熊が来る!
埴輪庭(はにわば)
共生への道
◆
その年の秋、A県における熊の被害はすでに天災の域に達していた。
九月の第一週だけで目撃件数は三千を超え、人的被害は死者十二名、重軽傷者八十七名を数える。農作物への被害額は推計で四十億円。山間部の集落では避難勧告が発令され、住民たちは麓の公民館や体育館へと身を寄せていた。だが熊たちは人間の想定など歯牙にもかけず、いまや市街地への進出を日常のものとしている。県庁所在地の駅前ロータリーで熊が目撃されたのはもはや一週間前の話ではない。
県知事の熊殺三太夫はその名に恥じぬ働きを見せていた。
先祖代々この地に根を張る旧家の出で、曾祖父の代から「熊殺」の姓を名乗っている。その由来については諸説あるが本人は「先祖が熊を素手で殺したから」と公言して憚らない。事実かどうかは知れぬが少なくとも三太夫自身は県庁の知事室に熊の剥製を三体も飾っていた。すべて自らの手で仕留めたものである。
「諸君、これは戦争だ」
九月八日の緊急対策会議において、三太夫は居並ぶ県幹部を前にそう宣言した。背後の剥製たちがまるで頷くかのように光を受けて影を揺らす。
「人間と熊、どちらが生き残るかの戦いである。我々には撤退という選択肢はない。あるのは勝利か、さもなくば県民全員の血塗られた敗北のみだ」
大仰な物言いではあったが状況は実際にそれほど切迫していた。
翌日、県は猟友会に全面協力を要請。同時に政府へ自衛隊の災害派遣を申請し、三日後には陸上自衛隊の一個中隊がA県入りを果たした。さらに県警機動隊も動員され、山間部を中心に二十四時間体制の警戒網が敷かれる。ヘリコプターが連日空を旋回し、ドローンによる監視システムも急遽導入された。
それでも熊は来た。
まるで人間の対策を嘲笑うかのように、あるいは単に空腹に突き動かされて、山から、森から、ときには住宅地の裏手から、彼らは際限なく姿を現し続けた。駆除数は日を追うごとに増加し、九月だけで二百頭を超える熊が射殺された。それでもなお出没は収まらず、十月に入ると県内各地で同時多発的に目撃情報が相次ぐ事態となる。
「いったい何頭いるんだ、この県の熊は」
三太夫は執務机を拳で叩いた。応接用のソファに腰を沈めていた県の危機管理監が恐る恐る答える。
「推計では県内の熊の生息数は二千から三千と見られております。ただ、昨年から今年にかけての繁殖率が例年の倍近くありまして……」
「つまり増えているのか」
「はい。加えて、隣県からの流入も確認されております」
三太夫の眉間に深い皺が刻まれた。隣県はA県ほど積極的な駆除を行っていない。結果として追われた熊がこちらへ逃げ込んでくる構図が出来上がっていた。まさに熊のA県一極集中である。
「知事、それからもう一件」
危機管理監の声が一段低くなる。三太夫は眉を上げた。
「例の団体から、また抗議が来ております」
例の団体。その四文字で三太夫の表情が曇る。
「日本熊だいちゅき協会」──それが彼らの正式名称であった。
設立は二十年前。当初は動物愛護を掲げる小さな市民団体に過ぎなかったがSNSの普及とともに急速に勢力を拡大し、いまや会員数五十万を誇る全国有数の愛護団体へと成長している。特に熊の保護を活動の中心に据え、駆除反対のキャンペーンを精力的に展開。その影響力は無視できぬものとなっていた。
会員には著名な文化人や芸能人も名を連ね、さらには国会議員すら数人が籍を置いているという。政界への発言力もあなどれない。
「内容は」
三太夫が問うと、危機管理監はタブレット端末を差し出した。画面には協会からの公開書簡が表示されている。
『A県による野蛮かつ非人道的な熊の大量虐殺に、我々「日本熊だいちゅき協会」は断固抗議する。熊は森の守り神であり、日本の自然が育んだ尊い命である。その命を一方的に奪う権利はいかなる行政機関にも存在しない。我々は熊との共生を訴え、A県に対し即時の駆除停止を強く求める。なお、この要求が受け入れられない場合、我々は県への法的措置および全国規模の抗議行動を辞さない覚悟である』
