「一日歩き回って疲れてたところでそんなことしようとしたもんだから、ついに力尽きて倒れた。あえて言うぞ、
抵抗できないのをいいことに、シンディは冬雪の頬にむにむにと人差し指を突き立てて遊び始めた。
「まったく、夏生くんさあ、今の自分の状態分かってる? 今の君は、本来の大人の身体じゃなく、なぜか小さくて可愛い子どもの身体になってるんだよ。普段みたいに魔法使うような体力はないの。少し落ち着きなさいな」
本当の姉のように説教されては、何も言い返せない。ばつが悪くなって顔を背けると、シンディがおかしそうに笑う声が耳朶を打つ。
「それこそ一人なら全部自分でやらなきゃならないところだけど、今は頼りになるお姉ちゃんがいるんだから。少しは頼るところだよ。そこで休んでろよ、あーしが夕飯持って来るまで。間違っても寝ながら魔法調べようなんて思うな、むしろ寝てろ」
それからシンディが食事を運んでくるまで、どれだけの時間がかかったのか、冬雪は把握していない。全身の疲労のため、意識を手放し、時計も見ていなかったためである。
なお、夕食のためにシンディに起こされたとき、失くしたと思った指輪はベッドの上であっさりと発見された。探し物というものは、案外そんなものだろう。結局、部屋全体をスキャンしようとして、床に倒れる必要などなかったのだ。
一晩明けて目を覚まし、巻き付いているシンディの腕を解いて、抱き枕にされてた己の身体を再確認してみる。残念ながら、冬雪の身体は小さいままだ。
(まあ、それはそうか)
軽い体調不良とはわけが違うのだ。少し寝たくらいで、身体の大きさが元に戻るはずもない。分かり切っていた事実を改めて確認し、ベッドから降りて軽く伸びをする。
夜早く寝た(というか、寝かしつけられた)ため、一〇時間は熟睡して体力も回復した。今なら自前の魔法力で、天候操作もできそうだ。特に理由もないのでやらないが。
前日の夕方に回収していた指輪を取り出し、起動。詳細は割愛するが、この指輪は様々な道具を格納している、「動く武器庫」である。仕組みは精密な転移魔術の応用で、今回の任務では、渡航の際に持ち込めない拳銃や狙撃銃の運搬のほか、実は他に長期出張に必要な荷物の大半もここへ収納し、手荷物を減らすのに役立てていた。
取り出したのは、小さな水晶片だ。マナ水晶と呼ばれるこれは魔法力と相性が良く、魔法力を蓄積したり、呪術魔法を保管しておくことも可能だ。
冬雪が自身の身体から発見した呪術魔法の残骸を、このマナ水晶に慎重に移動させる。繊細な操作だ、手元が狂えば、微かな呪術魔法の残骸は容易に崩壊し、復元不可能になって霧散してしまう。
そうなれば解析はできなくなってしまうが、移動に成功さえしてしまえば、複製して解析がしやすくなる。分子生物学における
無事に呪術魔法をマナ水晶に移したところで、ベッドの上で物音がした。夏だというのになぜかもこもことした寝間着のシンディが、目を擦りながら身体を起こす。彼女は周りをきょろきょろと見渡した後、冬雪の姿を視界に収めると、相好を崩した。
「おはよう、夏生くん。すぐ朝ご飯の準備するからね。よく眠れた?」
「多分な。身体の調子は悪くない。まあ、大きさは元に戻らなかったがな」
朝には弱いのではなかったか、と疑念は持ったが、確かに朝に弱い姿は擬態だと言っていた記憶もある。半分冗談だと思っていたのだが、事実だったのかもしれない。
それにしたって、今朝は目覚めが良すぎる気もするが……。
「しかしまさか、宣言通り本当に泊まっていくとは」
「
「それがまずおかしいんだよ。ボクは三等工作員、あんたはボスの協力者だ。任務で常に行動を共にする間柄じゃないぞ」
「今更何を? まさか、友達だと思ってたのはあーしだけだった!?」
「ボクはあんたの他に、友人らしい友人は共和国に片手で数えるほどしかいないが」
