理由のない注文

あまいこしあん

理由のない注文

地元の商店街を抜けた先にある、昔から変わらない食堂に入るのは、ずいぶん久しぶりだった。

暖簾をくぐると、油と出汁の混じった匂いがふわりと鼻に届く。


「懐かしいわねえ、ここ」

お母さんが少し嬉しそうに言う。


「うん……前に来たの、いつだろ」

僕はそう答えながら、壁に貼られた色あせたメニューを眺めた。


席に腰を下ろして、改めてメニューを見る。

正直に言えば、値段は思っていたより少し高めだった。


「最近はどこも高いわね」

お母さんがため息まじりに言う。


「だね……」

そう返しつつ、僕の視線は自然と「もつ煮定食」に吸い寄せられていた。


大好物、というほどでもない。

子どもの頃から、特別な思い出がある料理でもない。

それなのに、メニューにあれば、なぜか必ず頼んでしまう。

自分でも理由はよく分からない、不思議な料理だ。


「僕、もつ煮定食にする」

そう言うと、お母さんは少し驚いたように僕を見る。


「相変わらずね。あんた、昔からそれ頼むわよね」

「そうだったっけ」

「そうよ。覚えてないのは、あんただけ」


注文を済ませ、しばらく待つ。

店内には常連らしき人たちの低い話し声と、厨房から聞こえる鍋の音が響いていた。


運ばれてきたもつ煮定食は、思った以上にしっかりした量だった。

湯気の立つ器から、濃い味噌の香りが立ちのぼる。


一口、箸を伸ばす。

口に入れた瞬間、柔らかく煮込まれたもつと、染み込んだ味が広がった。


「……あ、うまい」

思わず声が漏れる。


「でしょ」

お母さんは、自分が作ったわけでもないのに、どこか誇らしげだ。


味は濃すぎず、薄すぎず。

量もちょうどいい……いや、むしろ満足以上だ。

さっき「高めだな」と思った値段のことは、もう頭から消えていた。


「こういうの、家じゃなかなか作らないものね」

お母さんがぽつりと言う。


「うん。だから頼んじゃうのかも」

僕はそう答えながら、ご飯をかき込んだ。


静かに食べ進める時間は、思ったより居心地がよかった。

特別な会話はない。

けれど、この食堂の空気と、向かいに座るお母さんの存在が、不思議と胸を落ち着かせてくれる。


食べ終わる頃には、腹も心も、しっかり満たされていた。


「また来ようか」

お母さんが言う。


「……うん、たまにはね」

僕はそう答えながら、もう一度、空になったもつ煮の器を見た。


大好物じゃない。

それでも、きっと次に来ても、僕はまた同じものを頼むのだろう。

理由は分からないまま、それでいい気がしていた。

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理由のない注文 あまいこしあん @amai_koshian

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