三太夫は黙って最後まで読んだ。
「……だいちゅき、か」
その呟きには言い知れぬ感情が込められていた。
協会の名称に用いられた幼児語はおそらく親しみやすさを演出するためのものだろう。しかし三太夫の目にはそれが現実認識の甘さを象徴しているように映った。熊を「だいちゅき」と言える者は熊に襲われたことがない者である。腕を食いちぎられた者、顔面を引き裂かれた者、愛する家族を失った者が果たして同じ言葉を口にできるだろうか。
「知事、いかがいたしましょう」
危機管理監の問いかけに、三太夫は端末を返しながら答えた。
「放っておけ。我々には県民の命を守る義務がある。愛護団体の機嫌を取る義務はない」
その判断は正しかった。少なくともその時点では。
しかし「日本熊だいちゅき協会」もまた、ただの民間団体ではなかった。
十月中旬、協会は全国の会員に向けて「A県産品不買運動」を呼びかけた。県の特産である米、果物、日本酒、そして観光地への訪問自粛。五十万人の会員がSNSで一斉に拡散し、瞬く間にトレンド入りを果たす。テレビのワイドショーが連日この話題を取り上げ、コメンテーターたちは「命の重さ」について語り、都会の視聴者たちは深刻な表情で頷いた。
現場を知らぬ者ほど理想を語りたがる。これは洋の東西を問わぬ真理である。
不買運動の効果は即座に現れた。県内の農産物直売所では売上が三割減。観光客数は前年同期比で四十パーセントもの落ち込みを記録し、旅館やホテルからは悲鳴のような陳情が県庁に殺到した。
「知事、このままでは経済が持ちません」
商工観光部長が蒼白な顔で訴える。三太夫は腕を組み、天井を見上げた。
「熊に襲われて死ぬか、経済的に殺されるか……どちらを選べと言うのだ」
誰も答えない。答えられるはずがなかった。
◆
さらに事態は悪化する。
十月二十三日、国会において「野生動物保護法改正案」が与党議員によって提出された。その議員は「日本熊だいちゅき協会」の会員であり、法案の骨子は熊を含む大型野生動物の駆除に厳格な制限を設けるというものだった。成立すれば、A県の対策は大幅な見直しを迫られることになる。
「連中、本気だぞ」
副知事の鶴見が苦い顔で報告書を置いた。彼は三太夫の右腕として県政を支えてきた人物であり、その分析眼には定評がある。
「法案が通る可能性は」
「五分五分だな。与党内にも賛同者が増えている。都市部選出の議員は特にな。選挙区に熊が出るわけじゃないから、動物愛護に理解があるというポーズを取りやすい」
三太夫は歯噛みした。
「連中の選挙区に熊を送ってやりたいものだ」
それは皮肉のつもりだった。少なくともそのときは。
十月末、A県内での熊による死者は累計三十人を超えた。これは過去十年間の全国の熊被害死者数を上回る数字である。もはや「被害」という言葉では生温い。これは災厄であり、ある種の侵略であった。
そんな中、「日本熊だいちゅき協会」は新たな声明を発表した。
『熊による被害は人間が熊の生息地を奪った結果である。悪いのは熊ではなく人間だ。熊を殺すのではなく、人間が謙虚に自然と向き合い、共生の道を探るべきである。我々は改めてA県に駆除の即時停止を求める』
この声明は全国紙の一面を飾った。都市部のリベラル層を中心に支持が広がり、協会への寄付金は過去最高を記録する。
一方、A県の県民感情は沸点に達しつつあった。
「ふざけるな!」
県庁前で開かれた住民集会で、農業を営む男性が拳を振り上げた。
「俺の親父は先月、畑で熊に襲われて死んだんだ! それを『悪いのは人間』だと? ふざけるな! だったらあいつらが来て熊と話し合ってくれよ!」
怒号と拍手が入り混じる。テレビカメラが回り、その映像は全国に配信された。
世論は真っ二つに割れていた。
都市部では「動物との共生」を訴える声が優勢。一方、地方では「現場を知らない連中が綺麗事を言うな」という怒りが渦巻く。この分断は深まる一方で、建設的な議論など望むべくもなかった。