「おや珍しくデレた。あーしも愛してるぞ」
「『も』がどこから出て来たのか訊いてもいいか?」
「ま、今はあーしが姉でおめーは弟だがな!」
「あくまでそこは譲らないんだな……」
いつも通りのやり取りに、安心感がある。口では何とでも言えるが、自立した冬雪とて、精神安定は必要なのだ。その点シンディが平常運転だと彼としても助かる。言葉にすると調子に乗るので、絶対に本人には言ってやらないが。
身体が縮んで三日目の夜、呪術魔法の残骸の解析が完了した。調べて分かったことは、次の通りである。
まず、非常に細かく、壊れやすく、繊細で隠匿性の高い呪術魔法であることが判明した。冬雪が多用するエネルギー探知に検出されない時点で分かっていたが、これを仕掛けたのは、やはり『黒死蝶』で間違いないだろう。入国初日の銃撃戦で感じた呪術魔法の気配、正体はやはり、これだったようだ。
そしてこの呪術魔法の効果だが、全容は不明ではあるものの、恐らく冬雪の全身に作用する、何らかの変性機能である可能性が高い。死ななかったのは奇跡だろう。細胞の脱水やたんぱく質の変性、脂質の流出などが起こることは確実。むしろなぜ生きていられたのかが疑問だ。死んだ細胞もあるようだし。
そして、これは静かに魔法力を収集し、必要量が集まったときに発動する仕組みだったため、これまで何事も起こらなかったのだ。タイマー機能のようなものは確認できていない。恐らく『黒死蝶』にも、この呪術魔法がいつ起動するのか、分かってはいなかったのではないだろうか。
「それじゃあ、真逆のことをすれば、夏生くんは元に戻るわけ?」
「さあ、実際のところどうなんだろうな。それで済むなら多分それが一番簡単なんだろうけど」
思考整理のためにシンディに話したが、これ以上の内容は冬雪にも分からない。解析できたのはあくまでも残骸、全体像は見えていないのだ。
それはつまり、この呪術魔法が具体的にどのようなメカニズムで作用したのか、どうやって冬雪の身体を縮め、本来何を狙っていたのか、それらが完全に不明である以上、対処法は一から考えなくてはならない、ということである。
「しかしまあ、一昨日の朝、なんであんなに寝汗をかいていたのかは理解したよ。身体が縮むうえで余分になった細胞内の水分とかそういうのが、全部汗になって出ていたからか。そりゃあベッドが洪水みたいになるわけだ」
布団を洗っておいて良かったな、と冬雪は呟いた。言い換えてしまえば、あの寝汗は体内の不要物が大量に入っていたのだ。仮に汚物でなかったとしても、気分の良いものではない。
「戻し方が分からないとして、これからどうするの? ずっと小さい身体のままってわけにもいかないでしょ? あーしは弟と妹が増えるくらいは別にいいけど」
「ボクが嫌だなそれは。ただ、実際他にどうしようもないのも事実で、頼れる相手もいないとなると……。いや、いることにはいるんだよなあ、こういうのに詳しそうな奴が。泣きつくのが極度に癪に障るってだけで。絶対恩着せがましくなんか言われるし」
「この状況で頼れる人がいることに驚きだよあーしは」
「専門家みたいなものだからな。あれは、人と呼んでいいのか? 少々疑問は残るが」
唸っていても、何も変わらない。本人(?)に連絡を取るのは最終手段として、冬雪はまず、その伝に連絡を試みることにした。時差を考えて、翌朝に。
詳細は省くが、クリスティーネ・クルーザは大天使である。通称ではクリスと呼ばれる外見年齢一七歳の彼女は、共和国首都ギルキリア市に市民として紛れ込んでおり、今回冬雪の身に起きた事象について対処法を持っていそうな相手の従者である。何か知らないだろうか、と一縷の望みを賭けて、通信を繋いだ。
「久しぶりだな、クリス」
「……私が知ってるあんたより小さくない?」
