星雲の王女ジェシー ―星の心に選ばれし巫女と、滅びの方舟を越えて―
近藤良英
第1話
序章 星の記憶
風が吹いていた。
それはやさしい春の風でも、冷たい冬の風でもない。
星のざわめきを運ぶような、不思議な風だった。
少女はその風の中に立っていた。白いワンピースの裾が揺れ、長い銀の髪が光を受けて流れる。彼女の名は――ジェシー。まだ八歳の、あどけない少女だ。
目の前には、緑に包まれた大地と、鏡のように静かな湖が広がっていた。湖面には青い空と白い雲、そして二つの太陽が映りこんでいる。
ロリンダ星。スカンジナビア星雲の中心に近い、命あふれる楽園の惑星。
「お母さん、見て! 光ってる!」
ジェシーが指さした先、湖の中央で水面がきらりと揺れた。
「それは“星の心”の光よ」
穏やかな声で答えたのは母のセリアだった。金色の髪を風に流し、やさしい微笑みを浮かべる。
「星の心……?」
「そう。ロリンダを生かしている光。私たち巫女の一族は、その声を聞くことができるの」
セリアはジェシーの手を取り、そっと胸の前で組ませた。
「耳をすましてごらん。星の声が、あなたを呼んでいる」
ジェシーは目を閉じた。
――たしかに聞こえた。
やわらかな響きが心の奥に流れ込んでくる。言葉ではない。けれど、たしかに優しく語りかけてくる。
「ジェシー……」
その声に包まれ、少女は小さく笑った。
「ねぇ、お母さん、星がね、わたしの名前を呼んだの」
「ええ、きっとあなたを選んだのよ」
母は誇らしげに娘を抱きしめた。
――しかし。
次の瞬間、空が震えた。
どこまでも青かった空が、黒い影に覆われていく。
耳をつんざくような金属音。遠くの森で火柱が上がった。
「……あれは?」
ジェシーが見上げた空を、無数の黒い艦隊が覆っていた。光を吸いこむような漆黒の装甲。
それが“黒き方舟アーク”の襲来だった。
「ジェシー! 家の中へ!」
セリアが叫ぶ。
だが幼いジェシーは、その恐ろしい光景から目を離せなかった。
艦の腹から放たれた光線が、大地を裂き、森を焼く。空が炎に染まり、風が悲鳴を上げる。
「お母さん! お父さんは!?」
「大丈夫。お父さんは――」
セリアが言いかけたその時、家の方角が爆ぜた。爆風が二人を吹き飛ばす。
耳が鳴る。世界がゆがむ。
ぼやけた視界の中、母が必死にジェシーの名を呼んでいた。
誰かの手が、少女の腕を乱暴につかむ。
「この子だ! “器”は確保した!」
黒い防護服を着た兵士たちが叫ぶ。
「離して! お母さん!」
ジェシーは暴れた。けれど小さな腕ではかなわない。
母の叫びが響く。
「ジェシー! 逃げて――!」
光が弾け、視界が白く染まった。
――そして、すべてが消えた。
*
目を開けると、そこは薄暗い部屋だった。
金属の壁、整然と並ぶベッド。外には雨のような音。
ジェシー――いや、十八歳になった彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……また、あの夢」
額に汗がにじむ。
毎晩のように見る夢。緑の大地と、黒い艦隊。
思い出そうとしても、途中で霧のように記憶が消えてしまう。
ここはスミノフ王国の王宮。
ジェシーは侍女として働き、王妃に仕えている。だが、彼女自身、自分がどこから来たのかを知らなかった。
窓の外には、青白い月が二つ浮かんでいる。
機械仕掛けの鳥が夜空を横切り、静かな羽音を立てた。
「星の声……もう、聞こえなくなっちゃった」
そうつぶやいた瞬間、彼女の腕に刻まれた古い紋章が、わずかに光った。
ジェシーは気づかない。
その微かな光が、彼女の運命を――そして星雲全体を動かし始めていたことを。
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第1章 王宮の影
朝の鐘が、王都スミノフ全域に鳴り響いた。
冷たい空気を割るように、鐘の音が石造りの王宮を震わせる。
高い塔の先には青白い二つの太陽が昇り、雲海の向こうで光がきらめいた。
ジェシーは侍女寮の一室で、静かに身支度を整えていた。
銀色の髪をリボンでまとめ、薄緑色のエプロンドレスを身につける。
鏡に映る自分の瞳は、どこか遠い星の光を宿していた。
「また寝不足?」
隣のベッドから顔をのぞかせたのは、同僚の侍女リーナだった。
「うん……ちょっとね」
「また夢見たんでしょ。あの、星の夢」
ジェシーは苦笑した。彼女は嘘をつけない性格だ。
「そう。でも、もう慣れたよ」
「ほんと? あんたって不思議だよね。どこから来たのかも誰も知らないし、でも王妃さまに気に入られてる」
「そんなこと……」
ジェシーは首を振った。だが、胸の奥で少しだけひっかかる。
自分の出自は、誰も知らない。
気がついたときには、この王宮で働いていた。
名前も、生まれた星も、記憶も――すべてが霧の中。
ただひとつ、腕に刻まれた古い紋章だけが、彼女の過去を物語っている。
「ジェシー、王妃さまがお呼びよ!」
扉の外から声がした。
慌てて立ち上がり、裾を整えると、廊下へと出る。
王妃アーネラの私室は王宮の最上階、光の回廊の先にある。
途中、磨き上げられた床に二人の衛兵が映り、無言のまま彼女を見送った。
王妃の部屋は、まるで夜空を閉じ込めたような深い青で満たされていた。
「ジェシー、来たのね」
白金の髪を結い上げた王妃が、椅子に腰かけていた。
その隣には、豪華な赤い封筒が置かれている。
「お呼びでしょうか」
「ええ。今日は特別な日です。第二王子アレクの学問修了の日でもあり、陛下の誕生日の準備も始まります」
王妃は穏やかに言いながらも、どこか探るような視線をジェシーに向けた。
「あなたには、アレクの身の回りをしばらく見てもらいたいの」
「……わたしが、ですか?」
「ええ。あの子は本ばかり読んで、まるで外の世界に興味がない。
あなたのような子がそばにいれば、少しは心を開くかもしれないわ」
ジェシーは戸惑った。
王子の侍女――それは特別な役目だ。
少しでも失礼をすれば、即座に追放されることもある。
「……わかりました。努力いたします」
「よろしいわ」
王妃は優しくうなずいたが、その微笑みの奥に、どこか冷たい影がよぎった。
*
アレク王子の部屋は、王宮の北翼にあった。
広い書斎には古い書物と星図、そして機械仕掛けの模型が所狭しと並んでいる。
その真ん中に、ひとりの青年がいた。
黒髪に淡い金の瞳。王族にしては飾り気のない服装だが、瞳の奥に強い知性が光っていた。
「……誰?」
アレクは書類から顔を上げた。
「今日からお世話になります。ジェシーと申します」
彼女が頭を下げると、アレクは少し驚いたようにまじまじと見つめた。
「ジェシー……君のその瞳、どこかで見たような」
その言葉に、ジェシーの胸が一瞬ざわめいた。
「どこかで、ですか?」
「いや……すまない。ただ、昔、見た星の光に似ていると思って」
アレクは小さく笑い、机の上の古びた星図を広げた。
「これはスカンジナビア星雲の中心部の地図だ。今では禁じられているけど、かつて“星雲の心臓”と呼ばれた場所があった。
そこには、人と星が共鳴する“巫女”がいたという伝承がある」
「巫女……?」
「君は知らないかい?」
ジェシーは首を横に振る。だがその瞬間、なぜか胸の奥がきゅっと痛んだ。
「……どこか懐かしい音がする」
「音?」
「ええ、あなたの言葉が……」
ジェシーの声は、かすかに震えていた。
そのときだった。
窓の外で、低い爆音が響いた。
鳥たちが一斉に飛び立ち、遠くで警鐘が鳴る。
「またか……王都の地下で最近、妙な動きがある」
アレクは立ち上がり、外を見やった。
王宮の下層から黒煙が上がり、人々がざわめいている。
「黒い紋章の男たちが現れたという噂だ」
「黒い紋章……」
ジェシーは自分の腕を押さえた。
布の下で、刻まれた紋章がうっすらと熱を帯びる。
まるで、呼びかけるように。
どこか遠い声が、彼女の中でささやいた。
――逃げて、ジェシー。
ジェシーははっと顔を上げた。
だが、アレクには聞こえていないようだった。
青年は窓の向こうを見つめ、静かに呟く。
「この国の中で、何かが動き出している……」
その背中を見つめながら、ジェシーは知らず手を握りしめていた。
何かが始まろうとしている。
自分の運命を巻きこむ、大きな流れが――。
*
夜、王宮の庭園には静かな風が吹いていた。
噴水の水音の向こうで、星々が凍るように輝いている。
ジェシーはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
昼間、アレクが話していた“星雲の心臓”――その言葉が頭から離れない。
「星と、人が、共鳴する……」
ふと、彼女の瞳が夜空を映した。
星々の光が集まり、まるで彼女を包み込むようにきらめく。
その時、空の高みで流れ星が一筋走った。
ジェシーはそっと目を閉じた。
――どうか、教えて。
わたしは、いったい何者なの?
