『初恋の解像度 ―37.2℃の心象風景―』
草薙アキラ
第1期 『初恋の解像度 ―37.2℃の心象風景―』
第1話:感情のデバッグ ――論理(ロジック)と、想定外のノイズ
1.完璧なプログラム
僕、佐々木ハルの頭の中は、常にソースコードで構成されている。
• IF(もし):宿題を忘れたら、先生に怒られる。
• THEN(ならば):休み時間を削って提出物を終わらせる。
• ELSE(さもなくば):放課後の部活動に行けなくなる。
世の中の事象はすべてこの条件分岐で説明がつく。そう信じていた。
小学校6年生の秋、ロボット研究部の部長を務める僕にとって、世界で最も信頼できるのは「論理(ロジック)」だった。
放課後の理科室。僕が自作の二足歩行ロボットの姿勢制御プログラムを調整していると、ガラリとドアが開いた。
「ハルくん! 見て見て、これ。デコってみた!」
入ってきたのは、同じ部の唯一の女子、秋山アキだ。彼女は僕が徹夜で組み上げたロボットの銀色の頭部に、勝手に「キラキラのストーン」を貼り付けていた。
「……アキ、何度も言っただろ。重量バランスが変わる。0.5グラムの差が、センサーの誤差を生むんだ」
「えー、でもこの方が可愛いじゃん。ロボットだって、おしゃれしたいはずだよ?」
アキは僕の論理を、いつも「直感」という名のハンマーで粉砕してくる。彼女のノートは、数式よりも落書きの方が多い。僕とは正反対の、「想定外のノイズ」のような存在だ。
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2.37.2℃の異常値
その日の夕暮れ。理科室の窓から差し込むオレンジ色の光が、アキの横顔を照らしていた。
彼女がピンセットで、ロボットの関節に詰まった小さな埃を取っている。
「……あ」
ふと、アキが僕の手元を覗き込んできた。
その距離、わずか15センチ。
彼女の髪から、微かに洗剤のような、あるいは陽だまりのような匂いがした。
その瞬間、僕の脳内CPUにエラーメッセージが点滅した。
Warning: Heart rate exceeds threshold.
Error: Logical processing suspended.
心臓が、設計ミスかと思うほど激しく鼓動を打つ。
「ハルくん、顔赤いよ? 風邪?」
アキが僕のおでこに、自分の手をそっと当てた。
ひんやりとした掌。けれど、そこから伝わる体温は、僕の平熱よりわずかに高い気がした。
「……37.2℃くらい、あるかも」
僕は裏返った声で答えた。
「大丈夫? 今日はもう帰りなよ」
アキは心配そうに眉を下げた。その瞳に映っている僕の顔は、プログラムでは制御できないほど情けなく歪んでいた。
これが、僕の人生で初めて経験した「システム・ハング(思考停止)」だった。
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3.スクラップ・アンド・ビルド
それから一週間、僕はアキとまともに目を合わせられなくなった。
学校の廊下ですれ違うたびに、歩行プログラムがバグを起こしたみたいに足がもつれる。
そんな僕に、クラスの調子乗り、タクミがニヤニヤしながら近づいてきた。
「おーいハル。お前、アキのこと好きなんだろ? バレバレだぜ」
周囲の数人がクスクスと笑う。
「……好きとか、そういう非論理的な概念じゃない。ただの自律神経の乱れだ」
僕は精一杯の防御プログラムを起動したが、タクミはさらに追い討ちをかけた。
「アキってさ、勉強もできないし、いつも変なシール貼ってるし、ちょっと浮いてるよな。ハルみたいな秀才にはもっとマシな奴がいんじゃね?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で「怒り」という名の想定外のパッチが適用された。
「……取り消せよ」
僕はタクミを睨みつけた。
「アキは、僕が持っていない視点を持っている。彼女が貼るシールの一つひとつには、世界を彩ろうとする意志がある。誰かの価値を『マシ』とか『マシじゃない』とかで決めるのは、論理的にも人道的にも最低だ」
静まり返る廊下。
タクミは「冗談だよ……」と引きつった笑いを浮かべて去っていった。
僕は自分の指が震えているのに気づいた。誰かの尊厳を守るために声を上げる。そんなコード、僕の辞書には書いてなかったはずなのに。
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4.デバッグの終わり、はじまりの色
放課後。理科室に行くと、アキが一人でロボットを動かしていた。
ストーンでデコられた僕のロボットは、ガシャン、ガシャンと不器用ながらも、しっかりと前へ進んでいた。
「……アキ」
「あ、ハルくん。見て! 重心、自分で調整してみたよ。シールの重さ分、反対側にワッシャーを噛ませてみたの」
彼女は誇らしげに、改造したパーツを見せてくれた。
それは決して「完璧な美しさ」ではなかったけれど、そこには「僕の論理」と「彼女の感性」が混ざり合った、新しい形があった。
「ごめん。僕、君のことをノイズだと思ってた」
僕はロボットの隣に座り、アキの目を見て言った。
「でも、ノイズがない世界には、新しい発見も、ワクワクも、何もないんだ」
アキは一瞬きょとんとして、それからパッと花が咲くような笑顔を見せた。
「何それ、ハルくんらしいね。難しいことはわかんないけど……一緒に作ってて楽しいのは、本当だよ」
窓の外には、紺碧の夜が迫っていた。
理科室の古い時計がカチカチと音を刻む。
僕の恋は、まだ「解」が出ていない難問だ。
いつか、このドキドキを完璧に説明できる数式が見つかるかもしれないし、一生見つからないかもしれない。
でも、割り切れない余り(感情)があるからこそ、人間は面白いのだと、今は思う。
僕はパソコンを閉じた。
今日はもう、プログラムはいらない。
アキがカバンにつけている、少し汚れたぬいぐるみの手ざわりや、笑った時にできる目尻のシワ。
そんな、数値化できない宝物を、ひとつずつ丁寧に記憶に書き込んでいく。
「……帰ろう、アキ」
「うん!」
二人の足音が、静かな廊下に響く。
それは、僕の人生で最も美しい、不規則なリズム(ノイズ)だった。
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第2話:不協和音のラブレター ――楽譜どおりの毎日と、僕の歌声
1.完璧な伴奏者
私、白鳥しおりの毎日は、真っ白な五線譜の上に決められた音符を並べる作業に似ている。放課後の音楽室。合唱コンクールの練習で、私はピアノの前に座る。担任の先生がタクトを振れば、私の指は迷いなく鍵盤を叩く。
