どうせモテないし尊王攘夷でもしようぜ
伊達酔狂
Way of the Samurai
「もう駄目だ。俺には夢も希望もない」
宗次にとって、剣は生きるすべてだった。故郷では「剣の申し子」とまで呼ばれ、誰もが認める達人だった。だが、その剣は、最も大切な娘の心を射止めることはできなかった。
幼なじみの琴音に意を決して想いを告げたあの日。宗次は、いつも手入れしている竹刀と、新品の稽古着を着て、気合を入れて臨んだ。
琴音は、宗次の剣術に懸ける想いを理解してくれている。宗次はそう思っていた。だからこそ彼女の言葉は鋭く胸を抉った。
「宗次くん。ごめんなさい。でも今どき剣術なんて流行らないよ。それに……宗次くんの剣道の防具って、いつも臭いし……ちょっと無理かも」
琴音は、そっと自分の鼻を摘み、距離をとった。
「わ……分かった。すぐに洗うよ」
宗次が震える声で言うと、琴音はきっぱりと言い放った。
「そういう問題じゃないの。私、もう決めたの。近江の大きな呉服問屋の息子さんと婚約したの。宗次くんは優しくていい人だけど、世間の流れを見てよ。剣なんかじゃ食べていけないよ」
宗次の世界は崩壊した。自分は優れた人間だ。剣術の腕一つで生きていけると思っていた。その無邪気な自信は、冷たい現実と、幼なじみの軽蔑によって粉々に砕かれた。
◇ ◇ ◇
それから数か月。
藩から剣術修行の許可を得た宗次は、京の町に滞在していた。
しかし、宗次の実家はそれほど裕福ではなく、仕送りも期待できなかった。
懐の金が底をつきかけた頃、宗次は路地裏の薄汚れた看板を見つける。
「口入屋 源蔵」
主の源蔵は、顔に深い傷を持つ老いた男だった。宗次の身の上話を聞くと、彼は鼻で笑った。
「女に袖にされただぁ? いいじゃねぇか。世の男どもは色事に現を抜かして大事なモンを見失う。お前さんの目ぇは、飢えてる。剣の腕は?」
「……故郷の道場では、免許皆伝を」
「よし、用心棒だ。うちの仕事は、荷運びから人探し、時には怪しい手合いの護衛まで様々だ。まぁ、何をするにしてもだ。まずは腹いっぱい飯を食うことだな」
こうして御剣宗次の京での、そして幕末の激流に身を投じる日々が始まった。
◇ ◇ ◇
口入屋の仕事は、京の表と裏の顔を見せるものだった。ある日、宗次は「大事な書状を寺町通りの若者に届けてほしい」という依頼を受けた。その若者こそ、長州藩の誇り高き志士、
宗次が書状を渡すと、吉田稔麿は宗次の目を見つめた。
「お主、只者ではないな」
「いえ、その日暮らしの、ただの用心棒でございます」
「……そうか、お主のような人間が、そのような日の目を見ない場所で埋もれているのは、実に惜しいことだ」
稔麿は、宗次を攘夷志士たちの隠れ家である郊外の廃道場へと招き、熱く語った。
「日本は今、病に伏している。黒船に脅かされ、異国にいいようにされている。この国を救うには、朝廷を戴き、すべての異人を打ち払うしかない。これが尊王攘夷だ」
宗次は、稔麿の理想を聞きながら戸惑っていた。
「稔麿様。しかし、それは……飯の種になるのでしょうか?」
稔麿は苦笑した。
「腹は満たされないかもしれん。だが、魂は満たされる。お主のその目は、どこか諦めている。だが、お主の剣は違う。その剣は、何かを強く求め、燃えている」
稔麿は、宗次の胸中を見透かしているようだった。
(今の俺には理想なんてない。だったらせめて、それを持つ誰かのために、この剣を使おう)
その日から、宗次は吉田稔麿と親交を深めていった。伝達や護衛として彼らの活動を手伝ううち、宗次は稔麿の理想に心酔していく。稔麿も宗次の卓越した剣術の腕を認め、「お主の剣は、必ずや日本の未来を切り拓くだろう」と期待を寄せた。