目的のために協力関係にある彼女とは、共和国では表向き、友人関係を築き上げている。『幻影』以外ではほとんど渡していない通信魔術を繋いでいるのも、協力関係にある一種の証だ。シンディとはまた違った方向性で軽口を叩き合うクリスは、通信魔術に映った幼い風貌の冬雪を見て、整った
「ちょっと色々あってな。まさにこれについて相談したい」
「あんた、何歳だっけ」
「戸籍上は一九だな」
「で、今の外見年齢は?」
「六歳程度」
「魔王様が何かした?」
有数の従者にも疑われる主の人望については何も言わない。
「むしろそうだったら、話は簡単だったんだけどな。そうじゃないんだよなあこれが。敵のスパイと撃ち合いになったときに、呪術魔法でやられた」
「あんたでも呪術魔法に気付かないなんてことあるのね。
「言葉に棘があるな、最初にこっそり仕掛けてたの、もしかして意外と根に持ってる?」
「持ってるわよ?」
当時は敵か味方か分からなかったので仕方なかったと思うのだが、本題はここではない。
「早い話が、身体を破壊するような呪術が起動して、奇跡的に死ななかった。その結果として一三歳分くらい身体が縮んで子供みたいな大きさになった。何とかして元に戻りたいんだが、どうしたらいいと思う?」
簡潔に説明すると、クリスは露骨にため息をついた。
「それ、私じゃなくて、魔王様に訊くことじゃない? 専門外よ」
「そうなのか。てっきり、大天使なら多少は知識があるのかと」
「普通持ってないのよ。治癒系の魔法が使える精霊の方が詳しいくらいじゃないかしら。魔王様からその辺りの情報を聞いている大天使もいたけど、揃いも揃って堕天してるから抵抗感が強くなって、今は誰も知らないみたい」
「ちっ、使えねえな、あの風船め」
堂々と悪口を言った冬雪を睨み、クリスが言う。
「あんたのその身体も、あんたの言う風船が作ったものだけど?」
「はあ、やっぱり製造元に問い合わせるしかないか?」
気が進まないのを隠しもせず、冬雪はベッドに転がった。手詰まりである。今は何でもいいから情報が欲しい。正直なところ、子供の姿でいるのも飽きたのだ。
クリスが言うように、治癒能力を持つ契約精霊にも既に相談してみた。だが、あまり芳しい回答は得られなかったのだ。手段を選んではいられない。
通信を切ると、冬雪は台所で朝食の用意をするシンディを呼んだ。
「キャメロ……シンディ姉ちゃん」
「愚弟、おめー今また間違えそうになったな?」
「そんなわけないだろシンディ姉ちゃん、ボクがいつ名前を呼び間違えたというんだシンディ姉ちゃん。言いがかりは控えてくれシンディ姉ちゃん」
「誤魔化そうとしてるな」
いつもと力関係が逆転していることを寸前で思い出し、ミスをなかったことにしようと必死な冬雪と、追及の手を緩めないシンディの攻防。正面からでは抗いきれないと悟った冬雪は、話題を逸らして逃れることにした。
「それはさておき、今日は仕事で出かけないんだよな?」
「そうだよ、一日中お姉ちゃんを独占できて嬉しい?」
「いや別に? ボクは朝飯の後に転移魔術で行くところができたから、シンディ姉ちゃんは一日どこか出かけていてくれ。一応夕方までには帰るつもりでいる」
ぽかんとするシンディを傍目に、冬雪は空中に魔法陣を浮かべ、こんな形だったかな、と記憶を探り始めた。
詳細は省くが、《禁忌の魔王》は、冬雪の身体を作った張本人(?)である。冬雪はそもそも共和国生まれではなく、元は日本人だ。諸事情あって共和国に拠点を移すにあたり、都合に合わせて身体を新しくしたのだ。その身体が現在問題に見舞われているので、製造元に問い合わせるのは自然な流れといえよう。
《禁忌》は連邦や共和国のある世界にはおらず、配下に当たる数名の天使や大天使が、状況に応じて各所に配置されている。クリスもそのうちの一人だ。