私の役割は「伴奏者」だ。主役である合唱を引き立て、テンポを乱さず、正確なリズムを刻むこと。
家では、ピアノ講師である母が目を光らせている。
「しおり、そこはフォルテじゃないわ。もっと抑制して。あなたは目立たなくていいの」
母の言葉は、私の心を縛る透明な糸だ。
感情を込めすぎず、ミスをせず、期待された通りの音を出す。それが、私のプライドであり、同時に息苦しさの正体だった。
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2.はみ出した音
「……ちょっと、佐藤くん! また音程がズレてるわよ!」
指揮をしていた合唱委員の女子が声を荒らげた。
列の後ろでバツが悪そうに頭をかいているのは、佐藤健太(ケンタ)だ。
彼はサッカー部員で、声が無駄にデカい。しかも、お世辞にも歌がうまいとは言えない「はみ出し者」だった。
「悪い、悪い。つい熱が入っちゃってさ」「熱なんていらないの。全体の和音を壊さないでって言ってるでしょ?」
冷ややかな視線がケンタに突き刺さる。彼は「へへっ」と笑って誤魔化したけれど、その瞳には少しだけ寂しそうな色が混じっていた。
私は鍵盤を見つめたまま、心の中で呟く。
(佐藤くん、どうしてそんなに一生懸命歌うの? どうせ『不協和音』だって言われるだけなのに)
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3.放課後の告白
練習後、忘れ物を取りに音楽室に戻ると、ピアノの音が聞こえてきた。
たどたどしい、人差し指一本だけのメロディ。
ドアの隙間から覗くと、ケンタが一人でピアノに向かっていた。
「ド……ミ……ソ……。よし、今の合ってたな」
彼は必死に、自分のパートの音を確認していた。
「佐藤くん」
声をかけると、彼は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。
「わっ、白鳥さん! いや、これはその……練習っていうか」「……音、ズレてないよ。今は完璧だった」
私がそう言うと、ケンタは照れくさそうに鼻の下をこすった。
「俺さ、みんなみたいに器用に歌えねーんだ。でも、この曲、好きなんだよ。『明日を信じる』って歌詞。なんか、本当のこと言ってる気がして」
彼は真っ直ぐな目で私を見た。
「白鳥さんのピアノ、すげー綺麗だけどさ。たまに、ピアノが泣いてるみたいに聞こえる時があるんだ。……無理してねーか?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
完璧だと言われ続けてきた私の演奏を、「泣いている」と言ったのは彼が初めてだった。
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4.楽譜にない一音
コンクール当日。舞台袖で、私は震える指先を隠すようにドレスの裾を握りしめていた。
緊張ではない。私の心は、母が客席でノートを広げているという事実に、窒息しそうになっていた。
合唱が始まった。
私の指は、いつものように機械的に動く。
けれど、二番のサビに差し掛かった時、指揮者の手が微かに震えた。
ソプラノの女の子が、緊張で声を詰まらせてしまったのだ。
一瞬の空白。舞台の上に、冷たい沈黙が流れかける。
その時。
「――明日を、信じて!!」
一歩前へ出るような、野太い声がホールに響き渡った。
ケンタだった。
音程は少し、いや、かなり外れていたかもしれない。
でも、その声には、誰にも負けない「命の体温」が宿っていた。
(……守らなきゃ)
その瞬間、私の中の「伴奏者」というコードが書き換えられた。
私は楽譜に書いていない、力強い和音を叩きつけた。
ケンタの声を支えるために。彼の勇気を、孤立させないために母の顔が脳裏をよぎった。けれど、もう怖くなかった。
私は「佐藤くん」という不協和音と一緒に、今、最高に熱い音楽を作っている。
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5.解像度の変わった世界
結果は入賞なし。
コンクールが終わった後の校庭で、母は冷たく言った。
「しおり、あんな乱暴なピアノを弾くなんて。あなたはもう、伴奏者失格よ」
私は母の目を見て、静かに微笑んだ。
「そうかもしれないね。でも私、今日の自分の音が、一番好きだったよ」
母は絶句し、背を向けて去っていった。
そこに、ケンタが走り寄ってくる。
「白鳥さーん! 悪りぃ、俺のせいで……でも、あん時のピアノ、マジでヒーローみたいだった!」「佐藤くんのおかげだよ。……ありがとね、私のピアノを聴いてくれて」
彼の隣に立つと、また37.2℃くらいの微熱が頬に灯る。
この熱は、きっと一生、私の「伴奏者ではない自分」を照らし続けてくれる。
空を見上げると、雲の隙間から西日が差し込み、校庭を銀色に染めていた。
世界は、楽譜のように白黒じゃない。
不器用な声、ズレたリズム、そして、誰かのために震える心。
そんな「不協和音」があるからこそ、この世界はこんなにも、鮮やかで愛おしい。
「しおり! 喉乾いたな、自販機行こうぜ!」
「うん、いいよ。ケンタくん」
私は初めて、彼の名前を呼んだ。
新しいメロディが、静かに動き始めていた。
第3話:放課後のデッサン ――鉛筆の粉と、届かない背丈
1.境界線としての教壇
僕、高橋タクミにとって、学校の美術室は「聖域」だった。
正確には、教育実習生の水城(みずき)先生がやってきてからの3週間、そこは世界で一番居心地が良くて、一番残酷な場所になった。
水城先生は、大学で油絵を専攻しているという21歳。
教壇に立つ彼女は、僕たち中学生とは明らかに違う「大人の空気」を纏っていた。
少しだけコーヒーの匂いがする指先、控えめに揺れるピアスの銀色。
彼女が笑うたび、僕の心臓はメンタルケアアプリ『パレット』のインジケーターが振り切れるほどの異常数値を叩き出す1
「タクミくん、ここの影、もっと深みを出せるよ」
放課後の居残りデッサン。
先生が僕の背後に立ち、僕の右手に自分の手を重ねた。
鉛筆の芯が画用紙を擦る。
重なり合う手の温度。
僕の平熱は36.5℃のはずなのに、彼女の手に触れている部分だけが、まるで熱を出したときのように、じわりと37.2℃まで上昇していくのを感じた。
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2.「大人」という名の毒
「ねえ、タクミ。お前、水城先生のことガチで好きなの?」
掃除の時間、悪友のシンジがニヤニヤしながら聞いてきた。
「……別に。教え方が上手いから尊敬してるだけだ」
