灼熱のトランジット

らくろ

短編 灼熱のトランジット

その夏は、異常なほど熱かった。

妻の夏帆が死んでから、健一は仕事をやめ、千葉の九十九里の空き家に引っ越していた。二人で無理して借りた笹塚のマンションは、思い出が染みつきすぎて息ができなかった。かといって、その場所を失うこともできず、契約だけは残したままだ。

健一がここに越した理由は、いつも夏に夏帆と来ていたこの海にあの日、夏帆の骨を撒いたからだ。

海は生命の源だ。いつか、もう一度、彼女がここから還ってくるのではないか。

そんな非論理的な妄想だけが、健一を生かしていた。

時間感覚は麻痺し、空腹も感じない。陽射しが肌を焼く感覚すらない。ただ窓の外の海を眺め、たまに海沿いを歩くだけの何も考えない日々を送っていた。

その日、健一は波打ち際を歩いていた。

正午、小さな影が砂の上で足元にねっとりと張り付き足取りを重くした。

九十九里の広大な砂浜は、白く乾いた熱気で歪んでいた。アスファルトのような陽炎が砂の上に立ち上がり、水平線と空の境界は熱に溶けて、曖昧になっている。

暑さを楽しむサーファー達も、暑さに負けて冷房の効いた車に逃げ帰る人達もいる中、健一だけが、分厚いガラスを隔てたように、その熱気から切り離されていた。

​ふと、前方を見た健一は、足を止めた。

波が引いた後の濡れた砂浜。

そこに、彼女が立っていた。

​「……なつほ?」

​声は、潮風に混じって消えた。

見間違えるはずがない。夏が好きだった、薄い水色のワンピース。陽射しを避けるように傾けた、白い日傘。

波打ち際を、彼女は独りで静かに歩いている。

​死んだ。骨も拾った。この海に撒いた。

これは幻覚だ。海に、砂に反射する強烈な光が、壊れた脳に見せている蜃気楼だ。

健一は強く目を閉じ、もう一度開いた。

他人の空似ではない彼女はまだ、そこにいた。

そして、ゆっくりとこちらを向いた。

​目が合った。

止まっていたはずの心臓がギシリと音を立てた。

​その瞬間、健一は全てを理解した。

彼女は微笑んでいた。だが、それは夫である自分に向ける笑顔ではなかった。もっと穏やかで、もっと澄み切っていて、まるで重力からさえ解き放たれたような、不思議な透明感をたたえていた。

​健一の妻としての「夏帆」ではない。

もっと大いなる、魂としての存在。

​彼女の唇が、音なく動いた。

『ごめんなさい、ちょっとだけ』

彼女の視線は、健一を見ているようで、その実、水平線のさらに先、果てしない青空の、その奥を見据えていた。

​途方もない旅の途中なのだ。

地球ではない、どこか遠い宇宙。想像もつかないような星系で、まったく異なる「生」を始めるための、長い旅路。

その途上で、ほんの偶然、ほんの束の間、かつて自分が生きたこの星の、境界線に降り立った。

​健一に会いに来たのではない。

宇宙的な規模で言えば、ほんの少し軌道がかすっただけ。

乗り継ぎの待合室から、懐かしい故郷の景色を、一瞬だけ窓越しに眺めるような。

​それで良かった。それだけで、十分すぎた。

​風が吹き抜け、彼女はもう一度健一を見た。

その瞳には、未練ではなく、ただ純粋な「認識」だけが浮かんでいた。

『ああ、あなただったの』とでも言うように。

​彼女は小さく会釈すると、水平線の彼方へと視線を戻した。

その姿は、きらめく波の光の中に溶けるように、ふっとかき消えた。

​健一は、夏帆が立っていた位置を見つめたまま動けなかった。

波の音が、一瞬だけ無音になった。

次の瞬間、止まっていた世界が、暴力的なまでの質量を持って流れ込んできた。

​――うるさい。

押し寄せる波の音が、鼓膜を破るほどに轟いている。

――熱い。

焼けた砂の熱が、足の裏から突き刺すように伝わってくる。

​全身の血が、凍っていた川が解けるように、激しい勢いで巡り始める。

どく、どく、と心臓が痛いほどに脈打った。

​「……いってらっしゃい」

​乾いた唇から、声が漏れた。

その時、健一の額から汗がたらりと一筋、こめかみを伝って砂の上に落ちた。

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灼熱のトランジット らくろ @Rakuro777

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