宗次の心に、諦めと自暴自棄の代わりに、わずかだが生き甲斐が灯り始めた。
◇ ◇ ◇
とある月夜の晩の出来事であった。
京の夜は、裏稼業の人間には慣れた時間帯だ。宗次は護衛の帰り道、木屋町通りの橋の上で足を止めた。
ぼんやりと欄干に寄りかかる、小柄な女の姿があった。
見知った顔だ。
宗次が軽く咳払いをして声をかける。
「女の一人歩きは物騒だぞ。こんな時間に何をしているんだ?」
宗次の声に、女はゆっくりと振り返った。
それは、京の町で諜報活動を行う忍びの者――くノ一の
金次第で幕府にも攘夷志士たちにも情報を売る。縁あって何度か顔をあわせることがあったが、油断のならない女だった。
しかし、今日はどこか様子が違った。
月光が、桔梗の横顔を淡く照らしていた。宗次はその美しさに息を呑んだ。昼間の冷徹な忍びの顔とは違う。どこか憂いを帯びた儚い横顔。宗次の心臓がドクンと一度、大きな音を立てた。
(……ああ、そうか。案外と自分は、惚れっぽい男だったのだな)
かつて、琴音にすべてを捧げたように。また、目の前のこの娘の輝きに、心が奪われていくのを感じた。
「お疲れ様です。宗次様」
桔梗は、里への任務の連絡を終えて、一人夜風に当たっていたのだという。
宗次は、桔梗の隣に立ち、二人で静かに流れる高瀬川を見下ろした。
「お前も大変だろう。京は物騒だ」
「物騒、ね」
桔梗は、静かに繰り返した。
「ええ、本当に物騒ですね。毎日のように、誰かが誰かに斬られています」
桔梗は、そこで初めて、胸の内を宗次に語り始めた。自分が集めた情報が、幕府にも攘夷志士たちにも利用され、知り合った人々が、次々と血を流していること。
「私……私、本当は、誰かが斬られるのを見るのが怖くて仕方がないんです。でも里の命令で、私は……」
桔梗は、普段の気丈な振る舞いを捨て、その小さな両手を握りしめて、震えていた。
「この間も、私から情報を受け取った若い志士が、その足で新選組に斬られました。私のせいだ。私は裏切り者なんです」
宗次は、桔梗のくノ一としての葛藤、そして、その根底にある心優しい娘としての悲鳴を聞き、胸が締め付けられた。
宗次は、衝動的に桔梗を強く抱きしめた。
「違う。お前は裏切り者なんかじゃない。……もういい。もう誰の命令も聞かなくていいんだ。俺が、お前を守る」
しかし、桔梗の体温を腕に感じたその瞬間、宗次の脳裏に、あの忌まわしい言葉が蘇った。
『宗次くんの剣道の防具って、いつも臭いし……ちょっと無理かも』
過去の屈辱が、突然、宗次の「守りたい」という純粋な感情に冷や水を浴びせた。桔梗を抱きしめる自分の道着や肌が、彼女にとって不快なものではないか。またこの娘にも、自分が選んだ剣の道を否定されるのではないか。
宗次は、慌てて桔梗を抱きしめる腕を緩め、謝罪した。
「すまん、臭かったろう。剣道の防具のにおいが移っているかもしれない。本当にすまななった……」
しかし桔梗は、宗次の言葉の意味を理解できず、きょとんとした表情を浮かべた後、すぐに宗次の胸に顔をうずめた。
「いいえ、臭くなんかありませんよ。変なことを言わないで。なんでそんなことを言うのですか?」
桔梗は、宗次の胸の鼓動に耳を傾けながら、安心したように深く息をついた。宗次の持つ剣士特有のにおいは、桔梗にとって頼れる強さの象徴だった。
宗次は、安堵と恥ずかしさが混ざり合い、顔を赤らめた。
「はは……そうか、変か」
宗次と桔梗の間に、夜の静けさと、穏やかな空気が流れた。
月夜に照らされた橋の上で、宗次は、この生涯を賭けて、目の前の心優しい娘を守り抜くことを強く誓うのだった。
◇ ◇ ◇
京での活動を始めて三月。宗次は河原町通りの裏手で奇妙な光景を目撃した。