「嘘つけ。先生が彼氏の話してるの、聞いたことないの? 大学の先輩と付き合ってるって噂だぜ。昨日も校門の前で、高級車に乗った男が迎えに来てたって」
シンジの言葉は、鋭い針のように僕の胸に刺さった。
「高級車」とか「大学の先輩」とか。
僕が持っているものは、泥だらけの通学カバンと、使い古したHBの鉛筆、そしてまだ声変わりが安定しない喉だけだ。
「先生にとって、俺らはただの『中学生』でしかないんだよ。動物園のサルを見てるのと同じさ。可愛いけど、恋愛対象じゃない」
シンジの吐き捨てた言葉は、冷たくて苦い「毒」だった。
そしてその毒は、僕自身の幼さをこれでもかと突きつけてくる。
僕はまだ、彼女と同じ目線で世界を見ることすらできない。
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3.雨の日の隠し事
実習最終日の前日、外は激しい雨だった。
忘れ物を取りに美術室へ向かうと、窓際に立つ水城先生の背中が見えた。
彼女はスマホを耳に当てて、誰かと話していた。
「……ううん。やっぱり、向いてないのかも。子供たちの真っ直ぐな目を見てると、自分がすごく空っぽに思えちゃうの。……ええ、わかってる。わかってるけど」
先生の声は震えていた。
いつも完璧で、キラキラしていると思っていた「大人」の彼女が、そこで泣いていた。
僕たちには見せない、弱くて、不完全な姿。
僕は声をかけることができなかった。
シンジの言った通りだ。
彼女が抱えている悩みは、僕には理解できない「大人の世界の重力」に支配されている。
僕が「大丈夫ですか?」なんて言ったところで、それはきっと、彼女を余計に疲れさせるだけだ。
僕は、手に持っていた折りたたみ傘を、ドアの前にそっと置いた。
自分の名前を書いたシールを、爪で剥がしてから。
それが、14歳の僕にできる、精一杯の「男」としての振る舞いだった。
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4.未完成のデッサン
最終日。教室は別れを惜しむ生徒たちの騒ぎで溢れていた。
色紙や花束。
水城先生は一人ひとりと握手をし、明るい笑顔で「頑張ってね」と声をかけていた。
僕の番が来た。
「タクミくん。デッサン、見違えるほど良くなったね。これ、お別れのプレゼント」
渡されたのは、彼女が僕のデッサンを修正するために使っていた、小さな練り消しゴムだった。
使い込まれて、少し黒ずんでいる。
でも、そこには確かに彼女の手ざわりが残っていた「……先生」
「ん?」
「僕、絶対に、大人になります。先生がびっくりするくらい、いい男になって、いつか先生の絵を買いに行きます」
精一杯の背伸び。
周りの連中が「何言ってんだよ!」と笑う。
けれど、水城先生は笑わなかった。
彼女は少しだけ目を見開き、それから今までで一番真剣な顔をして、僕の手をぎゅっと握り返した。
「待ってるね。タクミくん。……楽しみにしてる」
その時、僕の掌に残った感触は、もう「ジョリジョリ」した髭の痛みでもヌルヌル」した不快感でもなかった。それは、僕の未来を肯定してくれる、力強くて温かい「銀色の糸」のような繋がりだった。
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5.エピローグ
彼女が去った後の美術室。
僕は一人、真っ新な画用紙の前に座っていた。
窓の外には、夕日に照らされた校庭が広がっている。
そこには、重い荷物を背負って走る配達員や暮れの中を歩く赤いパーカーのおじいさんの姿があった世界は相変わらず、不器用で、ごちゃごちゃしていて、でも美しい手ざわりで満ちている。
僕は鉛筆を走らせた。
描くのは、彼女の顔じゃない。
いつか彼女に追いつくための、まだ誰も歩いていない「僕だけの轍」だ。
胸の奥にある37.2℃の微熱は、もう病気なんかじゃない。
それは、僕がこれから歩いていく未来を照らす、消えないスタートラインの光だった。
「タクミ! サッカー行こうぜ!」
「おう、今行く!」
僕は練り消しゴムをポケットにしまい、立ち上がった。
足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。
第4話:銀の栞(しおり) ――10年前の落書きと、図書室の亡霊
1.図書室の「忘れられた島」
僕、森永ソウマは、放課後の図書室にある「郷土資料・保存書庫」のエリアが好きだ。ここは生徒たちがめったに来ない、埃と静寂に包まれた「忘れられた島」のような場所だ。真新しい本のツルツルした表紙よりも、背表紙の色が褪せてタイトルも読み取れなくなった古い本のほうが、多くの「誰かの時間」を吸い込んでいる気がして落ち着く。
ある日、僕は棚の隅で一冊の古い本を見つけた『銀河鉄道の夜』。布張りの表紙は所々糸がほつれ、甘いような、少しカビ臭いような「時間の匂い」がした。ページをめくると「パリッ」と乾いた音が響く。指先で撫でるとザラザラしていて、指の水分が紙に吸い取られていくような不思議な感覚があった。
その巻末にある貸出カード袋に、一枚の紙のカードが残っていた。今はすべてバーコード管理だが、この本には昭和から平成にかけての名前が並んでいた。そして、一番下の行に書かれた名前に、僕の目は釘付けになった。
『2015.07.07 ハル』
日付はちょうど10年前。名前の横には、青いボールペンで小さな「ツバメ」の落書きがされていた。
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2.37.2℃の筆跡
その「ハル」という筆跡を見た瞬間、僕の指先に微かな熱が宿った。
外気は冷たいはずなのに、カードに触れている部分だけが、平熱より少し高い37.2℃まで上昇していくような錯覚に陥る。
「……何それ。古臭い本」
不意に声をかけられ、僕は飛び上がった。
入ってきたのは、同じ図書委員の結城ユイだ。彼女は僕とは正反対で、最新の流行りやSNSの「映え」を追いかける、この静寂な場所には似合わない「ノイズ」のような存在だった。
「貸出カード……? 誰、そのハルって。10年前の卒業生?」
ユイは僕の手からカードをひったくるようにして覗き込んだ。
「見て、この落書き。中学生のくせにヘタクソ。あ、でもこのツバメ、なんか寂しそう」
ユイはいつもの毒舌を吐きながらも、カードの裏側をめくった。そこには、さらに小さな文字でこう書かれていた。
『いつか、銀色の糸で繋がる場所へ』
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3.デジタルの壁とアナログの振動
「銀色の糸……何これ、ポエム?」
ユイはクスクス笑ったが、僕は笑えなかった。