肝心の《禁忌》は別空間に座しており、冬雪はその空間へ繋がる特殊な転移魔術を知っていた。空間を超越する性質故に消費する魔力は多いが、使用してすぐに動けなくなるほどではない。実際、《魔王の間》に降り立った冬雪は、大量の汗を流し荒い呼吸をしながらも、二本の脚でその場に立っていた。
「畜生、大人の身体か、魔力を外部供給していれば、こうはならないんだがな……」
室内に控える天使たちの視線を一身に浴び、冬雪は顔を上げて《禁忌》を見据えた。意外と軽そうだが大きさは一般的なヒトの比ではないその巨体、肌はピンク色で黒いチョッキを着た尊大な顔つきのそれが、冬雪の身体を構成し、共和国に移住させた、《禁忌の魔王》だ。
その尊大な《禁忌》ですら、さすがにこれには困惑していた。
「それは一体どういうことだ? なぜ小さくなっている?」
「ボクだって信じたくはないが、敵の呪術魔法にやられたんだ。死んで当然の呪術だったが、運良く死ななかった。大人の身体に戻りたいから何とかしてくれ」
息も絶え絶えに説明すると、《禁忌》はさらなる説明を求めた。冬雪は《禁忌》を好いてはいない。威圧感はないが親しみやすさもない風船魔人、共謀はできても親交は不可能、という当初の印象は出会って三年に届こうかという今でも変わっていない。
だが現状を打破できるとすれば、今目の前にいる《禁忌の魔王》か、あるいは冬雪に呪術を仕掛けた『黒死蝶』くらいなものだろう。何よりここまで来ておいて、出し惜しみをしている場合ではない。解析した内容を順に説明した。
「先に言っておくが、解析できたのは体内に残っていた呪術魔法の残骸のみ、全容は不明だ。ただ、恐らく全身に作用する何らかの変性機能を持っていた。細胞の脱水、たんぱく質の変性、脂質の流出、これらは間違いない。死んだ細胞もある。不要物は全部寝汗として排出されたみたいだった。死んでいなかったのが奇跡みたいな話だ、本来は殺す気で使ったんじゃないのか。詳細な目的は敵を本国に移した後ですぐに訊ける状況ではないし、よく分からないが。分かっているのはこれだけだ」
呼吸を整えながら全て説明するが、ほとんど何も分かっていないようなものだな、と冬雪は自嘲した。今更言っても仕方のないことだが、なぜもっと早く気付かなかったのだろう。
「どうにかなると思うか?」
しかし《禁忌》は、何でもないように頷いた。
「ああ、難しい話ではない」
「ボクから頼んでおいて言うことでもないが、本当にどうにかなるのか、これは。どうにかなってくれないと確かに困るが」
「お前の身体は今から調べるが、状態が分かれば修正は可能だ。そうでなくば、支障になる」
「そりゃそうだろうがとは思うが」
そもそも、《禁忌の魔王》が冬雪を共和国に移住させた目的は、冬雪が共和国に移住した目的と一致するのだ。冬雪が困れば、《禁忌》も困るのは道理だった。
「今から全身を隈なく調べる。動くな」
《禁忌》が冬雪に命じると、室内の天使たちが冬雪を取り囲んで取り押さえた。そこまでせずとも動かない、と反駁しそうになったが、さすがに自重した。
冬雪の身体を《禁忌》と天使たちが隈なく調べ、出た結論は本当に単純なものだった。
「逆のことをすれば元に戻る」
本当にそれでいいのか、と冬雪は訝ったが、専門家がそう言うのであれば、疑っても仕方ない。問題は、その逆の手順であった。脱水した細胞に水分を戻し、変性したたんぱく質の立体構造を元に戻し、流出した脂質を補充し、死んだ細胞を蘇生すれば、元の冬雪に戻る。理論上はその通りなのだが。
「いや、たんぱく質の変性が不可逆反応なのは常識だが」
「物質操作魔術で事足りる」
「本当に万能な錬金術だなあれ……」
「だが時間はかかる。お前の身体を今の状態から復元するとして、かかる時間は一週間だ」