一人の若者が抜身の刀を構え、一匹の黒猫と対峙している。それは新選組一番隊組長、
「斬らねばならぬ。この猫は、死神の使いだ。斬らなければ、俺は、あの病で……」
沖田は、近頃自らを蝕み始めた病の影に怯えていた。彼は黒猫を斬ることで、自らにまとわりつく「死」という概念を断ち切ろうとしていたのだ。
宗次は衝動的に叫んだ。
「待て! 馬鹿な真似をするな!」
沖田は、宗次を一瞥すると、目を血走らせながら叫んだ。
「邪魔をするな! この猫は俺の命を狙っているのだ!」
「猫が人の命を狙うか! 無益な殺生は剣士の恥だ!」
「恥と抜かすか!」
激高した沖田の剣が宗次を襲った。
だが次の瞬間、耳障りな鋼を打ち合わせる音とともに、沖田の剣はたやすく弾かれていた。
いつのまにか剣を抜いていた宗次によって、その切っ先を払われたのである。
「っ!」
沖田の瞳が驚愕に見開かれた。その一瞬の隙に、黒猫は沖田の足元をすり抜け、路地裏へと消えていった。
「今のは……なんだ……防御できる間合いではなかった……理外の速さ……」
沖田は斬り損なったことに怒りを覚えたが、それ以上に宗次の剣の腕に興奮を覚えた。今まで自分と立ち合ってきた者のなかに、これほどの使い手はなかった。敵にも、味方にも。
「貴様、名を名乗れ」
「俺の名は、御剣宗次だ」
「宗次だと? ふん……面白い」
沖田は、冷たい笑みを浮かべてそう言った。――総司と宗次。同じ名前の響きを持つ二人が出会った。沖田には、宗次が「死神の使い」である黒猫が出会わせた運命の相手であるように思えた。
「御剣宗次……貴様は今日から俺の敵だ。いつか必ず、その剣と命、俺が貰い受ける。俺の病が貴様より先に俺を殺すのが早いか、それとも貴様が俺の剣の錆となるのが先か……試してみよう」
沖田の言葉は狂気を含んでいたが、宗次はその内に純粋な剣への渇望が含まれているのを感じとった。――陰と陽。宗次は、沖田が自分の同類であることを感じとった。
「これも剣のさだめか」
宗次は、沖田の鋭い眼光を背に受けながら、その場をあとにするのだった。
◇ ◇ ◇
御剣宗次が京へ出てきて約一年。季節はまた春から夏へと移り変わろうとしていた。
この日、宗次は攘夷志士たちの隠れ家である廃道場で一人、座禅を組んでいた。しかし、心は一向に静まらない。
原因は、新選組一番隊組長、沖田総司だった。
「あの男は……天才だ」
沖田は、あの黒猫の一件以来、本当に宗次を生涯の宿敵として付け狙っていた。宗次は沖田との数度の斬り合いを、かろうじて、本当に紙一重で勝利してきた。
しかし、戦うたびに沖田は急激な成長を見せている。剣の理を、瞬時に体で吸収し、自分のものにしてしまう。宗次が必死に十年以上かけて積み上げてきたものを、沖田はほんの一瞬の経験で凌駕していってしまう。
沖田の剣は、飢えた獣のようでありながら、恐ろしいまでの純粋さを持っている。宗次が剣の理を追究する努力型の達人なら、沖田は理など飛び越えていく天賦の才の持ち主だった。
宗次は自分の剣が、その天才の成長速度に追いつけないことに焦燥していた。このままでは、そう遠くない未来、自分は沖田の刀の錆にされるだろう。
「この剣は……俺のすべて。ここで終わってたまるか」
宗次は、座禅を解き、深く息を吸った。
宗次の正面には、長州藩が南蛮商人から秘密裏に手に入れた、分厚い鉄兜と鉄鎧が置かれていた。それらは単なる飾りではなく、実戦での使用を想定して用意されたものだ。まず普通の刀で太刀打ちできるような代物ではない。
宗次は意識を集中させた。呼吸を限りなく細くし、心と技と体、すべてが溶け合う感覚を掴んでいく。周囲から音という音が消え去った。
刹那、宗次は静かに抜刀した。
――剣光一閃!