僕たちは今、スマホの画面をスワイプすれば、何百人もの「友達」と繋がることができる。でも、その繋がりはガラスの向こう側にいる魚のように遠く、指先はいつも冷たいままだ。
10年前のこの「ハル」という人物は、誰にも見られない古い本のカードに、自分の震えを書き残した。
それはSNSのスタンプのような手軽なものではなく、銀色の刺繍糸を伝って届く糸電話の声のように、物理的な「振動」を伴って僕に届いている気がした。
「ねえ、探してみない? このハルさん」
ユイが唐突に言った。
「もうすぐ学校、廃校になるんでしょ。この図書室の本も、全部どこかの町に運ばれちゃうの前に、このメッセージの主が誰だったのか、知りたいじゃん」
僕は戸惑った。他人のプライバシーを暴くような真似は、論理的ではない。
でも、ユイの真っ直ぐな瞳を見て、僕の中の「37.2℃」がまた疼いた。
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4.過去へのプレゼン
僕たちは卒業アルバムや地域の資料を漁り、ついに「ハル」の正体を突き止めた。
彼女は10年前、家庭の事情で夜逃げ同然に転校していった女の子だった。村の大人たちは「あそこの家は借金があったから」と、冷淡な言葉を投げつける。
「……ひどいな。みんな、彼女がどんな思いでこの本を読んでいたかなんて、考えてないんだ」
僕は拳を握りしめた。
彼女が残した「銀色の糸」は、絶望の中で必死に手繰り寄せようとした、未来への唯一の命綱だったのかもしれない。
僕は、学校の「お別れ会」の展示として、この貸出カードと古い本を紹介するプレゼンを自ら志願した。
タクミのようにかっこいい「戦士の足音」は立てられないけれど、静かな図書室から彼女の尊厳を叫びたかった。
「このカードに残された名前は、ただの記録ではありません」
全校生徒の前で、僕は震える声で語った。
「10年前、ここで必死に生きていた一人の少女の『肉声』です。学校がなくなっても、誰かがこの感触を覚えている限り、彼女がいたことは消えません」
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5.エピローグ:夜明けの銀色
展示が終わった夕暮れ。
ユイが僕の隣に立って、銀色の月を見上げた。
「ソウマくん、今日のピアノ……じゃなかった、プレゼン、マジでヒーローみたいだった」
彼女は僕の肩をポンと叩いた。その手は温かく、少しだけ乾燥していた僕のスマホが震えた。
学校の公式SNSに届いた、一通のメッセージ。
『プレゼンを見ました。あの時のツバメを見つけてくれて、ありがとう。私は今、銀色のレールの上で、元気に働いています。』
それは、かつての少女からの返事だった。
僕たちの周りには、目に見えない無数の「糸」が繋がっている。それはデジタルの冷たい線ではなく、誰かの痛みを想像し、手ざわりを確かめ合うことで紡がれる、銀色の糸だ。
僕は図書室の窓を閉めた。
もう、ここを「忘れられた島」とは呼ばない。
僕たちが刻んだ轍(わだち)は、10年の時を超えて、新しい誰かの未来へと続いていくはずだから。
「ソウマ! お腹空いた、コンビニ寄ろうぜ!」
「うん。いいよ、ユイさん」
僕は初めて、彼女を名前で呼んだ。
ポケットの中の37.2℃は、もう僕を戸惑わせるノイズではなく、世界を温めるための確かな熱になっていた。
第5話:握力の射程 ――掌(てのひら)の熱と、幼馴染の境界線
1.我が家の「絶対的な掟」
僕、高橋リクと幼馴染の陽菜(ひな)の間には、幼稚園の頃から続く絶対的なルールが存在する。
それは、「力こそ正義」という、いささか野蛮な掟だ。放課後のアイスの味、どちらが先にゲーム機を使うか、あるいは塾帰りにどちらが荷物を持つか。意見が真っ向から対立した時、最終的な決定権を持つのは、論理的な話し合いでもジャンケンでもない「腕相撲(うでずもう)で勝負だ! 勝った方の言うことを聞く!」
この一言ですべてが決まる。
僕らは中学生になっても、この「儀式」を続けていた。
以前の僕は「巨大な塔」のような存在で、サッカー部で鍛えた腕は陽菜の細い腕を赤子の手をひねるようにねじ伏せてきた。
「ガハハ! 情けないぞ陽菜! 文句があるならもっと飯を食え!」
そう豪快に笑うのが、僕の特権だった。
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2.変化する「重力」
しかし、中学2年生の夏、その盤石な図式に変化が生じ始めた。
僕は成長期を迎え、身長が伸びた。けれど、陽菜の様子もどこかおかしい。彼女は陸上部に入り、毎日走り込んだ足腰にはしなやかな筋肉がつき始めていた。何より、彼女の纏う空気が、かつての「泥だらけの遊び仲間」から、僕が直視するのを躊躇(ためら)うような「異邦人」へと侵食され始めていた。そんな僕に、クラスの女子グループから冷ややかな言葉が投げかけられる。
「リクって、いつまであんな野蛮なことやってるの? 陽菜、嫌がってるかもしれないよ」
「力で従わせるなんて、ちょっと最低だよね」
それは、僕の自尊心に突き刺さる「毒」だった。僕は陽菜を対等なパートナーだと思っていたけれど、周りから見れば、僕はただの「理不尽な暴君」に過ぎなかったのかもしれない。________________________________________
3.夕暮れの決闘
ある日、塾の帰り道の公園。
最後に一個残った限定フレーバーのグミを巡って、僕らはいつものようにベンチに肘(ひじ)をついた「レディー、ゴー!」
陽菜が掛け声をかけ、両腕に力がこもる。
ガシッ。
父さんの靴磨きのように単調で集中した空気が流れる。陽菜の手を握った瞬間、僕は違和感を覚えた掌(てのひら)から伝わってくるのは、かつての頼りない感触ではない。
乾燥した熱と、しなやかな皮膚の下に隠された強い意志。僕の平熱は36.5℃のはずなのに、彼女の手に触れている部分だけが、まるで熱を出した時のように37.2℃まで上昇していくのを感じた。
「……ぬううっ!」
陽菜が顔を真っ赤にして、額に青筋を立てるその腕は小刻みに震えていた。その震えは、僕の知らないところで彼女が流してきた汗と、自分を磨き続けてきた歴史そのものだった。________________________________________
4.勝たなかった勝負、選んだ自由
僕は確信した。今、本気で押し込めば、彼女をねじ伏せることができる。でも、その瞬間、脳裏に「被爆電車」の話をしてくれたおじいさんの言葉が浮かんだ。
「強さ」とは、ただ相手を倒すことなのだろうか。相手の痛みを想像し、その尊厳を認め合うこともまた、強さなのではないか。僕は、あえて力を受け流した。
わざと腕を大げさに震わせ、苦悶(くもん)の表情を作る。