「逆に一週間でこの状態から戻せるあんたが怖い。つくづく敵に回さなくて良かったと思う」
問題は、その一週間、冬雪が何もできないことだった。身体を修理するのだから当然だが、着手してから完了するまで、《魔王の間》に留まり続ける必要があるのだ。
死んで身体を乗り換えるのとはわけが違う。あれは前もって準備しておくことで、最終的に魂を移動させて定着させることで一日程度で完了するが、身体を乗り移るわけではない今回は、生きた身体で修復を続けるため、魂を乗り換えて移行する、という手順は使えない。予備の身体でもあれば、また話は別なのだろうが。
「天使であれば、そういった処置も行うことはあるがな。諜報活動に駆り出しているリークスは、複数の予備を保管している」
それを聞いて冬雪が思い出したのは、かつて再起不能になったある大天使の名前だった。
「フローツェルは、予備はなかったのか?」
「今の大天使で予備の用意があるのは、リークスとクリーシス、ミルリアル、シェリアルだな。いずれも抜きん出て危険な任務に投入している者だけだ」
「大天使が一三人しかいない割には、意外といるんだな」
シンディに説明してからでないと一週間空けられないということで、冬雪はこの日は一度、マンションに戻ることにした。転移魔術を使用後、今度こそ力尽きて床に倒れ気絶したが。比較的早期に発見されたのは、心配したシンディが、日が傾くより前に戻ってきたからである。ぴくりとも動かない彼を見て、彼女はこう言ったのだ。
「今日は何!?」
今日は、と言ったあたりに、冬雪の前科の深さが表れているだろう。揺すっても反応を見せない冬雪を見て、シンディは即座に彼を抱え上げ、ベッドに寝かせた。呼吸と脈を確かめ、額に手を当てて検温。結果、単に意識を失っているだけであることが判明し、シンディは薄い胸を撫で下ろした。
「はあ、まったくもう。心臓に悪いんだから……」
再三確かめてから台所に向かい、買ってきた食材を使用して夕食の用意を始める。料理が終わっても冬雪が目を覚ます気配はなかったので、シンディはテーブルに食器を並べた後、「いつまで寝てるんだ、起きろ愚弟」と言って彼を起こす必要があった。
冬雪が身体の修復を行っている一週間の間、シンディは冬雪の部屋には入らず、元々仕事のために取っていたホテルで寝起きしていた。彼女の本職は共和国国営放送局の特派員であり、国営放送局は国の機関だ。経費は国費から出るため、無駄遣いは許されない。無駄の基準がどこにあるのかは不明だが、ホテルの等級や宿泊料にも上限があった。
シンディが使っているホテルはビジネス用を想定されたものであり、格安だ。その分設備は最低限、食事の提供もなく、当然ながら室内に調理場はない。警備もほとんどなく、「ただ寝床を提供するだけ」の施設だ。
「はあ、夏生くんがいないと退屈だねえ」
冬雪不在の二日目夕方、左右で長さの違う金髪を無造作に巻き散らしながら、軟らかくもないベッドに倒れ込む。仕事で使った服そのままに、着替えすらも億劫で、長いサイドテールだけを解き、真夏にもかかわらず冷たい布団に体重を預ける。
冬雪と共に生活していては決して見せない姿だ。今はどういうわけか小さくなっているが、あくまで冬雪は、シンディにとって家族ではなく、異性の友人である。彼の方は人付き合いが下手すぎるのか、友人と家族の区別が曖昧なようだが。
例えば冬雪の養女の話はシンディも幾度となく聴かされているが、実の親よりも溺愛しているのではなかろうか、という気さえするほどだ。それだけに、今回の長期任務で一ヶ月離れ離れになるのは、なかなか堪えているらしい。