その願いは、夜空を越えて、遠い星雲の奥へと届いていった。
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第2章 黒き方舟の影
王都スミノフの夜は、冷たく光っていた。
天空を横切る二つの月が、銀の街並みに長い影を落とす。
昼間の爆発から一晩が過ぎたが、王都の人々はいまだ不安を隠せずにいた。
ジェシーは王宮の回廊を歩いていた。
薄暗い石造りの廊下を、かすかな灯りが照らしている。
足音が響くたび、どこか遠くで金属のきしむ音が返ってきた。
(あの爆発……何だったんだろう)
あれ以来、王宮内では厳重な警備が敷かれ、侍女たちも不安げだった。
黒い紋章の男たち――アレクの言葉が耳から離れない。
「“黒き方舟”……」
小さくつぶやくと、その名は空気を震わせるように感じた。
まるで、その言葉そのものに力があるかのように。
*
「また来てくれたのか」
声のする方を見ると、アレク王子が書斎の机に向かっていた。
彼の部屋は昨日と同じく、書物の山と機械模型でいっぱいだ。
「はい、王妃さまのご命令ですから」
ジェシーは少し照れながら頭を下げる。
アレクは微笑んで、机の上の金属板を示した。
「これは昨夜、爆発現場の残骸から見つかった破片だ。奇妙だろう?」
金属板には、黒い三角形の紋章が刻まれていた。
見た瞬間、ジェシーの胸が痛んだ。
喉の奥が熱くなり、息が詰まる。
「この印……」
「知っているのか?」
アレクが顔を上げる。ジェシーは言葉を失ったまま、首を横に振るしかなかった。
「いいや、知らない……でも、見たことがある気がして」
「そうか。これは“黒き方舟”の印だ」
「黒き方舟……本当に、あるんですか?」
「ああ。星雲コアの研究を禁じられた科学者たちが千年前に作った秘密組織。
彼らは“永遠の命”を求め、星の力を奪おうとした。伝承ではそう語られている」
アレクの瞳が真剣になる。
「だが、最近になって、その名が現実のものとして浮上してきた。
王国の地下で動く影、失踪する研究員、そしてこの印……すべてがつながっている」
ジェシーは息をのんだ。
彼女の腕の下では、またあの紋章がかすかに光っている。
まるで“黒き方舟”の名に反応するように。
*
その夜。
ジェシーは眠れず、侍女部屋のベッドから起き上がった。
窓の外には霧が立ちこめ、遠くの塔の灯りがぼんやりとにじんでいる。
どこかから呼ばれている気がした。
胸の奥に響く声――
「星雲の器よ……」
頭の中が真っ白になる。
その声に導かれるように、ジェシーは静かに部屋を出た。
王宮の地下へと続く階段。
ふだんは使用人も立ち入らない場所。
湿った空気と、鉄の匂いが鼻をつく。
(どうして、足が勝手に……)
自分の意思ではないように、体が動いていた。
階段の先には、古びた鉄の扉があった。
表面には、昼間見たのと同じ黒い三角の紋章。
「やっぱり……」
指先が触れた瞬間、扉が低くうなりをあげて開いた。
中は暗闇。
その奥に、青い光を放つ巨大な装置があった。
球体の中心で脈動する光――それはまるで心臓の鼓動のようだった。
「星雲コアの……断片?」
ジェシーの瞳が反射して光る。
すると突然、部屋の奥から声が響いた。
「侵入者だ!」
暗がりから黒い防護服の兵士たちが現れた。
腕にはあの紋章――黒き方舟の印。
「だれだ、貴様!」
銃口がジェシーに向けられる。
逃げようと後ずさった瞬間、装置の光が一気に強まった。
眩しい閃光が走り、兵士たちが叫び声をあげて倒れる。
光が収まったとき、ジェシーの足元には焦げた床の跡。
彼女の体から、微かな光の粒がふわりと漂っていた。
「……わたしが、やったの?」
ジェシーは震える手を見つめた。
そのとき、誰かが背後で叫ぶ。
「ジェシー!」
振り向くと、アレクが駆け込んできた。
彼はジェシーを庇うように立ち、周囲を見渡す。
「まさか……本当に“方舟”の残党が宮に潜んでいたとは」
「王子、わたし……わたしは……」
「今は話している場合じゃない。早くここを出よう!」
アレクはジェシーの手をつかんだ。
その手のぬくもりに、ジェシーの胸が少しだけ落ち着く。
二人は階段を駆け上がり、暗闇を抜けた。
外に出ると、夜明けの光が王宮の屋根を照らし始めていた。
朝霧の中、鐘の音がゆっくりと鳴り響く。
「王子……」
ジェシーは息を切らしながら言った。
「“星雲の器”って、なんですか?」
アレクは立ち止まり、彼女を見つめる。
「その言葉をどこで?」
「……夢の中で。わたしをそう呼ぶ声がするんです」
アレクの瞳がわずかに揺れた。
「“器”とは、星の意志を宿す存在だ。星雲のコアと共鳴し、力を引き出す……まさか君が――」
「そんな……!」
ジェシーは首を振った。だが胸の奥では、確かな恐れと、どこか懐かしい感覚が混ざり合っていた。
アレクは静かに言った。
「黒き方舟が動き出している。君の中に眠る“星の記憶”を、奴らが狙っているのかもしれない」
ジェシーは息をのむ。
夜明けの光が、彼女の瞳の奥で輝いた。
その光は、ただの反射ではなかった。
星のように――静かに、確かに、彼女の中で脈を打っていた。
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第3章 祝賀の夜会
王宮の大広間は、夜空のような光で満ちていた。
天井に浮かぶ光球がゆるやかに回転し、無数の星のように輝いている。
壁面には金糸のタペストリー、床には鏡のように磨かれた白い石。
音楽が流れ、貴族たちの笑い声が絶えない。
――王の誕生日祝賀会。
王都スミノフ最大の行事であり、毎年この夜だけは国中が眠らない。
ジェシーは銀の盆を手に、慎重にホールの間を歩いていた。
光沢のある黒い制服に白い手袋。
他の侍女たちと並んで、貴族の間をすり抜けながら給仕を続ける。
(まぶしい……)
見上げた先、階段の上には国王と王妃が並び、左右には王子たち。
第一王子カイロス、そして第二王子アレク。
二人の間には目に見えない緊張が走っていた。
カイロスは金のマントをまとい、堂々とした笑みを浮かべている。
その視線は、まるで人を見下ろすように冷たい。
アレクは対照的に静かだった。
白い軍服の襟を正しながら、どこか思いつめたような表情をしていた。
ジェシーの胸がざわめく。
(あの人……本当にアレク王子と兄弟なの?)
