聖夜の悪魔

perchin

聖夜の悪魔

 築四〇年は下らないであろう、木造アパートの一室。

 隙間風が吹き込む六畳間に、突如として黒い霧が渦巻いた。

 霧が晴れると、そこには異形の影が立っていた。

 ねじれた二本の角。漆黒の翼。そして、闇よりも深いコートを纏った男。

「我が名はサタン」

 男は、部屋の空気を震わせるような重低音で告げた。

「我は、貴様ら人間を神から引き離し、誘惑し、堕落させし存在……」

 恐怖せよ。絶望せよ。

 そう続けようとした時、部屋の隅から鈴のような声がした。

「……サンタさん?」

 薄汚れた布団の上に、小さな女の子がちょこんと座っていた。

 年齢は五つか、六つか。

 焦点の合わない大きな瞳で、サタンの方を向いている。

「……は?」

 サタンは眉をひそめた。

「違う。サタンだ。地獄の支配者だ」

「サンタさん! きてくれたの!?」

 少女の顔がパァッと輝いた。

 彼女は布団から這い出すと、手探りでサタンに近づいてくる。

「おい、待て。どう見てもサンタじゃないだろ。……お前、目が見えないのか?」

「うん……。でもね、わかるよ」

 少女はサタンの足元に抱きついた。

 そして、その小さな手で、サタンのコートの裾をペタペタと触った。

「さわればわかるの。ふかふかのお洋服だもん」

「これは地獄の業火で織られた魔王のマントだ」

「あと、袋も持ってる!」

 少女が触れたのは、サタンの背中にある漆黒の翼だった。

「いや、これは羽だって」

「お帽子もある!」

 少女の手が伸びて、サタンの角に触れる。

「ツノ、ツノだぞ!」

「わーい! とんがり帽子だー!」

「……話を聞け」

 サタンは頭を抱えた。

「それより、親はどうした? こんな夜に子供一人か?」

「お仕事行ってるの」

 少女は平然と答えた。

「クリスマスの夜にか?」

「うちはお母さんしかいないから、働かなきゃならないんだって。だから私も我慢しなきゃなの」

 部屋を見渡す。

 暖房器具はない。あるのは、煎餅布団と、小さなちゃぶ台だけ。

 クリスマスツリーも、ケーキもない。

「……そ、そうか」

 サタンが言葉に詰まっていると、少女が背中に回り込んできた。

 トントン。

 小さな拳が、サタンの背中を叩く。

「な、なんだ?」

「サンタさん、疲れたでしょ? 肩たたきしてあげる」

「は?」

「お母さん、いつも『上手』って褒めてくれるんだよ。えい、えい」

 トントン。

 羽毛が触れるような、頼りない衝撃。感触さえ感じないほどの微弱な力だった。

 ――感じないはず、なのだが。

「……貴様、神を信じているか?」

 サタンは唐突に尋ねた。

「神様? わかんない」

「そうか……プレゼントはないんだが……何か一つ、願いを叶えてやってもいいぞ」

「本当!?」

 少女が顔を上げた。

「じゃあ、一緒に遊んで!」

 少女は、ちゃぶ台の下からボロボロの箱を取り出した。

 中には、色の剥げた積み木が入っていた。

「……ちょ、こんなんでいいのか? 富でも名声でも、世界征服だって夢じゃないんだぞ?」

「せかいせーふく? それより、私、積み木あそびしたい!」

「……そ、そうか」

 サタンは、重厚なマントを翻して、煎餅布団の上に胡座をかいた。

「じゃあ……やるか。我の本気を見せてやる」


***


 やがて、少女は遊び疲れて、サタンの膝の上で眠ってしまった。

 その寝顔は、どんな聖女よりも安らかだった。

 サタンは、少女をそっと布団に寝かせた。

 そして、少女の額に、ごつごつした指先で触れた。

 サタンは窓を開け、夜空を見上げた。

 雪が降り始めている。

「……なあ」

 悪魔は、空に向かって、忌々しそうに呟いた。

「神様、いるんだろ? ……なんとかしてやってくんねーかな」

 返事はなかった。

 サタンはフンと鼻を鳴らすと、黒い翼を広げ、聖夜の闇へと消えていった。

 その背中は、どんなサンタクロースよりも、大きく、温かく見えた。

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