とばっちりを受けるのは任務の後片付けを邪魔する連邦の防諜員たちだ。本題が終わってようやく帰れると思ったところで妨害を受け、滞在期間が長引いているのだ。幼児化して後片付けを強制中断しなければ、そろそろ本気のフラストレーションが攻撃力へとダイレクトに変換され、死人が出ていた頃だろう。元の身体に戻った後が怖い。
それらを考えながらシンディはベッドから起き上がり、服を脱いで乱雑に洗濯籠に放り込むと、冷たいシャワーを浴びて、今度は眠るためにベッドに華奢な身体を投げ出した。
(そういえば夕飯食べてないけど、まあいいか)
万全な状態の冬雪がいれば、「良くはないだろう」とでも言って何か用意してくれたかもしれない。一人だとどうにも生活の気力が湧かないものだ。
数日くらいなら、一日の食事回数を減らしても問題はない。むしろ食費が浮いて金が増えるなら願ったり叶ったりである。シンディが国営放送局の特派員の職にありながら、共和国の諜報機関である特別情報庁で連絡係をやっているのも、ひとえに金が欲しかったからだ。仕事は金が第一優先、自分のそれ以外は二の次三の次。
同じく魔道具屋でありながら特別情報庁の工作員をやっている冬雪は、また別の理由で仕事を掛け持っているという。自分にはない発想だ、とシンディはぼんやり思いながら瞼を閉じ、ゆっくりと意識を手放した。
冬雪のいない一週間は、同じような仕事漬けの日々を過ごした。
身体を
睡眠状態を維持するため、死なない程度にエネルギーを常に吸われ続ける状況は、何かを一手間違えば容易に命を落としていたこと疑いない。無論冬雪も危険を承知で修復を決めたわけだが、《禁忌の魔王》と天使たちに命を預ける覚悟も、既に二度目である。彼の身体は、
第一、眠ってしまえば覚悟もへったくれもない。
「
それが、《魔王の間》に浮かんだ姿勢で目を覚ました、冬雪の第一声であった。幽灘とは共和国にいる養子の娘の名前である。やがて彼は目を開き、大きく伸びをして、ゆっくりと床に降り立った。自分の発言に気が付いたのは、その瞬間だった。
「……? ああ、幼児化した身体を修復していたのだったな。ようやく父親の姿に戻れたのか」
冬雪は発言内容に羞恥を覚えることはなく、むしろやや誇らしげな表情でその場に立ち上がった。やや驚いたような顔の見知った大天使を、冬雪の左右色違いの双眸が捉える。天使名はリークス、《禁忌》の配下に当たる大天使の中でも予備の身体を持つ、諜報担当の大天使だ。
「珍しいな、あんたもいたのか。そんな変な顔をして、どうかしたか?」
「いえ、なんでも。ただ、以前会ったときより随分変わられたのですね。人は守るべきものができたときと、失うべからざるものを失ったときに変わるのだ、ということでしょうか」
「そんなに変わったかなあ。幽灘がボクの被保護者であることは、ずっと変わらないがね」
実は任務で共和国を出国する前、同僚の岩倉に言われたのだ。
「キミの保護者ぶりも、なかなか板についてきたじゃーぁないの」
そのときも冬雪は先刻と同じような返答をしたのだが、法律上も正式な保護者となる前後を知る、互いに関係ないはずの複数人から指摘を受けるとなると、やはり何か変化はあるのだろうか。自覚はないだけに奇妙な気分だが、悪い気分ではない。
腕や首を回したり、手を開閉したりして、身体に異常がないかを確かめる。魔道具の類は動く武器庫やマンションに置いてきたが、自分で体内に仕込んでいた呪術魔法は、幼児化した際にも修復が終わった後にも、変わらずに残っていた。これで今後、任務の後片付けに復帰しても問題なく動けるだろう。
「お前の身体の修繕は完了した。不具合はないか?」
「ああ、問題ないだろう。確認も兼ねて、誰か手合わせでもするか?」
《禁忌》の問いかけに冗句のつもりで返したのだが、天使たちの間にはどよめきが走った。銀魔力で形作られた巨大な戦斧と浮かぶ魔法陣が原因かもしれない。《禁忌》は、痛みもしないであろう頭を押さえる仕草で冬雪に苦言を呈した。