十一月に入り、三太夫は決断を迫られていた。
県議会では野党から知事辞任を求める声が上がり始めている。与党内にも動揺が広がり、次の選挙を睨んで距離を置こうとする者も出始めた。このままでは政治的に行き詰まる。しかし駆除を止めれば被害は拡大する。
八方塞がり。
その夜、三太夫は知事公舎で一人、ウイスキーのグラスを傾けていた。テレビでは「日本熊だいちゅき協会」の会長がインタビューに答えている。
会長の名は熊谷愛子。六十代の女性で、かつては環境省の官僚だった。穏やかな笑顔と上品な物腰。しかしその発言は徹底して理想主義的であり、現場の苦悩など眼中にないかのようだった。
「熊は悪くありません。彼らはただ、生きようとしているだけです。人間が山を開発し、彼らの居場所を奪った。だから熊は人里に降りてくるしかない。これは人間の責任なのです」
キャスターが頷く。
「では熊谷さん、A県の住民はどうすればいいとお考えですか」
「共生です。熊を殺すのではなく、熊と共に生きる道を探る。それが真の解決策だと私は信じています」
三太夫はテレビを消した。
共生。なんと美しい言葉だろう。しかしそれは熊に襲われる心配のない場所で暮らす者だけが口にできる贅沢な理念ではないか。
グラスの中で琥珀色の液体が揺れる。三太夫はそれを一気に飲み干した。
そのとき、不意に閃くものがあった。
共生。
そう、共生だ。
彼らが共生を望むなら、させてやればいい。本当の意味で。
三太夫の唇に、初めて笑みが浮かんだ。それは知事としての笑みではなく、かつて山で熊を追った猟師の、獲物を前にしたときの笑みであった。
◆
翌朝、三太夫は副知事の鶴見を呼び出した。
「一つ、考えがある」
三太夫の説明を聞いた鶴見は最初は何かの冗談だと思った。しかし知事の目は真剣そのものであり、冗談を言うときの軽さは微塵もない。
「……本気ですか」
「大真面目だ」
「しかしそんな条例が通るとは……」
「通す。なんとしても通す」
三太夫は立ち上がり、窓の外を見た。県庁の向こうには山並みが連なっている。あの山のどこかに、今もなお無数の熊がうごめいている。
「愛護団体が駆除に反対するのは自分たちが安全な場所にいるからだ。熊と顔を突き合わせたことがないから、綺麗事が言える。ならば──」
三太夫は振り返り、鶴見の目を見据えた。
「──熊と顔を突き合わせる機会を、こちらから提供してやろうじゃないか」
こうして「A県野生動物共生推進条例案」の策定が始まった。
条例の骨子は単純明快であった。
第一条。県は駆除した熊を原則として殺処分せず、捕獲・保護するものとする。
第二条。保護された熊は動物愛護団体の申請に基づき、当該団体または会員に引き渡すことができる。
第三条。熊の引き渡しを受けた団体および個人は当該熊を適切に飼育・管理する責任を負う。
第四条。引き渡しを受けた熊が逃走し、または人身被害を生じさせた場合、引き受け者はその全責任を負う。
要するに、「駆除するな」と言うなら、言った者が熊の面倒を見ろ、という条例である。
県議会での審議は紛糾した。
「こんな条例が通るわけがない!」
野党議員が声を荒げる。しかし与党議員の反応は複雑だった。確かに常識外れの内容ではある。しかし被害に苦しむ県民の感情を考えれば、一概に否定もできない。何より、都会から文句ばかり言ってくる連中への溜飲を下げる効果は絶大だった。
「愛護団体は共生を訴えている。ならば我々は共生の機会を提供するだけだ」
三太夫は淡々と答弁した。
「熊を殺すなと言われた。だから殺さない。代わりに愛護団体に渡す。これのどこに問題があるのか、私には理解できない」
論理としては確かに筋が通っていた。少なくとも形式的には。
採決の結果、条例案は賛成多数で可決された。
この決定は直ちに全国ニュースとなった。
「A県が前代未聞の条例を可決! 熊を愛護団体に引き渡しへ!」