ほとんど音を立てることなく、抜刀と同時に一閃が走った。宗次が刀を納刀し終えた時、ふたたび、恐ろしいほどの静けさが道場を包み込んだ。
そして、宗次の正面に置かれていた南蛮渡来の鉄兜は、まるで豆腐を切ったかのように、完璧な垂直の線で真っ二つになっていた。そして、その下に置かれていた分厚い鉄鎧まで、同じように一刀両断にされていた。
それは宗次が辿り着いた剣の極致――剣禅一致の必殺剣だった。これまで宗次が修練に励んできた剛剣の流派と、独自の超高速の剣が、精神の統一によって完成された、まさしく必殺の一撃だった。
「……見事」
道場の戸口から、静かに拍手が起こった。そこに立っていたのは、吉田稔麿だった。
「宗次殿。その剣、常人の域を遥かに超えている。これが、お主の…」
「こんなもの……所詮、屠龍之技(とりゅうのぎ)ですよ」
宗次は、自嘲するように言い放った。
「屠龍之技。中国の故事にある、空想上の動物である龍を屠る技を、どんなに努力して身につけたところで、存在しないものは斬りようがない。無意味である、という意味だったな」
稔麿は、宗次の言葉に静かに頷いた。
「確かに、鉄の鎧兜を両断するほどの凄まじい一刀。これほどの絶技を、人間相手に使う必要など、まずないだろう」
宗次は、剣道の防具のにおいを嫌い、金に走った幼なじみ、琴音の言葉を思い出した。
「これからは銃の時代です。剣の腕も、時代の流れには無意味です。こんな技を身につけても、所詮、龍などいない。誰も評価しない」
宗次の言葉には、諦めと、それでも剣に全てを賭けてしまう悲しい性が滲んでいた。
稔麿は、一歩前に進み出た。
「宗次殿。それは違うと私は思うぞ」
稔麿は、宗次の目を見据え、予言めいた口調で言った。
「いつか、宗次殿の剣が、本当に龍を斬る時が来るだろう。そして、その一刀が新しい時代を切り拓いていくのだ」
その言葉は、宗次の心を震わせるのに十分なものだった。吉田稔麿の言葉は宗次の心に巨大な運命の到来を予感させた。宗次は、静かに愛刀を握りしめ、来たるべき運命の波に備えるのだった。
◇ ◇ ◇
そして、その数日後、最悪の知らせが届いた。
桔梗が、顔面蒼白で口入屋に駆け込んできた。
「宗次様! 大変です! 今夜、池田屋に長州と土佐の重鎮たちが集まる。その情報が、新選組に漏れたかもしれません……!」
宗次の背筋に冷たいものが走った。吉田稔麿も、その会合に参加するはずだった。
「!」
息を呑んだ宗次が、次の瞬間、駆けだしていく。
宗次は愛刀を手に、闇夜の京の町を池田屋へと疾走した。その胸には激しい焦燥感が渦巻いていた。
◇ ◇ ◇
池田屋は、すでに地獄絵図だった。
宗次が裏口から飛び込むと、目の前で、尊攘派の浪士が、隊服を着た男たちに次々と斬り伏せられているところだった。剣と剣がぶつかり合う凄まじい音、血と汗と臓物のにおい。
「稔麿様は!」
宗次は、吉田稔麿を探しながら、怒涛のごとく迫りくる新選組隊士たちの攻撃を捌いていく。二階に駆けあがると、血まみれの吉田稔麿の姿が見えた。稔麿は、すでに深手を負い、自刃しようとしていた。
「稔麿様! おやめください!」
宗次は、新選組隊士たちの群れを駆け抜け、稔麿の元へ向かう。今や宗次の身は恐るべき闘気を放っていた。戦慄した新選組隊士たちは誰一人近づけなかった。