「お前が言うと天使が警戒する」
「本気でこの空間を壊すはずがないだろう、敵対したいわけじゃないんだから。冗句だよ」
床を爪先で叩き、複雑な魔法陣を形成。連邦に戻るための転移魔術だ。魔法陣を展開しながら、冬雪は《禁忌》に言った。
「これでまた任務に戻れる。礼を言う」
言い逃げをするように転移魔術が発動し、冬雪を《魔王の間》から先進国家連邦の地へと連れ去った。
前述の通り、シンディの泊まるホテルは警備がない。部屋の鍵を受け取る必要があるので受付はあるのだが、裏口もあるし出入りする人間をいちいち確認することはないので、無関係の人間が出入りしていても気付かれない。それは無論、明らかに不審な動きをしていれば咎められはするのだが、そうでなければ素通りだ。
深夜、受付の職員もいなくなった頃に、シンディはホテルに帰った。この日の仕事は長引いたのだ。往々にしてよくあることだが、交通渋滞で移動に大幅な遅延が生じたためである。何事かと思えば大規模な自動車事故があったらしく、片側五車線の大型道路が双方向通行止めになり、一〇〇台単位の自動車が立ち往生したのだ。
幼児化した冬雪がいない身軽な状態で動けるとあって、シンディは少々遠方の政治家に取材の予約を取り付けたのだが、どうも失敗したらしかった。一報入れたとはいえ結局到着したのは日が暮れる頃で、先方は怒って追い払われてしまった。帰ってくるのにも時間がかかり、この時間である。とんでもない一日があったものだ。
さっさと寝ようと部屋の鍵を開けようとして、シンディは違和感に気付いた。
(あれ? 挟んでおいた紙がなくなってる)
シンディは国営放送局の特派員であると同時、特別情報庁の協力者でもある。今回の連邦での任務でも諜報機関絡みで身辺を狙われたばかりでもあり、少々警戒して、ささやかながら目印を置いていたのだ。扉に挟んだ小さな紙片はその一つで、誰かが開けば床に落ちるという、古典的な仕掛けである。冬雪なら何かしらの魔法を使うだろう。
ともあれ紙片は勝手に落下するものではなく、消えているということは一度以上扉が開閉されたというサインに他ならない。少し迷った末、シンディは別の新たな仕掛けを取っ手に取り付け、踵を返してホテルを出た。
夜の街を歩きながら、どこで一晩明かそうか考える。冬雪の部屋の鍵は預かっているので、そこで眠ってもいいかもしれない。まあ後で何か言われるかもしれないが、そのときはそのときだ。なんだかんだで冬雪はシンディに甘いので、事情を聞けば許してくれそうではある。
外を歩きながらも、背後に一定の距離を取って何者かの気配を感じる。交差点を左折、次の交差点でも左折、もう一度左折、さらに左折して、ブロックを一周して元の通りに戻る。後ろを着いてくる尾行は大体この方法で撒けるとされている。
(でも、相手が諜報機関の対外情報局なら、絶対見破れない尾行も別のところにいるんだろうなあ)
尾行はなにも、ずっと背後に着く人間だけではない。少し離れた位置で観察していたり、通過する道のベンチに腰掛けていたり、ただの通行人としてすれ違うなど、認識できない尾行の方が圧倒的に多い。このような相手には、ブロックを一周して元の道に戻る方法は、何の意味ももたらさないだろう。
個人として狙われているのか、諜報機関の協力者として狙われているのかは分からない。しかしこのまま冬雪の部屋に向かって大丈夫なのかには、どうにも懸念が付き纏った。
《魔王の間》を出て連邦のマンションに戻った冬雪は、一通りの基本装備(動く武器庫や通信機など)を回収すると、周囲のエネルギーを探知して不審な人物や侵入者の痕跡がないかを確認した。結果、探知範囲の端に映るシンディの呪容体。時計を見ると深夜一〇時。
(こんな時間に外で何を?)
