ピンクシュガー
植田伊織
ピンクシュガー
アスファルトが濡れる、むせるあがるようなにおいと、トタタタ、と、窓を叩く雨粒の音を聞いて、ボクは、記憶の底に沈めたはずの嫌な思い出が浮かび上がってこないように、ホットミルクを入れる。
震える指先でミルクパンに牛乳をみたし、蛍火でゆっくりと温めた。
お気に入りのマグカップ(実は師匠と同じやつを隠れて買ったのだ!)を用意して、パーカーをたくし上げ、ドレッサーに無造作に置いてあったピンクシュガーの香水をお腹に吹きかける。
ミルクパンがコトコトと音を立てて、甘い香りがたつのと同時に、母さんが作ってくれたホットミルクを思い出した。
隠し味は、なんだっけ。
聞きそびれたまま、みんな、洪水に流れていってしまった。
きっと砂糖に秘密があるに違いないって、何の根拠もなく信じ続けたボクの目に留まったのが、円柱形でリボンラッピングされたようなデザインのボトル、
「ピンクシュガー」の香水だった。
娼館で、そんな子供っぽい香りと馬鹿にされても。客用に開発されるのが死ぬほど嫌で、奴を消したあの日も。
ボクにはまだ、母さんのホットミルクを飲む資格があると、信じたくて……
――手放せなかった香り。
コンコン、と、遠慮がちなノックの音が雨音を遮った。
「エメ、休憩中すまない。この書類なんだが――」
師匠が途中で言葉を紡ぐ。
頬に伝う冷たい感触が、その理由だとはわかっていた。
「あれ、師匠、香水、変えました…?」
師匠の柑橘混じりの上品な香水と、甘い甘いミルクの香り。
その、どちらとも違う、カラメルの刃をもつボクのピンクシュガーについて、言葉に出せる日が来ればいいのにと思う。
同時に、その、庶民が触れては行けない香りがよく似合う、傲慢不遜な美しい顔を、歪めてしまうボクという異分子についても、認めてくれる日が来るといいな。
ピンクシュガー 植田伊織 @Iori_Ueta
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