そう思うほど、二人の雰囲気は違っていた。
「第二王子殿下、ご機嫌はいかがです?」
貴族の男が笑顔で近づくと、アレクは軽く会釈した。
「平穏であることが、何よりです」
「しかし、殿下はあまりにも穏やかすぎますな。王位を継ぐには――」
その言葉をさえぎるように、カイロスの声が響いた。
「弟は学問には優れているが、政治には興味がないのだ。そうだろう、アレク?」
ホールの空気が一瞬凍りつく。
アレクは静かに微笑んだ。
「兄上がおっしゃる通りです。私は人を治めるよりも、人を守ることに興味があります」
「ふっ……理想主義者だな」
カイロスは冷笑し、杯をあおった。
ジェシーは少し離れた場所で、二人のやりとりを見ていた。
その背筋に、ぞくりとした感覚が走る。
兄弟の間にあるもの――それはただの考え方の違いではない。
もっと深く、暗い何かがある。
*
夜会も中盤を過ぎ、ホールの喧騒が少し落ち着いたころ。
ジェシーは厨房から飲み物を運ぶため、裏の回廊に出た。
石畳の廊下は人影もなく、蝋燭の炎だけがゆらゆらと揺れている。
そのとき――
かすかな声が聞こえた。
「……“器”はすでに宮に潜む。近いうちに“鍵”が開く」
低く押し殺した男の声だ。
ジェシーは息をのんだ。
回廊の角をそっとのぞくと、黒いマントの男たちが二人、密談をしていた。
胸には黒い三角形の紋章――“黒き方舟”の印。
(また……!)
逃げようとした瞬間、手首に熱が走った。
袖の下の紋章が、まるで呼応するように光りだす。
「……うっ」
思わず息をのむジェシー。
その微かな光が壁を照らし、男たちの目に止まった。
「誰だ!」
鋭い声。男たちがこちらに向かってくる。
ジェシーはスカートをつかんで走り出した。
狭い廊下を駆け抜け、扉を押し開ける。
そこはホールの裏側――華やかな音楽が遠くに聞こえる。
けれど彼女の心臓は、まるで別の世界にいるように激しく打っていた。
「見失ったか?」
「いや、確かにこの方向に――」
背後で足音が近づく。
ジェシーはとっさに扉の陰に身をひそめた。
その瞬間、頭の奥で声が響く。
――ジェシー、逃げて。
「お母さん……?」
思わず口に出してしまった。
涙がにじむ。あの優しい声を、ずっと夢の中で聞いてきた。
だが現実の足音がそれをかき消す。
もう逃げ場はない。
ジェシーは覚悟を決め、両手を胸の前で組んだ。
「お願い……もう一度、あの力を」
彼女の瞳が淡く光り、空気が震えた。
次の瞬間、まばゆい閃光が走り、黒い影たちが吹き飛ぶ。
爆風のあと、静寂が訪れた。
ジェシーはその場に膝をつき、息を荒げた。
「わたし……また……」
「ジェシー!」
声の方を見ると、アレクが駆け寄ってきた。
彼は彼女の肩を抱き、倒れた兵士たちを見渡す。
「黒き方舟の連中だ……。やはり宮に入りこんでいたんだ」
アレクの表情が険しくなる。
「でも、王子……この人たち、“器”のことを……」
「“器”?」
「ええ。わたしのことを、そう呼んでいました」
アレクの目が驚きに見開かれる。
「やはり……君が“星雲の鍵”なのか」
ジェシーは首を横に振る。
「違います……そんなはずない……!」
けれど、胸の奥では何かが確かに目を覚ましつつあった。
そのとき、遠くのホールから鐘の音が響いた。
王の祝賀が終わりを告げる鐘――。
だが、誰も知らない。
その鐘の音が、これから始まる“崩壊”の序章でもあったことを。
*
夜会が終わった後、王妃アーネラの居室では密やかな会話が交わされていた。
「――器は、確かに覚醒を始めました」
黒衣の男が報告する。
王妃はゆっくりと立ち上がり、夜空に向けて言葉を落とした。
「星雲の巫女……ようやく動き出したのね」
その瞳は、冷たく光っていた。
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第4章 追跡と脱出
夜の王宮は、不穏な静けさに包まれていた。
昼間の華やかな祝賀会の面影はもうない。
廊下の灯りはところどころ消え、風がカーテンを揺らしている。
ジェシーは侍女部屋の窓辺に立ち、遠くの塔を見上げていた。
あの夜会のあと、王妃アーネラは姿を見せなくなり、王も体調を崩したと聞く。
そして、王宮の中では「何かが起きている」という噂だけが流れていた。
その時だった。
遠くから、鈍い爆音が響いた。
次いで、警鐘が鳴る。
塔の影に赤い光――火の手が上がった。
「……まさか!」
ジェシーは息をのんだ。
廊下に飛び出すと、侍女たちが悲鳴を上げながら走り回っていた。
「黒い兵士が侵入したって! 地下の門が破られたのよ!」
黒い兵士――その言葉に、ジェシーの心臓が跳ねた。
「黒き方舟……!」
その瞬間、背後で扉が開いた。
「ジェシー!」
アレクが現れた。息を切らし、軍服の裾が焦げている。
「無事か!」
「はい……でも何が――」
「“方舟”の部隊が王宮を襲撃している。父上を人質に取った可能性が高い!」
アレクは短く息を吐き、ジェシーの手をつかんだ。
「ここにいたら危険だ。すぐに逃げよう」
「でも、王妃さまは?」
「……おそらく、もう」
言葉の続きを、アレクは飲み込んだ。
ジェシーは震える唇をかみしめた。
目の前で、崩れ落ちる王宮の塔が見えた。
*
二人は裏廊下を駆け抜けた。
外では火の粉が舞い、夜空が赤く染まっている。
遠くの門のほうから、機械音が聞こえる。
黒い装甲の兵士たちが、無言で宮廷を制圧していた。
「王子、あれを!」
ジェシーが指さした先に、黒い紋章をつけた兵士が王の私室の扉を爆破するのが見えた。
中から聞こえたのは、カイロス王子の怒声。
「貴様ら、誰の許しで――!」
だがその直後、閃光が走り、声は途絶えた。
「カイロス兄上まで……!」
アレクの目に怒りの光が宿る。
「行こう。宇宙港まで逃げるんだ!」
ジェシーはうなずいた。
二人は裏門へ向かい、暗い回廊を抜ける。
だが途中で、黒い兵士の部隊に行く手をふさがれた。
「“星雲の器”を確保せよ!」
その声が響いた瞬間、ジェシーの胸が締めつけられた。
またその名――“器”。
銃口が向けられ、火花が走る。
アレクは剣を抜いて立ちはだかった。
「彼女には指一本触れさせない!」
彼の剣が青い光を放ち、火花と火線が交錯する。
ジェシーは叫んだ。
「やめて、王子!」
だが、その声よりも早く、背後で爆発音が響いた。
廊下が崩れ、瓦礫が落ちる。
その衝撃で、ジェシーの体が宙に投げ出された。
「ジェシー!」
アレクが手を伸ばし、ぎりぎりのところで抱きとめる。
彼の頬には血が流れていた。
「逃げるんだ! 南門の先に、俺の護衛艇がある!」
二人は走った。
炎の中を、煙の中を。
兵士たちの影が追いすがる。
王宮の外に出ると、風が顔を打った。
夜空には黒い艦艇が浮かび、その下で王都全体が燃えていた。
ジェシーは息をのんだ。
――黒き方舟の艦隊。
「王都が……!」
「見ちゃだめだ、ジェシー!」
アレクが彼女の手を引いた。
宇宙港の方角へと走る。
その途中、空が一瞬白く光った。
巨大な閃光が、王宮の中心から放たれた。
それはまるで、太陽の爆発のようだった。
「下がれ!」
アレクが彼女を抱きしめ、地面に伏せる。
次の瞬間――
轟音と衝撃が押し寄せた。
建物が崩れ、風がすべてを吹き飛ばす。
ジェシーの耳が鳴り、世界がゆがむ。
だが、その中で奇跡が起きた。
ジェシーの瞳が星光に輝き、体の中心から強烈な光が放たれた。
白い波動が広がり、迫る兵士たちの艦を一瞬で粉砕する。
爆風の中で、アレクが目を見開いた。
「……ジェシー……君は、何者なんだ……?」
ジェシーは震える唇で答えた。