報道は加熱し、テレビのワイドショーは連日この話題を取り上げた。コメンテーターたちの意見は真っ二つに割れ、専門家と称する者たちが喧々囂々と議論を交わす。
当然のことながら、「日本熊だいちゅき協会」は激怒した。
「これは嫌がらせだ! 我々に対する露骨な攻撃だ!」
会長の熊谷愛子は記者会見で声を震わせた。
「一般市民に野生の熊を押し付けるなど、正気の沙汰ではありません! これは人権侵害です!」
しかし三太夫は涼しい顔で反論した。
「押し付けてなどいない。申請があった場合のみ引き渡すと定めているだけだ。引き受けたくなければ申請しなければいい。強制ではない」
そして続けた。
「協会の皆さんは熊との共生を訴えてこられた。我々はその理念を尊重し、共生を実践する機会を提供している。これのどこが嫌がらせなのか。むしろ感謝されてもいいくらいだと思うが」
この発言は瞬く間に拡散した。SNSでは「正論」「よく言った」という称賛と、「横暴」「非人道的」という批判が入り乱れる。
ここで「日本熊だいちゅき協会」は難しい判断を迫られることになった。
条例に従って熊を引き受ければ、現実の困難に直面する。しかし引き受けなければ、「結局は口だけ」という批判を免れない。五十万人の会員を率いる団体として、そのような醜態は許されなかった。
緊急理事会が招集された。
「引き受けるべきです」
若手の理事が熱弁を振るった。
「我々が逃げれば、A県知事の思う壺です。ここは堂々と熊を引き受け、共生が可能であることを証明しましょう!」
「しかし具体的にどうやって飼育するのだ」
年配の理事が渋い顔で反論する。
「熊は一頭につき一日十キロ以上の餌を必要とする。飼育施設も必要だ。資金はどうする。場所はどうする」
「会費を増額すれば……」
「馬鹿を言え。会員が逃げるぞ」
議論は深夜まで続いた。結局、ある妥協案が採択される。
協会本部として熊を引き受ける意思を表明する。ただし飼育は会員の有志に委ねる。具体的には広い土地を持つ会員の自宅や敷地で熊を保護・飼育してもらうという形だ。
「会員の皆さんには熊との共生を自ら実践する貴重な機会です」
熊谷会長は全国の会員に向けてそう呼びかけた。
「我々の理念が試されるときが来ました。熊を愛する皆さん、どうか勇気を持って手を挙げてください」
呼びかけに応じて、全国から百七十三名の会員が名乗りを上げた。
五十万人の会員のうち、わずか〇・〇三パーセント。この数字が何を意味するかはあえて言及するまでもないだろう。
こうして、A県から全国各地へ熊の「引き渡し」が始まった。
最初の引き渡しは十二月一日。A県庁舎前には大勢の報道陣が詰めかけ、カメラのフラッシュが閃く中、檻に入った熊が愛護団体の会員に引き渡された。
引き受けたのは埼玉県に住む四十代の男性。郊外に広い土地を持ち、かねてから動物保護活動に熱心だった。
「必ず大切に育てます! 熊との共生は可能だということを、私が証明してみせます!」
カメラに向かって力強く宣言する男性。その背後で、檻の中の熊が低い唸り声を上げていた。体重推定百八十キロのオスである。
三太夫は県庁の窓からその光景を見下ろしていた。
「さて、どうなることやら」
傍らの鶴見が呟いた。三太夫は答えず、ただ静かに微笑んだ。
結果が出るのに、さほど時間はかからなかった。
十二月八日。埼玉県某市の閑静な住宅街に、悲鳴が響き渡った。
先日熊を引き受けた男性の敷地から、熊が逃走したのである。
原因は飼育設備の不備だった。男性は自宅の庭に急造の柵を設けて熊を飼育していたが熊の力を甘く見ていた。わずか一週間で柵は破壊され、熊は自由の身となった。
近隣は大パニックに陥った。学校は休校となり、住民は外出を控え、警察と猟友会が総動員で捜索にあたる。熊は翌日、三キロ離れた公園で発見され、射殺された。
幸い人的被害はなかったが男性は動物愛護法違反で書類送検される事態となった。
「こんなはずでは……」
報道陣に囲まれた男性はうなだれてそう呟くばかりだった。
しかしこれはまだ序章に過ぎなかった。