「宗次殿……来てくれたのか……しかし、もう遅い。逃げろ」
宗次が稔麿の側に辿り着いたその時、宗次の背後から、冷徹な殺気が迫った。
「見つけたぞ、御剣宗次!」
声の主は、沖田総司だった。沖田は、激しい戦闘の中で病の発作に苦しみながらも、宗次との決着を、ただひたすらに求めていた。
「貴様との勝負は、いつか京の闇のなかで静かに……と思っていたが、どうやら運命はそれを許さぬようだ。今このような死地にあって剣を交えるのも、一興だろう」
宗次と沖田。二人の間に殺気が奔る。
「邪魔だ、沖田! 俺は稔麿様を逃がす!」
「戯言を! 一人として逃がすものか!」
沖田の剣が唸りをあげて宗次へと襲いかかる。その剣は、宗次がこれまで経験した沖田の剣とは、もはや別次元だった。沖田の剣は飢えた獣のようでありながら、その軌道は極めて論理的で完璧な美しさを備えていた。
「くそっ……また強くなっている……!」
宗次が体勢を整える間もなく、沖田の剣が、宗次の間合いを完全に潰すように迫った。
沖田は、自らの得意技である「三段突き」を、この場でさらに進化させたのだ。
「見よ、御剣! これが、この沖田総司の新たな必殺剣――
沖田の刀が、宗次の胸元目掛けて神速の突きを放った。あまりの速さに、刀身の周囲に青白い雷のような光を纏っている。
「――っ!」
一段目の突きを宗次が回避すると、沖田は刀を瞬時に引き戻し、二の突き、三の突き、四の突きと、まるで四本の雷が同時に伸びるかのような神速の連撃を繰り出した!
四本の突きは、防御を不可能にする完璧な軌道で急所を狙い、雷のような光と速度で、宗次を襲った。
そして最終の五段目。沖田は、すべての力を込めて、宗次の心臓を狙った。沖田総司の剣士としての全てを懸けた、究極の必殺剣だった。
宗次は絶体絶命の窮地に立たされた。死を覚悟する宗次。だが、その瞬間、彼の意識から、すべての雑念が消え失せた。
一瞬で心技体のすべてが合一する。
宗次の目に、雷光五段の五本の剣筋が、まるで停止したかのように、一本一本、はっきりと見えた。沖田の呼吸、力の入る筋肉、攻撃の軌道、そのすべてが完璧に把握できた。
突然の覚醒。宗次もまた、沖田との死闘のなかで成長していたのである。沖田の神技を前にして、宗次のなかの"剣聖"としての資質が開眼した。
一寸の見切り、二寸の開き。太刀風三寸にして身をかわす。
宗次は、体幹を僅かに捻るだけで、雷光五段の五本の突きすべてを、紙一重で回避した。今の宗次にとって、それは呼吸をするのと同じくらい自然な動作だった。沖田の刀は、宗次の皮一枚すら切り裂けなかった。
「なん……だと……?」
沖田は、自分の剣が完全に見切られた事実に青ざめた。
だが、これで終わりではない。宗次は、回避と同時に、愛刀を回転させ、柄頭で沖田の顔面を打ち上げ、そのまま刀を返し、沖田の右腕を峰打ちで打ち下ろした。
「ぐっ……ああっ……!」
沖田の体から力が抜け、その場で膝をついた。
「馬鹿……な……俺の……雷光五段が……完全に……」
苦悶する沖田。
宗次は、そんな沖田に止めを刺すことなく、吉田稔麿の元へ駆け寄っていく。
「稔麿様、今です! 逃げましょう!」
しかし、稔麿は静かに首を振った。