「わからない……でも、あの光が……わたしを守ったの」
光が収まると、夜空には無数の光の粒が漂っていた。
星のように美しい、淡い残光。
だが、王宮の塔はすでに崩れ落ち、黒い艦隊はなお空を覆っている。
「行こう」
アレクが立ち上がり、手を差し出した。
「ここにいたら全員殺される。君の力も、奴らの手に渡すわけにはいかない」
ジェシーはその手を握った。
涙がこぼれたが、もう振り返らなかった。
二人は炎に包まれた王都を背に、宇宙港へと走り出す。
*
港には混乱が広がっていた。
避難民の叫び、爆発、そして空を裂く艦の影。
アレクは停泊していた小型艇にジェシーを乗せると、操縦席に飛び乗った。
「エンジン起動……くそ、制御が干渉されてる!」
モニターには「外部ハッキング」の赤い警告文字。
そのとき、通信機から声が響いた。
『逃がすな。“器”を奪え。黒き方舟のために――』
ジェシーは震えた。
声の主に、聞き覚えがあった。
夢の中で、母を引き離したあの声。
「……あの人……」
その瞬間、小型艇が強制発進した。
衝撃で体がシートに押しつけられる。
艦が浮上し、炎の海から飛び立つ。
背後で、スミノフ王国の王都が崩壊していった。
「王子……」
「もう王子じゃない。ただの逃亡者さ」
アレクはかすかに笑った。
だがその瞳の奥には、確かな決意が宿っていた。
「ジェシー、これからどこへ行く?」
ジェシーは窓の外を見つめた。
無数の星が広がる宇宙。
「星の声が……呼んでる気がするの」
「星の声?」
「ええ……わたしの中で、ずっと囁いている。“帰っておいで”って」
アレクはその言葉を静かに受け止めた。
「なら、行こう。星の声の導く先へ」
小型艇〈カレリア号〉が、夜明け前の空を駆け抜ける。
遠く、星雲の中心で、黒き方舟の母艦がゆっくりと目を覚ました。
運命の光と闇が、今、交わろうとしていた。
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第5章 カレリア号の船長
――闇の海。
どこまでも広がる、星と沈黙の世界。
無数の星雲が青く光り、遠い惑星の輪が薄い虹のようにかかっている。
アレクの操縦する小型艇は、星屑の中をただひたすら進んでいた。
スミノフ王国を脱出して三日。
燃料は減り続け、通信は完全に遮断されている。
「……これ以上、進めないな」
アレクが舵を握りながらつぶやいた。
モニターには“エネルギー残量5%”の表示が赤く点滅している。
ジェシーは後部座席で膝を抱えていた。
体には薄い毛布、瞳には疲れの色が浮かぶ。
「もう三日も寝てないんじゃないですか?」
「君こそ。あんな目に遭って、眠れるわけがないだろ」
「……夢を見るんです」
「夢?」
「光る湖と、青い空。そして母の声。あれが……夢じゃなかった気がして」
アレクは何も言わなかった。
ただ、計器を見つめながら小さく息を吐いた。
宇宙の闇はあまりにも深く、二人の声さえ吸い込んでしまうようだった。
*
そのとき、警報音が鳴り響いた。
「! 後方に反応――追撃艦だ!」
アレクがモニターを切り替えると、黒い影が映った。
“黒き方舟”の紋章をつけた艦艇が二隻、こちらに迫ってくる。
「そんな……ここまで追ってきたの!?」
「推進力、限界だ……! 逃げ切れない!」
アレクが必死に操作するが、エンジンが悲鳴を上げる。
砲撃の光が宇宙を走った。
衝撃が船体を揺らし、警告灯が赤く点滅する。
「損傷率30パーセント! シールド低下!」
「アレク!」
ジェシーが叫んだその瞬間――
通信機から、落ち着いた女の声が響いた。
『こちら傭兵船〈カレリア号〉。お坊ちゃん、座標固定して。拾ってあげる』
「なに……?」
驚くアレクの前で、モニターに映ったのは灰色の大型艦。
船体には無数の傷跡、だがその動きは鋭く正確だった。
〈カレリア号〉の主砲が閃光を放つ。
追撃艦の一隻が一撃で吹き飛んだ。
『遅いわよ、“方舟”の犬ども』
その声は低く、冷静だった。
やがて小型艇の前方にドッキングゲートが開く。
アレクは操縦桿を引き、ぎりぎりで突入した。
*
ハッチが閉まり、エンジン音が止む。
数秒の静寂のあと、アレクとジェシーは息をついた。
「助かった……」
ハッチが開き、外から長身の女性が歩み寄ってきた。
黒い戦闘スーツ、肩までの金髪、鋭い碧眼。
背中には古い型のレーザーライフルを背負っている。
「助けてやったんだから、感謝くらいしなさい」
女性は軽く肩をすくめた。
アレクは姿勢を正して頭を下げた。
「助力、感謝する。俺はアレク・スミノフ。スミノフ王国の――」
「王子、ね」
彼女は淡々と遮った。
「その顔、知ってる。報酬金付きの指名手配者だもの」
「……やっぱりそうか」
「安心しなさい。私は賞金より仕事を選ぶ主義よ」
彼女は手を差し出した。
「ラナ・ヴァルガ。〈カレリア号〉の船長。宇宙傭兵さ」
アレクが一瞬ためらうと、ジェシーが代わりにその手を握った。
「助けてくれて、ありがとう……ラナさん」
ラナの瞳が、一瞬だけ柔らかく揺れた。
「……君、その目……」
彼女はジェシーの顔を見つめ、低くつぶやいた。
「その光……“星雲コア”と同じ波長だわ」
「え?」
「気にしないで。ただの職業病よ」
そう言って、ラナは踵を返した。
「ここじゃ落ち着けないでしょ。ブリッジへ案内するわ」
*
〈カレリア号〉の内部は、金属の匂いと油のにおいが混じっていた。
壁には修理跡がいくつもあり、床は所々焦げている。
だが、どこか温かみがあった。
ブリッジでは、古いコンソールがゆっくりと点灯していた。
窓の向こうには、星雲の海が広がっている。
ラナは椅子に座り、指先でパネルを叩いた。
「方舟の追撃は振り切った。スミノフの宙域から完全に離脱したわ」
「ありがとう」
アレクが礼を言う。
ラナは無表情のまま言った。
「礼はいい。あんたたち、何に追われてる?」
「“黒き方舟”に狙われているんです」
ジェシーが答えると、ラナの眉がぴくりと動いた。
「……あの名を出すとはね。どうりで変な波動を感じたわけだ」
「知っているの?」
「知ってるどころじゃない。私は“方舟”の実験体だった」
ラナの声は静かだった。
「六年前、奴らの基地から脱走したの。魂を機械に繋げる実験の“被験者”としてね」
彼女の手の甲には、薄く残った焼き印――黒い紋章の跡。
ジェシーは息をのんだ。
「じゃあ、あなたも……」
「そう。“器”候補の一人だった。でも失敗作扱いされた。
君の中に眠るのは、その“完成形”かもしれない」
ラナの言葉が、ジェシーの心に刺さった。
「わたし……人間じゃないの?」
「そんなこと言ってないわ。生きている限り、人間よ。
ただ――その中に、星の声が宿っているだけ」
ラナは微かに笑った。
「その力をどう使うかは、あんた次第。
けど、逃げてるだけじゃ何も変わらない」
ジェシーは拳を握った。
自分の中の光が何なのか、確かめなければならない――そう感じた。
「ラナさん、私を連れて行ってください」
「どこへ?」
「“星雲の記憶”が残る場所へ。星の声が聞こえるんです」
ラナは少しだけ考えこみ、やがて頷いた。
「……沈黙の惑星オルフェウス。そこに“星雲の碑文”がある」
「オルフェウス……」
「星雲の記憶が眠る、古代の墓場よ」
ラナの瞳が、冷たい星のように光った。
*
〈カレリア号〉がゆっくりと進路を変える。
その先には、青白い霧に包まれた惑星――オルフェウスがあった。
星雲の中でも最も古く、誰も近づかない沈黙の星。
ジェシーは操縦席の窓から、それを見つめた。
胸の奥が、懐かしさで締めつけられる。
