第10話:名前をつけなかったまま

朝は、いつもと同じ時間に目が覚める。

目覚ましが鳴る少し前、身体が先にほどける。

起き上がる理由はないのに、起き上がれる。

眠りの終わりは、誰かに宣言されるものじゃなく、

静かに接続が切り替わるだけだ。


カーテンの隙間から差し込む光の量も、季節相応だ。

冬の光は鋭いのに弱い。

部屋の隅まで届かない。

私はその光を「今日はこういう日だ」と受け取って、

受け取ったままにする。

説明しない。

説明すると、余計な判断が増える。


キッチンに向かって、コーヒーを淹れる。

豆の袋を開けると、昨日と同じ匂いがする。

同じ、というだけで少し安心するのは、

たぶん人間の仕様だ。

お湯を注ぎ、落ちる速度を見て、

カップを手に取る。

温度を確かめてから一口飲む。


熱すぎない。

舌が急がされない。

今日はそれでいいと思った。

「いい」という判断をしたことさえ、

できれば忘れておきたい。

判断が積み重なると、

生活は重くなる。

私は最近、その重さに敏感になっている。


駅までの道は二つある。

最短の道と、少しだけ遠回りになる道。

信号の数も、人通りも違う。

どちらを選んでも、遅刻はしない。

遅刻しない、という保証があるから、

選び方が自由になる。

自由になると、

逆に選び方が曖昧になる。


以前は、迷っていた。

今日は余裕があるか、ないか。

誰とすれ違いたいか、

すれ違いたくないか。

そういう考えが、

道を選ばせていた。


今は、立ち止まらない。

その場で足が出る。

出た足が、

どちらの道を選んだのかを、

私はあとから確認しない。

理由は考えなかった。

考えなくても困らないと、

もう知っている。


ホームで、彼女を見つける。

人の流れの中に、

彼女の輪郭がある。

同じ電車に乗る日もあれば、

乗らない日もある。

今日は同じだった。


それだけのことなのに、

私は胸の奥で小さく確認する。

喜びではない。

安心とも少し違う。

「同じ」という事実の手触りだけを、

確かめる。


確かめて、終わる。

それ以上、膨らませない。

膨らませると、

名前が生まれてしまう。


電車が揺れる。

発車のときの重さが、

足元から伝わる。

広告の文字が流れ、

窓に映る顔が一瞬重なる。

知らない誰かの顔と、

自分の顔と、

彼女の横顔。


重なりはすぐにほどける。

ほどけるのに、

見たという記憶だけが残る。


彼女はスマートフォンを見ていて、

私は吊り革を握っている。

指先に力を入れすぎないように、

少しだけ意識する。

肩が触れそうでも、

触れない。


近づかないし、

離れもしない。

距離が変わらないことが、

関係を固定しているわけじゃない。

ただ、

変える必要がないという合意が、

言葉なしで成立している。


仕事が終わり、

改札を出る。

人の流れがほどけて、

空気が変わる。

並んで歩く。

歩幅は最初から合っている。


会話は短い。

必要なことだけ。

話題が切れても、

困らない。


沈黙は途切れじゃなく、

間だ。

風の音と、

靴底が舗道に触れる音が、

一定の間隔で残る。


分かれ道で、

彼女が言う。

「今日は、どっちにする?」


問いは軽い。

私は肩をすくめて、

片方を示す。

理由は要らない。


歩きながら、

私は気づく。

もう、確かめていない。

増えたか、

減ったか。

その確認を、

していない。


駅に着くころ、

一本見送る。

それでも問題はない。


ベンチに座る。

彼女は隣に座るが、

触れない。

触れないことが、

自然になっている。


名前をつけなかった感情は、

まだある。

消えてはいないし、

主張もしない。

扱い方を決めなくていい位置に、

静かに留まっている。


電車が来る。

立ち上がる。

並んで乗る。

扉が閉まる。


名前が必要な感情もある。

必要ない感情もある。

少なくとも、

これは後者だ。


増えなかったまま。

減りもしないまま。

それで生活が続いている。


今日は、

それで十分だった。

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名前をつけなかった感情について アイル・シュトラウス @AileStrauss

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