「宗次……お主、勝ったな。だが……私の役目は、ここまでだ」
稔麿は、自刃を果たすために、刀を自らの腹に突き立てた。彼は、最期の力を振り絞り、宗次の耳元で囁いた。
「生きろ……お主の剣は、この国の未来を守るために……」
そして吉田稔麿は、宗次の腕の中で、静かに息を引き取った。
宗次は、吉田稔麿の亡骸を抱きしめ、天を仰いだ。宗次の瞳から流れた涙は、雨のように、血の海と化した池田屋に降り注いだ――。
◇ ◇ ◇
――終章「屠龍之技-Dragon Slayer-」
京の闇に、静かに雪が降り積もっていた。
あれから時が流れ、時代は大きく動いていた。池田屋事件の死闘を生き延びた宗次は、吉田稔麿の遺言を胸に、京の闇に潜み続けていた。表向きは行方不明となった宗次だが、その剣は「影の剣豪」として、数々の志士たちを陰で守り、時代の大きな流れのなかで生まれ出た"歪み"を斬るために振るわれ続けていた。
そして、その夜。宗次は一つの巨大な"歪み"を正すため、京都河原町の近江屋を訪れていた。
雪を踏む音すら立てずに門を潜ると、すぐさま屈強な人影が宗次に襲いかかった。近江屋を警護する門番の相撲取りだ。
「曲者め!」
門番の拳が宗次を捉えようとするが、宗次はすでに抜刀していた。夜の闇のなか剣光が閃く。門番は、己の巨体が突然宙を舞った理由を理解できぬまま、意識を失い、地に倒れた。
宗次は、門番を無力化すると、一気に二階の部屋へと駆け上がった。目当ての人物の部屋の戸を蹴破ると、その人物はすでに待ち構えていた。
「誰かと思えば、噂の剣豪どのか。随分と派手に来よったのう」
そこにいたのは、日本の夜明けを夢見る英雄、坂本龍馬だった。しかし龍馬の持つ得物は刀ではない。薄暗い部屋の奥で、その銃口が宗次を正確に捉えていた。
「よくぞ辿り着いた。まさか、ワシを斬りに来るとはのう。お前さんのような純粋な剣を持つ男が、時代の流れに逆らうとは」
龍馬の言葉には英雄としての気高き雰囲気など微塵もない。宗次が長年の諜報活動で掴んだ事実は、あまりにも意外なものだった。
「坂本龍馬。あなたは英雄などではない」
宗次は、静かに刀の切っ先を龍馬に向けた。
「あなたは、この国の未来のため、と嘯きながら、その実、西洋列強に日本を売り渡そうとしている悪党だ。最新の船舶や銃火器と引きかえに、貧しい人々を奴隷として売り払っている。あなたにとっての『日本の夜明け』とは、一部の豪商や列強のための『黄金時代』に過ぎない」
龍馬は、宗次の指摘に不敵な笑みを浮かべた。
「よう調べたのう。だが、それが『時勢』――時代の流れというものじゃ。ワシは、この国を一度壊さねばならぬ。そのためには多少の犠牲は必要じゃ」
「…………」
もはや是非もなかった。
宗次は無言のまま、愛刀を構え、深く息を吸い込んだ。
「御剣宗次、参る。いざ尋常に勝負!」
龍馬は、その宗次の真摯な呼びかけを鼻で笑った。
「ほたえな(騒ぐな)!」
龍馬は、宗次の言葉を遮るように、容赦なくピストルの引き金を引いた。閃光と爆音が狭い室内に響き渡る。
だが宗次の身は、すでに剣禅一致――達人の境地にあった。時間すら停止したかのように、宗次の目には、飛んでくる弾丸の軌道が、はっきりと見えた。
キィン!
