年末恒例のニ短調

小狸

掌編

 年末に第九――L.v.ベートーヴェンの交響曲第9番 ニ短調 作品125――の演奏を行うのは、はや日本の風物詩の一つと化している。


 さるプロオーケストラの演奏会に向かっている最中である。


 電車は、この時間にしては珍しく空いていた――席に座って、電車が動き出す。


 今日のプログラムを頭の中ではんすうする。


 曲目は勿論もちろん、第九である。


 第九といえば第4楽章の合唱付きの箇所、「歓喜の歌」などと呼ばれる部分が有名だが、僕が一番好きなのは、第3楽章であったりする。


 当時にしては珍しく、第2楽章がスケルツォ、そして僕が好きな第3楽章は、緩徐楽章という扱い、つまり、ゆっくりしたテンポ設定の楽章である。4分の4拍子の変ロ長調、Adagio molto e cantabile、直訳すると「非常にゆっくりと、そして歌うように」から始まり、拍子や調性で変化を付けつつ作曲されている。また、後にドヴォルザークが、自身の交響曲第6番第2楽章を作曲する際に下敷きにしたとされている。聴き比べてみると、確かに類似点がうかがえる。


 何が言いたいのかというと、良い曲なのである。


 テレビの番組で第九に焦点を当てられた時には、どうしても、1~3楽章はカットされがちだが、なかなかどうして、1~3楽章があってこそ、4楽章の最も有名な部分が映えるのではないか、と思っている。


 年末に演奏会にわざわざ足を運ぶような人も、きっとそうだろう。


 4楽章だけを聴きたいのだったら、自宅でサブスクに登録し、イヤホンを付け、好きに聴けば良いのである。


 そうではない――


 少なくともベートーヴェンは、これを4楽章構成の交響曲として作曲している。


 ということはつまり、各楽章を通して聴いて、何か表現したいことがあった――はずなのだ。


 それが何なのかは、申し訳ないが僕には言語化はできない。


 僕は、専門的に音楽を学んでいたわけではない――ただの、クラシック音楽が好きな奴なのだ。


 好きで聴いているし、好きで演奏会にお金を払って、足を運んでいる。


 人並みの曲の知識はあるけれど、それはあくまで人並みの領域を出ない。


 それに耳も大して良いわけでも、肥えているわけでもない。


 時折、SNS上でオーケストラの演奏の良し悪しが議論されていて見て見ぬふりをすることがあるけれど、あいにく僕には、その機微が分からない。そもそも僕がクラシック音楽にのめり込み始めたのは、高校時代からの話である。今、大学生となって、数年が経過するけれど、曲を数多く知った程度でそれ以上の知見は得ていない。


 その程度の僕が、音楽表現に込められた何かを言葉にしてしまっては、いけないような気がするのである。


 好きな曲は好きだし、好きな奏者は好きだし、好きな楽団は好きだし、好きな解釈をする指揮者は好きだ。


 僕は好きで生きているのだ、それくらいであっても良いだろう。


 今日聴きに行くプロのオーケストラは、高校時代から何度も聴きに行っている地元の楽団であり(地元と言っても、自宅からホールまでは1時間以上かかるのだが)、奏者の方の名前もぼちぼち憶えてきた。今回の指揮者は常任指揮の方であり、恐らく安心して聴くことができそうだ。


 電車に揺られながら、プレイリストをランダム再生した。


 流れたのは、ドヴォルザークの交響曲第7番より第1楽章。ホルン3,4番のピアニッシモの音と、ティンパニのトリル、そしてコントラバスの遠雷のような刻みから静かに始まる。


 奇しくも、今回聴く第九と同じ、ニ短調の曲である。


 偶然の一致を楽しみながら、僕は音楽に身をゆだねた。




(「年末恒例のニ短調」――了)

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