「……この星、知ってる気がする」
彼女の手首の紋章が、淡く光った。
ラナが静かに言った。
「歓迎されてるみたいね。星が君を覚えてる」
「星が……私を?」
「ええ。あんたが“星雲の巫女”の血を引いてるなら、当然のこと」
ジェシーは息をのんだ。
遠くの宇宙で、星の光がゆっくりと瞬いた。
その光の一つ一つが、彼女を導くように輝いている。
――運命の声が、また聞こえた。
「帰っておいで、ジェシー。星雲の心が、あなたを待っている」
そして、〈カレリア号〉は光の尾を引いて、沈黙の星へと進んでいった。
________________________________________
第6章 沈黙の惑星オルフェウス
オルフェウス――。
その名は古い星図の中にしか存在しないとされていた。
“沈黙の惑星”と呼ばれ、星雲の中心近く、青白い霧の奥にぽつりと浮かぶ孤独な星。
ラナの操る〈カレリア号〉は、その軌道上に静かに降り立った。
「大気層、ギリギリね。酸素はあるけど汚染が強い。マスクを忘れないで」
ラナの声がヘルメット越しに響いた。
アレクがうなずく。
「了解。ジェシー、準備はいいか?」
「……うん」
気圧ハッチが開く。
外の空気は灰の匂いがした。
風が音もなく吹き、空はどんよりとした白の雲に覆われている。
地表には巨大な石柱が立ち並び、まるで誰かの墓標のようだった。
「ここが……沈黙の惑星」
ジェシーは足元の砂を踏みしめた。
その瞬間、地面の下から淡い光がにじむ。
足跡が光の紋様に変わっていく。
「地脈が生きてるのね……。星雲コアの残響かもしれない」
ラナが低くつぶやいた。
「この星、昔は人が住んでいたの?」
「ええ。古代星雲文明の記録によれば、ここには“記録庫”――星々の記憶を保管する施設があった。でも今はもう……」
ラナの声が、少しだけ沈んだ。
*
丘の上には、崩れかけた神殿のような建物があった。
石のアーチには古代文字が刻まれ、風が通るたび低く唸る。
ジェシーは無意識にその文字へと手を伸ばした。
――その瞬間、視界が白く染まる。
見知らぬ世界。
湖畔に立つ小さな家、青い空、母の笑顔。
そして、少女――幼い自分が笑っていた。
「お姉ちゃん!」
声の方を見ると、小さな女の子が駆けてくる。
彼女の名を、ジェシーは知っていた。
「リナ……!」
手を伸ばす。しかし、風がすべてを奪っていく。
空が黒く裂け、巨大な艦の影が覆いかぶさる。
――黒き方舟。
母の声が響く。
“逃げて、ジェシー……あなたは星の心そのものだから”
次の瞬間、視界が戻った。
ジェシーは神殿の床に膝をついていた。
息が荒く、涙が頬を伝う。
「お姉ちゃん……リナ……」
「ジェシー!」
アレクが駆け寄る。
「大丈夫か!? 何が見えたんだ?」
「……過去。ロリンダの記憶。わたし……思い出したの」
ラナが眉をひそめた。
「ロリンダ……? それって、滅びた星の名でしょ?」
「そう。あの星は、黒き方舟に襲われて……わたしとリナは離ればなれになった」
ジェシーの声は震えていた。
「母は“星の巫女”だった。わたしはその血を継いでいるの」
アレクは静かに言った。
「つまり、君こそ“星雲コア”の鍵……」
ジェシーは首を横に振る。
「違う。ただの人間よ。けれど――星が、わたしを通して語りかけてくるの」
*
神殿の奥には、青白く光る球体があった。
まるで心臓の鼓動のように、ゆっくりと脈打っている。
「これが……記録庫の中枢か」
アレクが近づこうとした瞬間、ラナが腕を伸ばして止めた。
「待って。反応が強すぎる」
だが、ジェシーの足が勝手に前へ進む。
球体から放たれる光が、彼女の瞳と共鳴していた。
やがて、低い声が空間に響く。
『ようやく来たか、“器”よ』
「誰!?」
アレクが剣に手をかける。
だが、声は空気の中から響いていた。
『我はアークの預言者。千年前に星の理を越えた者――ドクター・ヘルヴァインの記憶』
その名を聞いた瞬間、ラナが息をのんだ。
「ヘルヴァイン……! あの狂った科学者が、まだ生きてるの!?」
『肉体は滅んでも、魂は機構の中に残った。人は“死”を克服できるのだ』
声は不気味に響き渡る。
『星雲の心臓はまもなく我らの手に。お前たちはその礎となる』
そのとき、神殿の外で地面が震えた。
黒い影が空を覆う。
艦艇――黒き方舟の追撃艦だ。
「来た……!」
ラナが舌打ちした。
「逃げるわよ! ジェシー、動ける!?」
「うん!」
三人は神殿を飛び出した。
空から降り注ぐ砲撃の光が地面を焼く。
砂煙の中を駆け抜け、〈カレリア号〉へと走る。
しかし、艦の前に立ちはだかる影があった。
白い装甲、冷たい瞳。
その人物を見た瞬間、ジェシーの足が止まった。
「……リナ?」
白の戦乙女ワルキューレ。
黒き方舟の精鋭部隊を率いる少女。
彼女の顔には、かつての妹の面影があった。
「姉さま……」
リナの声は冷たく響いた。
「ようやく見つけました。“偽りの巫女”」
風が止まり、空が鳴った。
姉妹の瞳が、星光のようにぶつかり合う。
________________________________________
第7章 白の戦乙女
空が裂けた。
沈黙の惑星オルフェウスの上空に、黒き方舟の艦隊が広がっていた。
無数の機械翼を持つ戦闘艇が、嵐のように空を覆い、轟音と閃光を放つ。
〈カレリア号〉の甲板で、ジェシーは立ちすくんでいた。
その前に現れたのは、白銀の装甲に身を包んだ少女。
ヘルメットの下からのぞく瞳は氷のように冷たい。
「リナ……本当に、あなたなの?」
ジェシーの声が震える。
少女は無言のまま槍を構えた。
「“星雲の巫女”を名乗る者よ。あなたは私の敵です」
その声は、かつての妹のものだった――けれど、温もりがなかった。
ラナが銃を構える。
「気をつけて! あれが“白の戦乙女”隊長、リナ・ロリンダ。黒き方舟が育てた最強の兵士よ!」
アレクが息をのむ。
「ロリンダ……!? ジェシー、まさか君と――」
「妹なの。けど……そんなはずない、あの子は……!」
ジェシーが叫ぶより早く、リナが地を蹴った。
白い槍が閃光を放ち、〈カレリア号〉の装甲を切り裂く。
アレクが咄嗟にジェシーを押し倒した瞬間、爆風が背後で弾けた。
「危ない!」
ラナが引き金を引き、光弾が空を走る。
だがリナは槍を回転させ、信じられない速度で弾き返した。
「そんな攻撃、効きません」
リナの瞳が、まるで人間ではない光を宿していた。
「あなたは……もう、方舟に心を奪われているの?」
ジェシーの声が震える。
「心? そんなもの、もういらない。私は“器”を完成させるための兵士」
「違う! あなたはリナよ! お母さんと笑ってた、あの頃の――!」
ジェシーの叫びに、リナの眉が一瞬だけ揺れた。
しかし次の瞬間、冷たい声がそれを押し消す。
「偽りの記憶を語るな!」
リナの槍が光を放つ。
それを避けきれず、ジェシーは肩をかすめられた。
焼けるような痛みが走り、血がほとばしる。
「ジェシー!」
アレクが剣を抜き、リナに斬りかかった。
金属音が空気を裂き、火花が散る。
だが、リナの動きはあまりに速かった。
アレクの剣が弾き飛ばされ、彼の体が甲板に叩きつけられる。
ラナが叫んだ。
「アレク、下がって! これは彼女の戦いよ!」
ジェシーは立ち上がった。
左肩から血が流れているが、瞳はまっすぐ妹を見つめていた。
「リナ……もう、やめよう。あなたは私を憎んでるの? それとも――苦しんでるの?」
リナの表情が、わずかに歪んだ。
「苦しみ? そんなものは黒き方舟が取り去ってくれたわ。私は“完成した存在”よ」