十二月中旬までに、全国で十七件の「熊逃走事件」が発生した。
神奈川県では住宅街に逃げた熊が車に衝突し、運転手が軽傷を負った。千葉県では逃走した熊が農作物を荒らし、被害額は数百万円に上った。大阪府では公園で熊が目撃され、周辺一帯が数日間立ち入り禁止となった。
最悪の事態が起きたのは十二月二十二日のG県であった。
愛護団体会員の女性宅から逃走した熊が近所を散歩していた高齢者を襲ったのである。被害者は重傷を負い、一時は意識不明の重体となった。
世論は一変した。
「愛護団体のせいで被害者が出た!」
「共生なんて無理だったんだ!」
「責任を取れ!」
SNSは炎上し、テレビのコメンテーターたちは手のひらを返したように協会を批判した。かつて「動物との共生」を美しく語っていた者たちがいまや「現実を見ろ」と声を荒げている。
「日本熊だいちゅき協会」は集中砲火を浴びた。
会員たちは次々と退会届を提出し、十二月末までに会員数は三十万人を割り込んだ。スポンサー企業は軒並み協賛を打ち切り、協力関係にあった国会議員たちも距離を置き始めた。
熊谷愛子会長は記者会見を開いて釈明を試みたがその言葉は空虚に響くばかりだった。
「我々は最善を尽くしました。しかし行政からの十分な支援がなく……」
「支援? あなた方は支援どころか邪魔をしてきたんじゃないですか!」
記者の容赦ない追及に、熊谷は言葉を詰まらせた。
A県の三太夫知事はこの状況を冷静に見守っていた。
「予想通りだな」
知事室で報告を受けながら、彼は静かに呟いた。
「熊との共生など、夢物語に過ぎない。分かりきっていたことだ。しかし言葉で言っても連中には通じなかった。体験させるしかなかった」
鶴見が複雑な表情で答えた。
「しかし知事、被害者が出てしまいました。我々の条例が間接的に……」
「責任は引き受けた者にある。条例にもそう明記してある」
三太夫の声は冷徹だった。しかしその目の奥には何か別の感情が揺らいでいるようにも見えた。
◆
年が明け、事態はさらに加速した。
一月五日、G県で重傷を負った高齢者が亡くなった。死因は熊に襲われた際の傷が原因となった感染症。直接の加害者は熊だがその熊を管理していた愛護団体会員の責任が厳しく問われることになった。
遺族は会員個人と「日本熊だいちゅき協会」の両方を相手取り、損害賠償請求訴訟を起こした。
「協会が熊の引き受けを呼びかけ、十分な準備もないまま会員に熊を押し付けた。組織としての責任は明らかだ」
遺族側弁護士の主張は明快だった。メディアはこれを大々的に報じ、協会への批判は頂点に達した。
追い打ちをかけるように、各地で熊を引き受けた会員たちからも協会本部への訴訟が相次いだ。
「協会に言われて熊を引き受けたのに、何の支援もなかった」
「逃走事件の責任を個人に押し付けるのはおかしい」
「餌代だけで破産しそうだ。協会は賠償しろ」
会員同士の訴訟合戦。これほど醜悪な光景があるだろうか。かつて「熊を愛する」という一点で結ばれていた者たちがいまや法廷で争い合っている。
二月、熊谷愛子会長が辞任を表明した。
「私の力不足でした」
涙ながらの会見。しかし世間の反応は冷淡だった。「遅すぎる」「責任逃れだ」という声がほとんどで、同情の余地はない。
後任の会長選出も難航した。誰も火中の栗を拾いたがらないのは当然である。結局、理事会は暫定的に副会長の代行体制で運営を続けることを決めたがそれも長くは持たなかった。
三月、協会の財政状況が明らかになった。
会員数の激減と訴訟費用の増大により、協会は事実上の債務超過状態に陥っていた。残った会員からは追加の会費徴収を求める声もあったがそれは残りの会員を逃がす結果にしかならない。
「もはや組織の存続は困難」
三月末の理事会で、そう結論づけられた。
四月一日、「日本熊だいちゅき協会」は正式に解散を発表した。
設立から二十年。最盛期には五十万人の会員を擁し、政界にまで影響力を及ぼした巨大愛護団体の、あまりにも呆気ない最期であった。