仕事だろうか、と思ったが、彼女の歩く速度はこんなに早かっただろうか、という疑問が浮かんだ。幼児化していた間は冬雪に速度を合わせていたようだし、そうでないときは冬雪の歩く速度に追いついてきていたので、本来の歩く速度をあまりよく知らないのだが、
(今更ながら、キャメロンの方が合わせてばかりじゃないか)
さすがに少し改めよう、と反省しつつも、外に出て探知を続けながらシンディの移動を追う。曲がり角で左へ、左へ、左へ、左へ曲がり、元の道へ。これは尾行を撒くときの典型的な歩き方だ。また厄介ごとらしい。
今回の任務でも一度既に似たようなことがあったが、対外情報局も飽きないものだ。諜報員よりも連絡係の方が狙いやすいので、狙われること自体は不思議ではない。そう考えると、彼女が冬雪にべったりなのは、ある意味では理に適った防御手段なのだろうか。多分に別の要因もあるだろうが。
余計な考えを振り払い、至近距離で転移魔術を使いつつ、シンディの歩く方向に先回り。公園の茂みで探知にかかった者を観察すると、手には双眼鏡、向く先にはシンディ。尾行に参加する工作員の一人のようだ。
(始末、と)
腕、脚、首が分離して落ちる。僅かに草や葉も巻き込んで刻まれたようだが、ここまでやられたら冬雪でも復活はできない。紛うことなき死である。ここに一切の迷いはない。魔法の発動にも狂いはほとんどないので、完全に元通りに復活できたようだ。
尾行を行っていた工作員の首が落ちたことで、無線機のイヤホンが外れて落ちた。冬雪はそれを拾い上げると、たった今処分した人物の仲間が何事か話しているらしい連邦語の声を聴いた。どうやら、異常を察したらしい。要約すると、「何があったのか報告せよ」というもので、これが繰り返し訴えられている状態だ。
襲撃を受けたことは理解したようで、異常の発生した仲間に呼びかけるのを諦め、方針を転換した。なおも冬雪が無線を聞いていると、監視中の人物を拘束し、襲撃者を誘い出す算段に変更したようだ。エネルギー探知は継続中、シンディの呪容体が接近してくる。そしてそこに先回りする、別の人物の反応。
冬雪は飛び出すと同時、シンディにあと一歩で届かんと迫る敵の足を氷結させ、転倒させる。その隙に彼女の
「ボクの姉に手を出すには、あと一〇〇年足りないんじゃないか?」
引き金を一度だけ引き、無線機と繋がるイヤホンの線を切断。仲間との連絡を絶つ。シンディは冬雪の腕にすっぽりと収まり、にやけながら彼を小突いた。
「弟のくせに、ちょっと生意気なんじゃない?」
「もう可愛げのある大きさではなくなったのでね」
「確かに、可愛い少年から格好いい男になったね。もう弟と呼べないのが少しだけ心残りだよ」
「そもそも弟じゃないんだが」
敵の前だというのに冗句の応酬が始まる彼らの長期出張は、もう間もなく終わりを迎える。
本編↓
「魔道具屋になりたかったスパイの報告」
【まどすぱif】小さくなった工作員 春井涼(中口徹) @ryoharui
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