「完成……? それは、自分で選んだことなの?」
「……」
答えない。
しかし、リナの手が微かに震えていた。
「聞いて。私はあなたを置き去りにした。あの夜、母の手を離して――あなたを助けられなかった」
ジェシーは涙をこらえ、歩み寄る。
「でも、あれは私のせいじゃない。あの日、方舟が私たちを引き裂いたの」
「嘘よ!」
リナの叫びが響く。
「母は私じゃなく、あなたを選んだ! “星の巫女”にふさわしいのは姉のほう……! 私は……いらなかったの!」
彼女の槍が光り、再び振り下ろされる。
だがその刃がジェシーに届く寸前、まばゆい光が二人の間に広がった。
――星の声が響いた。
ジェシーの腕の紋章が輝き、光が波紋のように広がる。
リナの槍が弾かれ、空へと舞う。
風が止まり、時間が凍る。
ジェシーの瞳が、星光に染まっていた。
「リナ……あなたの心が聞こえるの。悲しい声が」
「やめて……やめて!」
リナが耳をふさぐ。
「私はもう、人間じゃない……!」
「違う! あなたは、私の妹よ!」
その言葉が空を震わせた。
リナの瞳から、ひとすじの涙がこぼれた。
だが次の瞬間、頭上の通信が鳴る。
『白の戦乙女、後退せよ。目標確保を優先するな』
冷たい男の声――黒き方舟の司令。
リナは苦しげに唇を噛んだ。
「姉さま……いずれまた、敵として会うわ」
白い翼が広がり、リナは空へと舞い上がる。
その背を、ジェシーはただ見送ることしかできなかった。
「リナ……!」
伸ばした手は、虚空をつかむだけだった。
*
戦いのあと、〈カレリア号〉は大気圏を離れ、星雲の外縁軌道へ戻っていた。
船内には静寂が流れている。
ラナが包帯を巻きながらつぶやいた。
「本当にあの子、君の妹なのね」
「ええ……だけど、あんな目をしてた……」
ジェシーは窓の外を見た。
沈黙の惑星が、遠く小さな点になっていく。
あの中に、妹の心がまだ囚われている気がした。
アレクが静かに言った。
「君は泣かないのか」
「泣いたら、届かなくなる。まだ終わっていないから」
ジェシーの瞳には、強い光が宿っていた。
ラナがモニターを指した。
「目的地を変えるわ。次は“星雲の記録庫”。黒き方舟の情報を集めるには、そこしかない」
「わかった。行こう」
アレクが頷く。
〈カレリア号〉がゆっくりと進路を変える。
その光の尾が、まるで新しい希望のように星の海を駆け抜けた。
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第8章 星雲の記録庫
星雲の中心部に近づくにつれ、宇宙は静まり返っていった。
音も、風も、光さえもが薄くなり、まるで時の流れが止まったかのようだった。
〈カレリア号〉は、ゆっくりと銀色の星雲の海を進んでいた。
霧のような粒子が艦の表面にまとわりつき、時おり小さな光の火花を散らす。
「このあたりから重力波が乱れてる。普通の航行は危険よ」
ラナが操縦席の前で冷静に言った。
「星雲の中に“記録庫”があるの?」
ジェシーが窓の外を見つめながら尋ねる。
「ええ。星雲コアを直接観測できる唯一の観測施設――古代の知識を保存する場所。
けど、千年前に黒き方舟がそれを封印した」
「封印……どうして?」
ラナの目が細くなる。
「星の記憶を、人が使おうとしたからよ。永遠の命を求めてね」
その言葉に、ジェシーの心がかすかに揺れた。
(永遠……ヘルヴァイン博士も、それを言っていた……)
数時間後、星雲の霧の中から巨大な影が現れた。
それは球体のような構造物で、古代の金属でできていた。
表面には光る線が網の目のように走り、中心に青白い光が脈打っている。
「……これが“記録庫”」
アレクが息をのんだ。
「星そのものみたいだ……」
「中枢制御は死んでるはず。でも、君の力なら――」
ラナがジェシーを見た。
「触れてみなさい」
ジェシーはゆっくりと艦を降り、空間通路を歩いた。
目の前にそびえる扉は、まるで意思を持つように彼女を見つめている。
手を伸ばすと、紋章が光り、金属の壁が波打った。
低い音とともに、扉がゆっくりと開く。
中は、青い光に満たされた巨大な空洞だった。
天井まで届く無数の光の柱が、空間を埋め尽くしている。
それぞれの柱の中に、星々の映像が浮かび、過去の出来事が流れていた。
「これは……記録?」
ジェシーの声が小さく響く。
「星雲に生まれ、滅びた文明のすべて。
ここは、宇宙の“記憶”そのものよ」
ラナの声が静かに震えていた。
*
三人は奥へと進んだ。
中央には、一際大きな光の柱が立っていた。
その中に、白衣の男の姿が映し出される。
『――我が名はヘルヴァイン。かつてロリンダの科学者であり、神を創る者。』
声が空気を震わせる。
『星雲のコアは生命の源だ。それを制御できれば、人は死を超えられる。
私はそれを“永遠機構エターナル・システム”と名づけた。』
「やっぱり……」
ラナの拳が震えた。
「こいつが、私たちを実験に使った張本人」
「実験……?」
アレクが問う。
「黒き方舟は、“星の意識”を人の肉体に移そうとした。
魂をデータ化し、器として保存する……それが永遠機構の実態よ」
ジェシーは唇を震わせた。
「じゃあ、私は……」
「おそらく、その成功例。星雲の心が宿った“生きた記憶媒体”」
ラナの声が冷たく響いた。
ジェシーの頭の中で、断片的な映像が流れた。
暗い実験室。母の悲鳴。
白衣の男――ヘルヴァインが微笑みながら言う。
“この子が、星の鍵だ”
「やめて……!」
ジェシーは頭を抱え、叫んだ。
光の柱が激しく揺れ、空間が震える。
「ジェシー、落ち着け!」
アレクが彼女を抱きとめた。
その瞬間、光の粒がふたりの間に流れ込み、記憶が重なる。
ロリンダ星の夜。
炎に包まれる家。
母が叫び、リナが泣いている。
誰かの手がジェシーを引きずっていく――黒い紋章の男。
その顔が、今のヘルヴァインと重なった。
「……あの人が……すべての始まり……!」
ジェシーの瞳が、怒りと悲しみで震える。
『星雲は再び目覚める。巫女よ、そなたの光は我が方舟のためにある』
ヘルヴァインの幻影が、ゆっくりと消えた。
*
静寂が戻った。
だが、ジェシーの中では嵐が吹き荒れていた。
ラナは肩に手を置いた。
「……ごめん。私もあの人に創られた。
あなたと同じ“試験体”だった」
「ラナさん……」
「私は逃げた。でも、あのとき仲間の何人かは捕まった。
もしかしたら、あの妹――リナも、その一人だったかもしれない」
ジェシーの手が震えた。
「黒き方舟は、まだ彼女を……!」
「そうよ。そして奴らの最終目的は“星雲の心臓”の奪取」
アレクが言った。
「それを止めるには、君が星の声を導くしかない」
ジェシーはゆっくりとうなずいた。
「星がわたしを呼んでいる。
きっと、この先に“心臓”がある」
その瞬間、記録庫全体が震えた。
警報が鳴り、壁の光が赤に変わる。
ラナが叫ぶ。
「敵だ! 方舟の艦がこの座標を補足した!」
「急げ、戻るぞ!」
アレクが先頭に立つ。
三人は光の柱を駆け抜け、再び外の空間へと飛び出した。
外では、黒い艦隊が空を覆っていた。
〈カレリア号〉が再び光をまとう。
ラナが操縦席に滑り込み、スラスターを最大出力にする。
「捕まる前に脱出するわよ!」
ジェシーはシートに体を縛りつけ、遠ざかる記録庫を見つめた。
青白い光の球体が、ゆっくりと星雲の霧に消えていく。
(必ず戻る……あそこには、まだ答えがある)
そう心の中で誓いながら、彼女は静かに目を閉じた。
________________________________________
第9章 王子の決断