「う、うおおお……! 強すぎる……!」
それは勝つよりも難しい、繊細なコントロールだった。
ダンッ。僕の腕の甲が、冷たいベンチの板につけられた。
「……しゃあ!!」
陽菜は、公園中のセミが逃げ出すような大声を上げ、ガッツポーズをした。
「まだまだだね、リク! 私の特訓の成果だよ!」
彼女の晴れやかな笑顔を見て、僕はホッとした。僕が守りたかったのは、グミの袋でも、僕のプライドでもない。
「リクの前では最強でいたい」という彼女の誇りだったのだ。________________________________________
5.エピローグ:37.2℃の羅針盤
帰り道。夜風が涼しい。
「リク、今日はありがと。……わざと負けたでしょ」陽菜がボソッと呟いた。ドキッとした。心臓が跳ねる。
「……バカ言え。お前が強くなったんだよ」
僕は精一杯の嘘をついた。いつか、本当に彼女に追い越されてしまう日が来る。
それは勉強かもしれないし、背の高さかもしれない。でも、その日が来るまでは、僕は彼女の良きライバルであり続けよう。身体に触れるということは、言葉以上の情報を交換することだ。相手の体温、肌の硬さ、震え。
その「生の情報」こそが、僕たちがこれから歩いていく未来を照らす、羅針盤になるはずだから。
「リク! お腹空いた、卵かけご飯食べたい!」「さっきグミ食っただろ!」
二人の笑い声が、夜の街に力強く響いた掌に残った37.2℃の熱は、僕らが一歩大人になった証(あかし)のように、いつまでもジンジンと痺れていた。
第6話:15秒の境界線 ――バズる虚構と、加工なしの微熱
1.切り取られた「正解」
私、結城ハナの人生は、スマートフォンの画面と同じ、9:16のアスペクト比の中に閉じ込められている。
休み時間の教室。私は窓際の席で、最新のTikTokトレンド曲に合わせて、わずか15秒のダンス動画を撮影していた。
「あ、今の表情ちょっと固かったかな。もう一回」
納得いくまで何度も撮り直す。
指先ひとつで肌を白くし、瞳を大きくし、背景に舞う埃さえ「キラキラの粒子」に加工する。
投稿ボタンを押せば、数分で「いいね」と「リポスト」の数字が積み上がっていく。
その数字こそが、私の「価値」であり、このクラスでの私の「身分証」だった。
「ハナ、また動画? 暇だね」
冷めた声をかけてきたのは、隣の席の佐々木カイだ。彼はいつも、青いマグカップでインスタントコーヒーを飲みながら、スケッチブックに何かを描いている。
流行りのSNSには目もくれず、いつも「本物」とか「論理」とか、可愛くないことばかり言っているノイズのような男子だった。
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2.37.2℃の空白
ある日の放課後。私は「憧れの放課後」を演出するために、誰もいない理科室で自撮りをしていた。
夕日が差し込む窓辺、白いリネンのカーテン。完璧な「映え」の条件が揃っている。
けれど、カメラを向ける私の心は、深度計測不能なほど冷え切っていた。
「……何やってるんだろ、私」
昨日の投稿は、アルゴリズムの気まぐれで数字が伸びなかった。
「飽きられたのかな」「ブサイクになったのかな」
疑心暗鬼が黒いインクのように脳内に広がり、呼吸が苦しくなる。
画面の中の私は、こんなにもキラキラしているのに、本当の私は、酸素不足で窒息しそうだった。
「それ、フィルター外したらどうなるんだ?」
背後から声がして、私は飛び上がった。カイが、棚の影でロボットの部品を探していたらしい。
「勝手に見ないでよ! フィルターは魔法なの。これがないと、私は私でいられないの」
「魔法っていうより、檻(おり)に見えるけどな」
カイが近づいてくる。彼の手は油で黒く汚れ、機械の匂いがした。
その手が、私の頬のすぐそばまで伸びてきた。
「……あ」
彼は私のスマホを奪うのではなく、私の額に自分の手をそっと当てた。
「やっぱり。ハナ、お前熱があるぞ」
「……え?」
「37.2℃くらいか。数字を追いかけすぎて、自分の体温を忘れてるんじゃないか」
カサカサとした、節くれだった大きな掌。
加工アプリを通さない「生の熱」が、私の冷え切った思考を強引に解凍していく。
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3.「いいね」の毒と、15秒の真実
翌日、私の動画のコメント欄が荒れた。
「この前のコスメ、ステマだよね?」「顔が加工しすぎてて怖い」称賛は一瞬にして憎悪に変わり、石を投げる群衆の声が通知センターを埋め尽くす。
私は、アルゴリズムという魔物に魂を売った代償を払わされていた。
「もう、消えちゃいたい……」
屋上の隅で震えている私に、カイがやってきて、自分のタブレットを見せてきた。
そこには、私が一人で真剣にロボットの調整を手伝っていた時の、無加工の写真が映っていた。
「これ、俺が撮った。加工もフィルターもない、お前の顔だ」
そこに写っていた私は、髪もボサボサで、必死な形相をしていた。お世辞にも「可愛い」とは言えない。
「……醜い。最低」
「違う。これが、お前という一人の人間の『尊厳』だ」
カイは真っ直ぐな目で私を見た。
「画面の向こうの何万人の『いいね』より、今、隣で俺が思ってる『一生懸命でかっこいい』って言葉を信じてみろよ。お前は数字じゃない。生きている人間だ」
その言葉は、冷淡なSNSの世界から私を救い出す、銀色の糸のような繋がりだった。
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4.エピローグ:夜明けの黒い画面
私はSNSの投稿をすべて削除した。二十万人のフォロワーも、積み上げてきた虚像も、全部ゼロに戻した。
スマホの画面を消すと、そこには真っ黒な鏡(ブラックミラー)が残る。
そこに映る自分の顔は、泣きはらしてボロボロだったけれど、今までで一番自分らしい顔に見えた。
「ハナ、行くぞ。新しいロボットのテストだ」
カイが呼んでいる。
「うん! 今行く!」
私はスマホをポケットにしまった。
15秒の動画で切り取られた偽物の幸せはいらない。
カイの大きな手ざわり、ロボットがガシャン、ガシャンと歩く不規則なリズム。
そんな数値化できない「本当のこと」を、一つずつ丁寧に集めていきたい。
胸の奥にある37.2℃の微熱は、もう警告の色じゃない。
それは、フィルターのない世界で私が生きていくための、はじまりの色だった。
「カイ! その設計図、1ミリズレてるよ!」
「うるさい、これがロジックだ!」
笑い声が、朝の光に溶けていく。
新しい私の物語が、今、ここから動き始めていた。
第7話:銀塩の残像 ――消えゆく駅舎と、解像度を超えた熱