解散に伴い、各地で熊を飼育していた元会員たちは途方に暮れることになった。組織の支援がなくなれば、個人で熊を養うことなど不可能である。
A県は速やかに対応した。
「引き渡した熊の回収を行う。費用は元会員の負担とする」
三太夫知事は淡々と発表した。元会員たちからは悲鳴が上がったが条例にはそう明記されている。異論を唱える余地はなかった。
回収された熊たちは県の施設で一時的に保護された後、専門家の判断に基づいて処遇が決められた。山に返せる個体は返し、人里に慣れすぎた個体は殺処分される。残酷ではあるがこれ以外に現実的な選択肢はなかった。
五月、国会で審議されていた「野生動物保護法改正案」は廃案となった。
提出した議員は「日本熊だいちゅき協会」の解散を受けて後ろ盾を失い、法案への支持も急速に萎んだ。「現実離れした理想主義」という批判が党内外から噴出し、採決に至ることすらなく消滅したのである。
A県における熊対策は本来のペースに戻った。
猟友会と自衛隊、県警が連携し、出没した熊を適宜駆除する。その単純かつ現実的な方針に、もはや表立って反対する者はいなかった。駆除数は春から夏にかけて三百頭を超えたがそれでも被害は収束に向かいつつある。少なくとも、去年の秋のような異常事態は回避されていた。
六月のある晴れた日、三太夫は知事公舎の庭に立っていた。
初夏の風が木々の葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。穏やかな午後だった。
「知事」
鶴見が歩み寄ってきた。
「例の訴訟の件ですが遺族側と和解が成立しそうです。元会員個人と協会清算人の連帯で賠償金を支払うことで合意に達したとか」
三太夫は頷いた。
「そうか」
「それから、全国の自治体から問い合わせが来ています。同様の条例を制定したいと」
「好きにすればいい。参考になるなら情報は提供する」
三太夫の声は素っ気なかった。
鶴見は少し躊躇ってから、質問を口にした。
「知事は……後悔しておられないのですか」
三太夫は振り向かなかった。庭の向こうに見える山並みを眺めながら、しばらく黙っていた。
「後悔か」
やがて、静かに言葉が紡がれた。
「Gで亡くなった老人のことは確かに重い。私の条例がなければ、あの人は死ななかったかもしれない」
鶴見は黙って聞いていた。
「しかしあの条例がなければ、愛護団体の圧力で駆除は停滞し、この県ではもっと多くの人が死んでいただろう。秋だけで三十人以上が犠牲になった。そのペースが続けば、今頃は百人を超えていたかもしれない」
三太夫は振り返り、鶴見の目を見た。
「一人を犠牲にして百人を救う。その選択が正しかったかどうか、私には分からない。ただ、私は選んだ。選ばなければならなかった。知事とはそういう仕事だ」
鶴見は何も言えなかった。言える言葉がなかった。
三太夫は再び山を見た。緑に覆われた稜線の向こうに、雲が白く光っている。
「熊との共生」
その言葉を、まるで異国の言葉を試すように呟いた。
「美しい理念だ。否定はしない。だが理念だけでは命は守れない。現実の泥にまみれて、手を汚さなければ守れないものがある。それを知らない者たちに、私は教えてやったつもりだ。高い授業料だったがな」
風が吹いた。木々が揺れ、葉がざわめく。
「日本熊だいちゅき協会」は崩壊した。会員たちは散り散りになり、ある者は訴訟に苦しみ、ある者は世間の冷笑を浴び、ある者は何事もなかったかのように日常に戻った。熊を「だいちゅき」と言う者は激減し、その言葉自体が一種の皮肉として使われるようになった。
これを勝利と呼ぶべきか、それとも悲劇と呼ぶべきか。
おそらく、どちらでもあり、どちらでもない。
人間と熊の関係は太古の昔から続いてきた。ときに共存し、ときに衝突し、多くの血が流れてきた。その関係に「正解」などない。あるのはただ、その時々の現実に向き合い、最善と思われる選択を重ねていく営みだけである。