〈カレリア号〉の航行が安定したのは、追撃を振り切ってから三時間後だった。
外の星雲は遠ざかり、黒い宇宙の闇が戻ってくる。
ラナが計器を見ながら低く言った。
「……よし、方舟のセンサー範囲を抜けたわ」
その声に、ジェシーは小さく息を吐いた。
「よかった……」
しかし、アレクの表情は晴れなかった。
彼はブリッジの隅で黙ったまま、窓の外の闇を見つめていた。
ラナがちらりと彼を見る。
「王子、ずっと黙ってるけど、何か考えてるの?」
「……ああ」
アレクはゆっくりと立ち上がる。
「このままではスミノフ王国が滅びる。黒き方舟の影は、すでに王国全体を覆っている」
ジェシーが不安げに彼を見た。
「帰るつもりなの?」
「そうだ。王としてではなく、一人の人間として、兄と向き合わなければならない」
「兄上……カイロス王子に?」
「兄は、方舟と手を組んでいる。王位を継ぐためだけじゃない――“永遠機構”に魅入られているんだ」
ラナが腕を組んだ。
「それ、自殺行為ね。向こうは黒き方舟の技術を使ってる。
普通の兵なんて太刀打ちできない」
「わかってる。でも放っておけば、国だけでなく星雲全体が飲み込まれる」
ジェシーが静かに口を開いた。
「……私も行く」
「だめだ、ジェシー」
アレクの声が鋭く響いた。
「君は星の鍵なんだ。奴らの狙いは君だ。王国に戻れば、また危険な目に遭う」
「でも、私のせいで多くの人が……。方舟を止められるのは、わたしの中にある“光”だけなの」
二人の視線がぶつかる。
ラナは深く息を吐いた。
「どっちも間違ってないわね。……仕方ない、私は船を修理する。行くなら王子一人で」
アレクは黙った。
長い沈黙のあと、彼は静かに言った。
「……君たちは“星雲の心臓”を探せ。俺が王国を取り戻す」
「アレク!」
「大丈夫だ。必ず戻る。君たちの旅が終わるころ、俺も答えを見つけてみせる」
ジェシーは唇をかみしめ、何か言いかけたが、言葉にならなかった。
その代わり、そっと彼の手を取った。
「……約束して。必ず帰ってくるって」
アレクは微笑んだ。
「約束する。君の見た“星の夜明け”を、俺もこの目で見たい」
*
翌朝、スミノフ星系の宙域。
アレクを乗せた小型艇が、〈カレリア号〉から分離した。
ラナが通信を繋ぎながら言う。
「戻るなら、北方軌道から侵入するのがいい。中央港はすでに方舟の監視下よ」
「助言に感謝する、ラナ。……君のような人に出会えて良かった」
「褒め言葉は帰ってきてから受け取るわ」
通信が途切れる。
ジェシーは窓際に立ち、彼の乗る艇が星の闇に消えていくのを見つめた。
言葉にはしない。けれど、胸の奥に確かな痛みがあった。
(行かないで……)
そう願っても、アレクの決意は変わらない。
彼が守ろうとするものを、ジェシーも理解していた。
*
一方そのころ、スミノフ王国――。
空を覆う黒い雲の下、王都は以前の輝きを失っていた。
街の中央にそびえる王城の尖塔には、黒き方舟の旗が掲げられている。
その玉座に座るのは、第一王子カイロス。
瞳は紅く輝き、背後の装置から黒い光が脈打っていた。
「……アレク。弟よ、まだ生きていたか」
カイロスの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「やはりお前も、この“永遠”を求めて戻ってくるだろう」
部屋の奥から、黒衣の科学者が進み出た。
皺だらけの顔、銀の義眼――ドクター・ヘルヴァイン。
「殿下、星雲の巫女ジェシーはまだ生きています。
彼女を“心臓”の起動核として取り込めば、永遠機構は完成します」
「ならば急げ。弟もその実験に使える。
スミノフの血が方舟の力を継ぐ――それもまた運命だ」
その声は、冷たく、狂気を帯びていた。
*
――再び宇宙。
〈カレリア号〉の船内。
ジェシーは机に広げた星図を見つめていた。
ラナがコーヒーを片手に寄ってくる。
「気にしても仕方ないわよ。男って、戦うことに理由をつけたがる生き物なんだから」
ジェシーは苦笑した。
「それでも……彼がいないと、心が静かにならない」
「ふふ、ずいぶん素直になったじゃない」
ジェシーはラナの方を見て微笑んだ。
「星の声が言ってる。“心を失うと、光は届かない”って」
「詩的ね。……でも、嫌いじゃないわ」
ラナは窓の外を見た。
星々が流れ、遠くの光が瞬いている。
「次は“心臓”を探す。星雲の中心――“虚無の領域”よ」
ジェシーはうなずいた。
「そこにすべての答えがある……そして、リナも」
ラナが軽く笑い、操縦桿を握った。
「なら行こう。星雲の果てへ」
〈カレリア号〉が推進を上げ、光の海を突き抜ける。
その先には、闇よりも深い光の領域――。
一方その頃、スミノフ星の地表では、
王宮の地下で赤黒い装置が起動し始めていた。
ドクター・ヘルヴァインの声が低く響く。
「“永遠機構”、起動準備開始――星雲の心臓を、我らのものに」
そして、星の中心が微かに震えた。
________________________________________
第10章 黒き方舟
――虚無の領域。
そこは光も時間も溶けて消える、星雲の最深部だった。
漆黒の霧が蠢き、空間そのものが脈を打つように波打っている。
〈カレリア号〉は、慎重にその闇の中へと進んでいた。
「重力波が狂ってる。航行データが全部乱れてるわ」
ラナが眉をひそめた。
「方舟の防壁ね。外部からの侵入を拒んでる」
「……あれを見て」
ジェシーが窓を指さした。
遠く、暗黒の中に巨大な影が浮かんでいた。
黒き方舟――。
その姿はまるで惑星そのもののように巨大で、中心には光を吸い込む深い穴があった。
艦体の表面には無数の紋章が脈動し、まるで生きているように光を放っている。
「これが……あの艦の本体……!」
アレクの言葉が通信越しに響く。
彼は地上で王宮を制圧し、脱出艇から通信を送っていた。
「俺のほうも時間がない。国の地下から“機構”の動力が起動している。黒き方舟が星の心臓と同調しているんだ!」
「永遠機構が……!」
ジェシーの胸が締めつけられた。
「止めなきゃ。星の心が、壊される前に」
ラナがスラスターを最大出力に上げた。
「突入するわよ。もう戻れない」
「構わない。進もう」
ジェシーは頷いた。
艦が加速し、漆黒の渦の中へと飛び込む。
*
衝撃のあと、静寂が訪れた。
気づくと、彼女たちは巨大な内部空間にいた。
それは艦の中というより、まるで異次元の神殿。
無数の柱が闇の中に立ち、天井のような空に星々の残光が浮かんでいる。
「ここが……方舟の中?」
「そう。永遠機構の心臓部――“方舟の核コア”」
ラナの声が低く響いた。
その中央に、白い影が立っていた。
長い髪、白い装甲、そして悲しい瞳。
――リナだった。
「……姉さま」
リナの声は、どこか遠い世界から響くようだった。
「もう来ないで。あなたはここで終わるの」
「リナ、目を覚まして!」
「覚めてるわ。私はもう“人間”じゃない。永遠機構の守護者――“白の鍵ホワイトコード”」
ジェシーの心が悲鳴をあげた。
「違う! あなたは私の妹よ!」
「……それでも、方舟は私を必要としてる。母の血を継ぐ、星のもう半分として」
「半分……?」
その瞬間、天井から光が降りた。
闇の中に人影が現れる。
白い髪、機械のような義眼。
――ドクター・ヘルヴァイン。
「やはり来たか、星雲の巫女ジェシー。
そなたの光が、永遠の扉を開く」
「あなたが……すべてを……!」
「そうだ。私は死を拒み、魂を保存する術を得た。
人の限界を超える“永遠”こそ、宇宙の真理だ」
「それで人の心を捨てたのね!」
「心など、有限な器の幻想だ。星の巫女よ、そなたは選ばれし“器”だ。