1.銀色の終着点
深夜の彩音駅。最終列車が出た後のホームは、深い静寂に沈んでいる。
月明かりを浴びて、どこまでも続く二本のレールが鈍い銀色に光っていた。
私、佐藤ユキは、最新のミラーレス一眼を構え、その「映える」静寂を切り取ろうとしていた。
「……廃線か」ニュースで聞く「採算割れ」という無機質な言葉が、私の故郷を少しずつ削り取っていく。
駅前の商店街はシャッター通りになり、思い出の場所が次々と「効率」という名の消しゴムで消されていく。
私はその虚しさを埋めるように、シャッターを切り続けた。
何万ピクセルという高解像度の画像データに保存すれば、この景色を永遠に自分のものにできると信じていた。
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2.1/60秒の熱
「……デジカメじゃ、そのレールの『匂い』は写らないよ」
不意に背後から声をかけられ、私はカメラを落としそうになった。
そこにいたのは、クラスで一番影が薄いと言われている宮本ケンだった。
彼は首から、古びた、重厚な金属製のカメラを下げていた。
「それ、おじいちゃんの?」
「うん。フィルムカメラ。こいつは1枚撮るたびに、ゼンマイを巻く音がするんだ。生きてるみたいにさ」
ケンはレールの脇にしゃがみ込み、ファインダーを覗いた。
「フィルムはさ、光を『化学変化』として焼き付けるんだ。だから、そこには撮った人の体温とか、その場の空気の震えが、銀色の粒になって残るんだよ」
彼がカメラの設定をいじっている時、指先が私の手に触れた。
ガサゴソとした、少し荒れた手のひら。
その瞬間、私の平熱は36.5℃のはずなのに、触れた場所からじわりと37.2℃の微熱が広がっていくのを感じた。
それは、高機能なセンサーが弾き出す「色」ではなく、もっと生々しい「熱」の記憶だった。
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3.効率という名の毒
翌日、駅舎の跡地に巨大なショッピングモールの建設が決まったというチラシが配られた。
「街が便利になる」「資産価値が上がる」と、大人たちは黄金色の未来を語る。
けれど、その言葉の裏には、ここで誰かが繋いできた「銀色の糸」を断ち切る冷淡さがあった。
「便利になるって、そんなに偉いのかな」
放課後、ケンと一緒に現像液の匂いが漂う彼の自宅の暗室(物置)で、私は呟いた。
「古いものを壊して、全部同じような建物にして。そんなの、解像度だけ高くて中身が空っぽな写真と同じじゃん」
ケンは赤い電球の下で、印画紙をじっと見つめていた。
「世界は、真実なんて求めていない。『それっぽい美しさ』や『効率』を求めているんだ」
彼は少し寂しそうに笑った。
「でもさ、この真っ暗な中から、ゆっくりと像が浮かび上がってくる瞬間……。これだけは、どんなアルゴリズムにも計算できない『奇跡』なんだよ」
液体の中で、昨夜の銀色のレールが、ぼんやりと、けれど確かな存在感を持って浮かび上がってきた。
それは、デジタルデータのように「削除」ボタン一つで消せるような軽いものではなかった。
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4.ラスト・列車の汽笛
廃線の日。ホームには、スマホを掲げた大勢の「にわかファン」が詰めかけていた。
彼らにとって、この駅の最後は単なる「コンテンツ」に過ぎない。
私はカメラを持たなかった。
ただ、ケンの隣に立って、最後の汽笛を聞いた。
「ボーッ!」と、お腹に響くような低い音。
列車が去った後のレールの振動を、足の裏で受け止める。
「ユキ。……俺、写真家になるよ」
ケンが、レンズを外側に向けたまま言った。
「消えていくものを、ただ悲しむんじゃなくて。それが確かにここにいたっていう『証拠』を、この古いカメラで焼き付け続けるんだ」
彼は私の手をぎゅっと握った。
その握り方は、ブラジル人のカルロスが教えてくれた「本気」の強さと同じだった。
掌に残る37.2℃の熱。
それは、失われていく風景への鎮魂歌(レクイエム)であり、同時に、未来への力強いスタートラインの合図でもあった。
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5.エピローグ:現像された未来
数年後。私は都会の大学で、映像制作を学んでいる。
最新の機材に囲まれながらも、デスクの端には、あの日ケンが撮ってくれた「ピンボケの私の横顔」を飾っている。
写真は、高解像度であればいいわけじゃない。
そこにある「痛み」や「祈り」が写っているかどうかが、その価値を決めるのだ。
私はスマホを閉じ、自分の目で外の景色を見る。
月明かりの下、銀色の糸のように続く線路の跡が見えた。
かつてそこを走っていた「桃太郎」や「金太郎」の鼓動が、今も土の下で脈打っている気がした。
私の初恋は、あの暗室の赤い光の中で、ゆっくりと現像された。
どんなに時代が便利になっても、人間の尊厳と温もりだけは、決して「効率」で塗り替えてはいけない。
「ユキ! 新しい課題、1ミリズレてるぞ!」
「うるさい、これが私の『ロジック』よ!」
私は笑いながら、新しいフィルムをカメラに込めた。
レンズの向こう側には、まだ誰も見たことのない、私たちだけの色彩が芽生え始めていた。
第8話:黄金の鳥籠と、湯気の向こう側 ――格差の高度計と37.2℃のスープ
1.アスファルトの解像度
午後五時。彩音市の空が、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
僕、タカシ(中学3年生)は、中古のロードバイクを必死に漕いでいた。背中には大きな四角い保冷リュック。中身は、イタリア料理店の温かいパスタと、冬限定のポタージュスープだ。
「あと……三分」
スマホの地図アプリを睨む。夕方のラッシュアワー、歩道は帰宅する会社員で溢れている。僕はアルゴリズムに管理された「足」だ。評価が下がれば仕事が来なくなる。この焦燥感は、僕にとって「残り時間が少ない」という警告色でしかなかった。
僕の見る世界の解像度は、路地裏の猫の通り道や、古びたアパートの錆びた階段の冷たさで構成されている。それは泥臭くて、いつもガソリンの匂いがした。
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2.ガラスの塔の住人
目指すのは、丘の上にそびえ立つ高級タワーマンション『彩音ヒルズ』の最上階だ。
オートロックのインターホンを鳴らすと、冷ややかな声で「裏の業務用エレベーターから入ってください」と言われる。