宗次の愛刀が、弾丸の側面を正確に捉え、弾丸は軌道を逸らし、壁にめり込んだ。
龍馬は、その光景を見て、初めて心の底からの笑みを浮かべた。その目は、かつての沖田総司と同じ、純粋な強敵への渇望を宿していた。
「まさかピストルの弾丸を斬るとはのう。面白い! お前さんの剣、ワシの血が騒ぐわい!」
龍馬は、床にピストルを放り捨てた。そして、腰に差していた二本の刀を引き抜いた。
次の瞬間、龍馬は飛ぶが如く、宗次へと斬りかかった。二刀乱舞。一刀は宗次の喉元を、もう一刀は宗次の胴を狙う。宗次は、そのあまりの速度と変化に、息を呑んだ。
そう――坂本龍馬は古の剣豪、宮本武蔵の剣技「二天一流」の使い手だったのだ。
二天一流は、攻防一体の妙技だった。一刀が宗次に斬りかかり、もう一刀が鉄壁の防御を担う。宗次の得意とする超高速の斬り込みも、二本の刀によって寸分も狂うことなく阻まれる。
一太刀ごとに二人の刀が火花を散らせた。
その火花は、やがて異様な熱を帯び、焔となって刀に宿った。木造の壁が次々と燃え上がり、室内はあっという間に火の海へと変わっていく。
渦巻く焔の中で、二人の戦いは続いた。
「間違いない。この人は、龍だ……!」
宗次は、龍馬の二天一流から放たれる剣に、時代を喰らい尽くすほどの巨大な野望と、人智を超えた『龍』の姿を見た。吉田稔麿の予言が、今、現実のものとなったのだ。龍馬の龍は、日本の大地を踏み台にして、やがて世界を喰らい尽くす邪龍となるだろう。それは宗次が守ろうとした市井の民を、すべて奴隷へと変えてしまう過酷な未来だった。
宗次の剣が――覚醒する。
「邪念断つべし! 我が屠龍之技! 受けてみよ!!」
宗次は、自らの持つ「屠龍之技」を、すべての邪念を断つ聖剣へと昇華させた。
宗次の全身全霊を込めた一撃が、焔を切り裂き、龍馬の二天一流の鉄壁の防御へと叩き込まれた。
龍馬が交差するようにして防御した二本の刀は、宗次の龍殺しの一撃によって、防御ごと打ち砕かれた。そして、その刃は龍馬の額を正確に斬り裂いた。
龍馬は、宗次の剣を額に受けながら、ニヤリと笑った。
「……見事じゃ。お前さんの剣は……本物じゃったのう」
坂本龍馬は、斃れ伏しながら、炎の向こうに手を伸ばした。
「日本の夜明けじゃあ……」
その瞳には、彼が信じた理想が、確かに光を放っていたのだろう。坂本龍馬は、その手を天に伸ばしたまま、絶命した。
「…………」
宗次は、静かに刀を納めた。
この暗殺は、時代をさらに混沌へと導くだろう。新選組の仕業とも、薩摩藩の陰謀とも言われるだろう。しかし、誰も知らなかった。龍を屠ったのは、たった一人の名もなき剣士だったことを。
燃え盛る近江屋を、降りしきる雪が覆い隠していた。
宗次は、炎に飲み込まれる近江屋を、雪の中、静かにあとにする。彼の剣は、血と炎のにおいを纏っていたが、心は澄んでいた。
道端で、宗次の帰りを待つ、小さな人影があった。桔梗だ。彼女は、雪に濡れながらも、宗次の姿を見つけると、安堵の笑みを浮かべた。
宗次は、桔梗の元へ、歩み寄る。
「冴えない俺が、ようやく見つけた居場所だ。この剣は、俺が守りたいもののために使う」
宗次は、桔梗の手を強く握りしめた。降りしきる雪の中で、宗次と桔梗は、時代の激流を生き抜く、ただ二人きりの未来へと歩き出すのだった。
了
どうせモテないし尊王攘夷でもしようぜ 伊達酔狂 @datesuikyou
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