裏の支配者は肩書を持たない

Omote裏misatO

第1話 路肩の再開

 深夜、会合を終えた黒塗りのセンチュリーは、重々しいエンジン音を響かせながら首都高速の下を這うように進んでいた。

 降り始めたばかりの細い雨が、濡れたアスファルトを黒光りさせ、街灯の鈍いオレンジ色を歪ませて反射している。

​後部座席に深く身を沈めていた山岸は、思考の海を漂うように、流れる景色を眺めていた。だが、視界の端を掠めた「影」に、全神経が凍りついた。


​――嘘だろ。


 ​歩道を独り、歩く男。

 背は高くない。薄汚れた作業着に身を包み、肩はわずかに丸まっている。どこにでもいる、夜勤明けの労働者にしか見えない後ろ姿だ。

 だが、その一歩一歩の足運び――重心が微塵もぶれず、地を吸うようなその歩法だけは、山岸の記憶に深く刻まれた「あの怪物」のそれだった。


​「……停めろ」

「えっ、あ、はい!」


 唐突な低い声に、運転席の若い衆が慌ててブレーキを踏む。ハザードランプの規則正しい点滅が、路地裏の湿った空気を切り裂いた。

 ​車が完全に停止するのを待たず、山岸はドアを蹴立てるようにして外へ出た。


​「……霧羽、さん……ですか」


 ​声が、情けないほどに震えていた。

 山岸といえば、今や関東一円に名を轟かせる広域暴力団の最高幹部の一人だ。その彼が、雨の中でコンビニ袋を提げた男を前に、新人のような顔で立ち尽くしている。

 ​男が足を止めた。

 ゆっくりと振り返ったその顔には、深い隈と、どこか世捨て人のような虚無感が漂っていた。手にしたビニール袋の中では、安物の発泡酒と半額の惣菜パックが重なり合ってカサリと鳴る。


​「……あぁ?」


 ​濁った、だが芯の通った声。

 その響きを耳にした瞬間、山岸の確信は「恐怖に近い敬意」へと変わった。


​「やっぱり……霧羽さんだ」


 山岸は、雨に濡れるのも構わず、その場で深く、腰が折れるほど頭を下げた。


「あの時のことは……一日たりとも、忘れたことはありません」


 ​霧羽と呼ばれた男は、感情の読めない瞳で山岸をじっと見下ろしている。


「……どの時だ。心当たりが多すぎてな」

​「八年前、臨海地区の抗争です。私が三下の鉄砲玉に腹を抜かれ、泥水をすすって死を待つしかなかった、あの夜です」


 ​山岸の喉の奥が熱くなる。

 脳裏をよぎるのは、血の匂いと硝煙が混じり合う地獄絵図だ。味方は全滅。包囲され、絶望に沈んでいた自分。そこに現れたのが、当時「組織の掃除屋」として影で囁かれていたこの男だった。

 銃火器を揃えた十数人のプロを相手に、男はただのナイフ一本――いや、最後は素手で、まるで雑草を刈るかのように「処理」していった。

 命を奪うことへの葛藤も、高揚もない。ただ、呼吸をするように人を破壊していくその瞳。

 

「貴方は俺を担ぎ上げ、出口まで放り出した。……なぜ助けたのかと聞く俺に、貴方は『邪魔だったからどかしただけだ』と仰った」


 ​数秒の沈黙。雨足が少しだけ強くなる。

 霧羽はコンビニ袋からロング缶を取り出し、慣れた手つきでプルタブを引き抜いた。

 プシュッ、という気の抜けた音が夜に響く。


​「……あぁ。あの倉庫か。……湿気てて、煙草に火がつかなくてイライラしてたのは覚えてる」


 ​霧羽は一口、安酒を煽った。


「懐かしいな。だが、それだけだ。話は終わりか?」

​「ムショに入られたと聞き、血眼になって捜しました。まさか、こんな場所で……」

「見ての通りだ」


 霧羽は視線を落とし、足元に転がっていた空き缶を無造作に踏み潰した。バキリ、と硬質な音が夜の静寂を壊す。


「俺はもう、あの頃の俺じゃない。ただの、現場作業員だ」

​「渡世から足を洗ったというのですか!? 貴方ほどの御方が!」

「ヤクザは辞めた。飽きたんだよ。人を殺すのも、殺されるのを待つのも」


 ​山岸は拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。


「……恩を返させてください。今の俺なら、貴方に相応しい場所を用意できる。金も、女も、権力も。この国の裏側を、貴方の思い通りに動かせる椅子を用意します」

​「要らん」


 霧羽は一瞥もせず、歩き出した。


​「今の私は、構成員三万人を抱える組織の長です! 俺の号令一つで、この街の景色を変えることだってできる!」


 ​霧羽が足を止め、肩越しにわずかな視線を送った。

その眼光に、山岸は思わず息を呑む。数万人の頂点に立つ山岸を、霧羽は「ただの石ころ」を見るような目で見つめていた。


​「……そうか。出世したな、山岸」


 ​それだけだった。


「だがな、俺にはこの温い酒の方が合ってる。……二度と声をかけるな。俺はもう、ただの堅気だ」


 ​男の背中が、街灯の届かない闇の向こうへと溶けていく。

 山岸は追いかけることができなかった。全身を支配しているのは、拒絶された悲しみではない。あの頃と変わらない、圧倒的な「格の差」に対する戦慄だった。

 ​車に戻ると、運転席の若い衆が青ざめた顔で尋ねてきた。


「……親分、あんな男、放っておけばいいじゃないですか。あんな無礼な態度、ウチのモンが知ったら黙ってませんよ。どこの誰なんです?」


 ​山岸は答えず、ただ震える手で煙草を咥えた。

 火を点けるライターの先端が、カチカチと音を立てて震えている。


​「いいか、よく聞け」


 山岸は煙を吐き出し、噛み締めるように言った。


「……あの男にだけは、絶対に手を出すな。たとえどんな理由があろうとな」

​「……はぁ、左様ですか」

​「お前には分からんだろうがな」


 山岸は窓の外、男が消えた闇を見つめ、独り言のように呟いた。


​「あの男がその気になれば……この国の秩序なんて、一晩で瓦解する」


 ​それだけ言い残すと、山岸は硬い顔で窓を閉めた。

 雨に濡れた東京の街は、何事もなかったかのように静まり返っていた。

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