ふかふかの絨毯が敷かれた40階の廊下を、僕の汚れたスニーカーで歩くのは場違いな気がして、いつも少し背中を丸めてしまう。
チャイムを鳴らすと、重厚なドアが開いた。
出てきたのは、僕と同じ年くらいの少女、エリカだった。
彼女はシルクのパジャマにカシミアのカーディガンを羽織り、まるで剥製(はくせい)のように生気のない顔をしていた。
「……お待たせしました。1,200円です」
商品を渡そうとしたとき、指先が触れた。
「――っ!」
エリカの指先は、凍りつくほど冷たかった。まるで、外の酸性雨に打たれていたかのように。
それなのに、触れた僕の掌からは、37.2℃の微熱がじわりと伝わっていく。
それは、リュックの中で揺れ続けていたスープの温度であり、僕が坂道を駆け上がった時に出た「生きている熱」だった。
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3.「だるい」という名の毒
エリカの背後の広いリビングには、巨大なモニター群が株価チャートを映し出し、黄金色に揺らめいていた。
彼女の両親は海外出張中で、この広大なペントハウスには彼女一人しかいない。
「お金、お釣りはいらないわ。……どうせ、私のもんじゃないし」
彼女は感情のない声で言い、ドアを閉めようとした。
「待って」
僕は思わず、そのドアに手をかけた。「……エリカさん、だっけ。君、ちゃんと食べてる?」
彼女は怪訝そうに僕を見た。「……余計なお世話。塾の課題が忙しいの。全部だるいのよ」その「だるい」という言葉は、僕が持っていない「時間」と「自由」を贅沢に使い捨てているように聞こえて、一瞬、胃の奥から悔しさがせり上がった。
僕は汗だくで他人の飯を運び、彼女は涼しい部屋で未来を呪っている。このガラスの塔の上と下では、重力さえ違うみたいだった。
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4.湯気の向こう側にある尊厳
でも、彼女の震える指先を見て、僕は気づいた。
彼女もまた、この「黄金の鳥籠」の中に閉じ込められ、窒息しそうになっているのだということに。
「これ、食べてよ」
僕は注文外の、自分が食べるはずだった小さな紙包みを差し出した。母さんが作ってくれた、少し不格好な「茶色いおにぎり」だ。
「中身は唐揚げと煮卵。見た目は最悪だけど、味は僕の保証付きだ」
エリカは驚いた顔でそれを受け取った。
「……なんで、こんなの」
「君の指があまりに冷たいから。……37.2℃、お裾分けだよ」
数分後。ドア越しに、かすかに「美味しい」という、さっきまでの剥製のような声とは違う、柔らかな響きが聞こえた。
僕が運んできたのは、ただのパスタじゃない。
誰かの腹を満たし、体温を上げるための「命の燃料」だったんだ。
その事実に気づいたとき、僕の「配達員」という仕事に、言葉にならないプライドが宿った。
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5.エピローグ:夜明けの灯火
マンションを出ると、街はもう完全に夜だった。
見上げる『彩音ヒルズ』の最上階に、ひとつだけ温かな光が灯っているのが見えた。
その光は、株価チャートの金色でも、高級照明の冷たさでもない。
誰かが自分の足で立ち、自分の人生を味わい始めた「灯火(ともしび)」の色に見えた。
僕は自転車に跨り、ペダルを強く踏み込んだ。
いつか、僕も自分の力で「僕だけの設計図」を引く日が来る 25。
その時には、高い塔の上から見下ろすのではなく、路上の石ころの熱さも、誰かの指先の冷たさも知っている、そんな人間になっていたい。
掌に残る37.2℃の熱は、冷たい夜風の中でも消えなかった。
格差なんていう見えない壁を越えて、僕らは確かに今、同じ体温で繋がっている。
「タカシ! 注文入ったぞ、次、駅前の牛丼屋だ!」
「了解(ラジャー)! すぐ行く!」
僕は光の奔流の中へと駆けていった。
次の「37.2℃」を待っている誰かのもとへ。
第9話:無名(なまえなき)の労働と、体温のデバッグ ――重いランドセルと37.2℃の境界線
1.消毒液の聖域
保健室は、学校の中で唯一、時間が「静止」している場所だ。
ツンとした消毒液の匂いが鼻をくすぐり、白いカーテンが風に揺れる。
僕、森永ソラ(中学2年生)は、昼休みのチャイムを無視して、奥のベッドに潜り込んでいた。
「またサボり? 働きすぎだよ、ソラくん」
カーテンの隙間から顔を出したのは、クラスメイトの宮本ミオだった。
彼女は「起立性調節障害」という、朝に体が動かなくなる病気を抱えていて、午前中は大抵ここにいる。僕とは正反対の理由で「教室にいられない」ノイズのような存在だ。
「……サボりじゃない。体温のデバッグ(調整)だよ」
僕は目を閉じたまま答えた。
僕の毎日は、朝5時の炊事から始まる。病気がちな母に代わり、幼稚園に通う妹の弁当を作り、洗濯機を回し、ゴミを出し、寝ぼける妹の髪を結ぶ。
それは誰にも評価されない、けれど誰かがやらなければ家庭が壊れてしまう「名もなき労働」の連続だった。
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2.「いい子」という名の毒
「ソラくんの手、いつもカサカサしてるね」
ミオが僕の手をそっと覗き込んだ。
僕の手には、洗剤で荒れたあかぎれや、包丁で切った小さな傷跡がある。
近所の人や親戚は、僕を見てこう言う。
『ソラくんは聞き分けが良くて偉いね』『お母さんを助けて立派だね』。
その「正解」を求められる空気が、僕を透明な檻の中に閉じ込めていた。
自分のための勉強、友達との遊び、そして「誰かを好きになる」という贅沢な感情。
それらはすべて、僕の生活というプログラムの中では、真っ先に削除されるべき「無駄なコード」だった。
「……偉くなんてないよ。ただ、やらなきゃ回らないだけだ」
僕は関節をパキパキと鳴らし 5、ベッドから身を起こそうとした。
その時、ミオが僕の肩に手を置いた。
「――っ!」
彼女の掌は、驚くほど「しっとり」としていて、ひんやりと冷たかった。
それなのに、触れられた僕の肩からは、じわりと37.2℃の熱が広がっていく。
それは、日々の疲労が積み重なった「微熱」であり、誰にも触れさせてこなかった僕の「尊厳」が上げる悲鳴だった。
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3.37.2℃の診断結果
ミオは自分のスマホを取り出し、最近流行っているメンタルケアAI『パレット』を起動した。
「今のソラくんの『心の色』、見てあげる」
画面の中でインジケーターが回り、結果が表示される。
《診断結果:#800080(パープル)》《意味:深い憂鬱と、癒えない喪失感。または、酸素不足による窒息》