「日本熊だいちゅき協会」の失敗はその現実から目を背けたことにあった。熊を愛することと、熊と共に生きることは似ているようで全く異なる。愛は感情であり、共生は技術である。感情だけでは野生の猛獣と向き合えない。彼らはそのことを、最も残酷な形で学ぶことになった。
◆
秋になった。
A県の山々は紅葉に染まり、収穫の季節を迎えていた。熊の出没は続いていたが去年のような異常事態には至っていない。自衛隊は撤収し、県警機動隊も通常配置に戻った。猟友会の老練なハンターたちが日々の巡回を続けている。
三太夫は相変わらず知事室の剥製たちに囲まれて執務を続けていた。次の知事選挙は来年に迫っている。今回の騒動で支持率は乱高下したが最終的には微増で落ち着いた。県民はこの曲者の知事をそれなりに評価しているようだった。
ある日、一通の手紙が届いた。
差出人は熊谷愛子。元「日本熊だいちゅき協会」会長である。
『熊殺知事様
お手紙を差し上げることをお許しください。
私は今、田舎で静かに暮らしております。協会の解散後、都会にはいられなくなりました。報道陣に追われ、SNSでは罵詈雑言を浴びせられ、かつての同志からも見放されました。すべて自業自得と申せましょう。
この手紙は謝罪のために書いているのではありません。私は今でも熊を愛しておりますし、駆除という行為に心から賛成することはできません。その点では知事とは永遠に相容れないでしょう。
しかし一つだけ認めなければなりません。
私は現実を知りませんでした。山で熊と対峙したことも、熊に家族を奪われた人の悲しみを間近で見たこともありませんでした。東京のオフィスで理想を語り、遠い土地の出来事を他人事として眺めていたに過ぎません。
知事の条例は確かに我々への嫌がらせでした。しかしそれは同時に、最も効果的な教育でもありました。百の言葉より、一頭の熊を目の前にすることで、人は多くを学びます。私たちは学びました。あまりにも遅く、あまりにも高い代償を払って。
Gで亡くなった方のことは一生忘れません。あの方の命を奪ったのは熊ですがその熊を送り込んだのは私たちです。私の手は血で汚れています。それは知事の手と同じです。
いつか、熊と人間が本当の意味で共生できる日が来るのでしょうか。私には分かりません。ただ、その日が来るとすれば、それは理想を語る人々と現実を知る人々がお互いを罵り合うのではなく、対話を重ねることによってのみ可能になるのではないかと、今は思っております。
長々と失礼いたしました。どうかお身体をお大事に。
熊谷愛子』
三太夫は手紙を読み終え、静かに机の上に置いた。
窓の外では秋の陽が傾きかけている。山の稜線が金色に輝き、空には鰯雲が流れていた。
「対話、か」
その言葉を、三太夫は噛みしめるように呟いた。
手紙には返事を書かないだろう。書く必要もない。しかしこの手紙は捨てずに取っておこうと思った。いつか、誰かに読ませる日が来るかもしれない。
熊との戦いは終わらない。今年も、来年も、そのまた先も、山から熊は降りてくるだろう。そのたびに人間は対処しなければならない。駆除するか、追い払うか、あるいは別の方法を見つけるか。
正解のない問いに向き合い続けること。それが熊の国に生きる者の宿命である。
三太夫は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
山が見える。あの山のどこかに、今も熊がいる。
彼らもまた生きようとしているだけなのだ──人間と同じように。
その単純な事実がすべての悲劇の根源であり、同時に、いつか和解へと至る道の出発点でもあるのかもしれなかった。
秋風が窓ガラスを揺らした。
どこか遠くで、熊が吠えた。
(了))
熊が来る! 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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