その魂を開放し、星雲の心臓と同化せよ!」
ヘルヴァインが手をかざすと、床の紋章が赤く光りだした。
空間全体が震え、ジェシーの体が動かなくなる。
「くっ……!」
光の鎖が彼女の手足を縛りつける。
「やめろ!」
ラナが銃を構え、ヘルヴァインに発砲した。
だが、弾丸は空中で止まり、霧のように消えた。
「無駄だ。私はすでに“形ある存在”ではない。
私の意識は方舟と共にある」
「ふざけるな!」
ラナが叫び、アレクの声が通信から響いた。
「ジェシー! 俺が地上からエネルギーラインを切断する! その間に奴を止めろ!」
「王子、危険よ!」
「構うものか! お前たちを信じる!」
*
ジェシーの目に涙がにじむ。
彼女はリナを見つめ、声を振り絞った。
「リナ……お願い。私の手を取って!」
「できない。私はもう、方舟の一部なの」
「じゃあ……わたしも一緒に堕ちる!」
「姉さま……!」
ジェシーの腕の紋章が輝きだした。
まぶしい光が空間を包み、二人の間に流れる何かが変わっていく。
リナの胸の紋章も反応し、ふたつの光が共鳴を始めた。
――星雲の心臓が共鳴している。
天井から巨大な光の柱が降り、方舟全体が震えた。
ヘルヴァインの声が響く。
「やめろ! まだ完成していない!」
「あなたが奪ったものを……返してもらう!」
ジェシーの体から光が溢れ出した。
空間を満たしていた闇が、少しずつ薄れていく。
リナが泣きながら手を伸ばした。
「姉さま……痛い……わたし……」
「大丈夫。もう一人じゃない」
二人の光がひとつに溶け合う。
方舟の中心が爆ぜるように輝き、金属の悲鳴が宇宙に響いた。
*
その瞬間、アレクの艇が地上のエネルギー中枢を破壊した。
星の表面に光の輪が広がり、黒き方舟の艦隊が一斉に崩壊を始める。
ヘルヴァインの声が消え、空間が音もなく崩れ落ちていった。
「ジェシー、戻ってこい!」
アレクの叫びが通信越しに響く。
だが、ジェシーの姿は光の中に包まれていた。
リナと共に、星の中心へと沈んでいく。
「姉さま……」
「もう一度、生まれ変わろう。星と共に――」
やがて光が爆発的に広がり、方舟は完全に崩壊した。
*
数時間後。
ラナの操縦する〈カレリア号〉が、静かな星雲の海を漂っていた。
爆発の衝撃はすでに止み、ただ光の粒が宇宙に舞っている。
通信機がかすかに反応した。
「……こちらスミノフ宙軍。アレク王子、応答願います」
ラナが小さく息を吐く。
「生きてたのね、王子」
『ジェシーは……?』
ラナは黙って窓の外を見た。
そこには、淡い光の帯――まるで流星のように、星雲を横切る銀の輝きがあった。
「星になったのよ。彼女も、妹も」
その声は震えていた。
『……そうか』
アレクの声が静かに消えた。
ラナは操縦桿を握り直した。
「でも、彼女の光はまだここにある。星雲は、今も生きてる」
その瞬間、窓の外の光が一際強く輝いた。
それはまるで、誰かが“ありがとう”と微笑んでいるようだった。
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終章 風の記憶
――風が吹いていた。
それは、あのロリンダの丘で感じた、やさしい春の風に似ていた。
焦げた金属の匂いも、戦いの音も、もうどこにもない。
ただ、穏やかな星の息吹が漂っていた。
黒き方舟の崩壊から、三ヶ月が経った。
スミノフ星雲は静かに再生を始めていた。
かつて焦土と化した王都には花が咲き、
夜空には、淡い銀の帯――“星の風”が流れている。
*
アレクは王宮のバルコニーに立っていた。
朝の光が石の床を照らし、遠くの湖がゆらめく。
風が吹き抜け、銀のマントが揺れた。
背後から、ラナが歩み寄る。
「ようやく王の顔になったわね」
「からかわないでくれ」
アレクは苦笑した。
目の下には疲れが見える。だが、その表情には確かな覚悟があった。
「国の再建は順調?」
「ようやく、ね。黒き方舟の技術を完全に封印し、星雲のエネルギーを自然回帰させる計画を進めている」
「ヘルヴァインの残した研究データは?」
「すべて焼却した。彼の“永遠”は、二度と誰も触れてはならない」
ラナは腕を組み、空を見上げた。
「でも皮肉ね。あの狂った博士が求めた永遠は、結局ジェシーが形を変えて手に入れた」
「……ああ。彼女はもう、星雲そのものになった」
アレクはそっと目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、あの夜の光――ジェシーが最後に残した笑顔。
“星の声が聞こえる”
彼女はそう言って、光の中に消えた。
そしていま、夜空に流れる風がその声を運んでくる気がした。
*
ラナは腰のホルスターを外し、机の上に置いた。
「私はしばらく旅に出るわ。方舟の残党が他の宙域に散ってる。放っておけない」
「……一人で行くのか?」
「もう慣れっこよ。
でも次は、戦いじゃなくて“探す”旅。
星雲の外に、まだ眠っている巫女の欠片がある気がするの」
アレクは小さくうなずいた。
「君らしいな」
「あなたは?」
「俺はこの星を守る。それが、彼女と交わした約束だから」
ふたりの間に、静かな風が通り抜けた。
ラナは肩越しに微笑む。
「……ジェシー、あなたの王子は立派になったわよ」
そうつぶやき、ラナは歩き出した。
*
夜。
王都の外れにある丘。
草原の上で、アレクはひとり空を見上げていた。
風が吹き、星が流れる。
その中に、ひときわ美しく輝く光があった。
それはまるで、人の形をした流星のようだった。
「……ジェシー」
アレクは小さく呼びかける。
その瞬間、風が彼の頬を撫でた。
声が聞こえた。
――アレク、ありがとう。
――あなたがいたから、私は恐れなかった。
アレクの瞳に涙が浮かぶ。
「俺のほうこそ……ありがとう。
君がいたから、俺は人を信じることを学べた」
空に光が流れた。
ジェシーの声が、風と共にささやく。
――いつかまた会える。星の海の向こうで。
――そのときは、もう一度、笑って。
風が止み、夜が深くなった。
だがアレクの胸の中には、確かな温もりが残っていた。
*
そして――
遠い星雲の彼方、光の粒が集まり、新たな星が生まれた。
その星の名は、「ロリンダ」。
失われた故郷の名を継ぐように、静かに輝いていた。
星雲の風が流れる。
その中に、優しい声が響いた。
――私はここにいる。
――風と共に。光と共に。
――生き続ける、この星とともに。
ジェシーの記憶は、永遠に風の中で輝き続けた。
________________________________________
エピローグ
数年後――。
辺境宙域の交易都市。
カフェのテラスで、旅人たちが噂をしていた。
「なぁ、聞いたか? “星雲の守護者”の話」
「またその伝説か? 星の声を聞く巫女のやつだろ?」
「違う違う、今度の話は本当だ。
銀の髪の女が、戦争の廃墟で子供たちを救ったんだと」
「まさか……そんなこと、あり得るかよ」
店の奥の席で、ラナが静かに微笑んだ。
テーブルの上の通信機には、スミノフ星からの新しいメッセージ。
――「星雲、安定。風、穏やか」
ラナはカップを置き、窓の外を見上げた。
星々が穏やかに瞬いている。
「……やれやれ、あんたはどこまで伝説になるつもりなの、ジェシー」
彼女の呟きに、風がやさしく答えたように吹いた。 (完)
星雲の王女ジェシー ―星の心に選ばれし巫女と、滅びの方舟を越えて― 近藤良英 @yoshide
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