「……窒息、か」
僕は乾いた笑い声を漏らした。
AIは正確だ。僕はいつの間にか、家族という名の深い海に沈み込み、息の仕方を忘れていた。
「ねえ、ソラくん」
ミオがベッドの端に腰掛け、僕の目を見つめた。
「あなたは誰かの『部品』じゃない。37.2℃の熱がある、生きてる人間だよ」
彼女は僕のゴツゴツとした、油臭い手を両手で握りしめた。
「この汚れは、あなたが戦った勲章だよ。でも、たまには自分のために熱を出してもいいんだよ。私がここで、あなたの『デバッグ』を手伝ってあげるから」
その不器用で、確かな温もりは、どんな「いい子だね」という言葉よりも深く、僕の心を解凍していった。
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4.エピローグ:夜明けの呼吸
放課後、僕はいつも通り妹を迎えに保育園へ向かった。
背負ったリュックには、ミオが貸してくれた「読み終わっていない本」が入っている。
それは、僕の人生というソースコードに書き加えられた、初めての「自分のための時間」だった。
空を見上げると、夕暮れが終わり、濃い紫色がゆっくりと金色に溶けていた。
僕たちはまだ、自分の色をうまく言葉にできないまま生きている。
けれど、ミオに触れられた場所の37.2℃の熱だけは、僕が僕として生きるための、消えない「証(あかし)」になっていた。
いつか、妹が大きくなり、母の体が良くなったら。
その時、僕は自分の手で、新しい色を選び直そうと思う。
無色透明な、どんな色にもなれる「はじまりの光」を。
「お兄ちゃん! お腹空いた!」
「わかったよ。今日は……オムライスにしようか」
僕は妹の手を引いて歩き出した。
その足取りは、昨日よりもほんの少しだけ、自由へ向かって軽やかだった。
第10話:はじまりの透明 ――卒業式と、十色のパレット
1.六年分の「重さ」
三月の彩音市には、独特の匂いがある。ワックスがけされた床、湿った春の土、そして、みんなの想いが詰まった空気の匂いだ。
僕、一ノ瀬カイトは、机の上に置かれた自分のランドセルを撫でた。
ピカピカだった一年生の頃とは違う。色はくすみ、角が丸くなり、冒険を終えた後のような顔をしている。指先で触れると、転んだ時の傷跡や錆びた金具の感触が、六年間の歴史を物語っていた。
中身を空にしても、そこには不思議な「重み」があった。それは、1200日分の「行ってきます」と「ただいま」が詰まった、成長の重さだった。
「カイト、何ボーッとしてるの? 早く並ばないと遅れるよ」
声をかけてきたのは、幼馴染のアヤネだ。彼女の瞳には、教室の窓から差し込む春の光が反射し、銀色の月光のように澄んでいた。
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2.すれ違う「色」たち
体育館へ向かう廊下で、僕はこれまでの物語の主人公たちとすれ違った。
理科室の前では、ハルとアキが、ストーンでデコられたロボットを大切そうに抱えていた。論理と感性が混ざり合ったそのマシンは、不規則ながらも力強いリズムを刻んでいる。
音楽室からは、しおりのピアノとケンタの野太い歌声が、不協和音を恐れずに響いてきた。それは誰かの体温になれる、あたたかい音だった 9。
美術室の入り口には、タクミが描いた水城先生のデッサンが飾られていた。届かない背丈を認めた少年は、今、自分だけの轍(わだち)を真っ新な画用紙に描き始めている。
図書室の窓際では、ソウマとユイが、10年前の貸出カードを栞(しおり)にして、新しい本を開いていた。デジタルの壁を越えた銀色の糸が、二人を確かに繋いでいる。
校門の向こうには、リクと陽菜が腕相撲の続きをするように笑い合い、ハナとカイがスマホの画面を伏せて、フィルターのない空を見上げていた。
遠くの坂道では、タカシが保冷リュックを背負って疾走し、その高い塔の窓からエリカがスープの湯気の向こう側に手を振っていた。
そして保健室の窓辺には、ソラとミオが、37.2℃の微熱を勲章にして、静かに呼吸を整えていた。
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3.人間の尊厳という光
彩音市では、人の心はときどき「色」として浮かび上がる。
青は迷い、灰は静けさ、赤は熱、白は息継ぎ、黒は影。
けれど、同じ色が同じ意味を持つとは限らない。人が十人いれば、十通りの青があり、十通りの物語がある。
卒業式の壇上に立った校長先生は、僕たちの目を見て静かに語った。
「皆さんの色は、他人や機械が決めた指標ではありません。それは、皆さんが今日まで生き延びるために選び取った『証(あかし)』です。不器用で、混ざり合い、時に消えそうになっても、その熱を、自分の尊厳を、どうか手放さないでください」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、名前のない「光」が息をした。
それはどんな色にも似ていなかったし、どれとも違っていた。ただ、隣にいるアヤネの掌から伝わる、37.2℃の確かなぬくもりだけが、僕の現実だった。
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4.エピローグ:はじまりの透明
式が終わり、僕たちは校門を出た。
アスファルトの道には、僕たちが刻んできた無数の轍(わだち)が、未来へと続いていた。
もう、AIに自分の色を診断してもらう必要はない。
僕たちの色は、自分たちで選び、何度でも塗り替えていけばいい。
「カイト、中学校に行っても、また一緒に帰れるかな」
アヤネが僕の手を、少しだけ強く握った。
その手は、昔の糸電話のようにビリビリと震えていたけれど、世界で一番あたたかかった。
「……うん。約束するよ。どんなに遠くに行っても、この糸は切らない」
僕たちは十色のパレットを背にして、光の中へと加速していく。
空を見上げると、光は無色透明だった。
けれどその透明は、空っぽではない。水のように、朝の空気のように、どんな色にもなれる「はじまり」の透明だ。
胸の奥にある37.2℃の微熱。
それは、初恋の解像度を上げ、世界をありのままに愛するための、僕たちの「生きている熱」だった。
「カイト! 行こう、新しい毎日へ!」
「ああ、行こう、アヤネ!」
二人の足跡が、春の陽だまりの中に、新しい轍(わだち)を刻み始めた。
(『初恋の解像度 ―37.2℃の心象風景―』全10話 完)
『初恋の解像度 ―37.2℃の心象風景―』 草薙アキラ @patkiu
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