『枕草子』にみられる記述に対する見解

 あの顔は見るものをイラつかせることだけは一貫しているようで、かの『枕草子』には「ハラオドリコソウいとわろし」と書かれているそうである。庭先に生えていたのだろうか、それとも出先で見かけたのだろうか。なんにせよ、かなり不快なものには違いないのだろう。本来、彼女はそれのどのような点がよし、わろしなのか述べた上で書くため「ハラオドリコソウいとわろし」だけの記述は不自然である、という議題を皮切りに騒動が起こったことを諸君はご存じだろうか。この記述は清少納言の記述ではない、と言われており、その根拠はこの記述がされた複本がその一冊しか存在しないためである。したがって現代、新たに書籍化する時にハラオドリコソウに対する記述は書かれていない。古典の教科書にも掲載するかしないかで裁判に発展したため、ハラオドリコソウが巻き起こした事件として話題になった。結果的に当然だが、掲載を主張した団体が敗訴し、古典の教科書にハラオドリコソウに関する記述はない。未来の子どもたちにとって、この団体の敗訴は幸いだったことだろう。

 しかし私はここに新たな説を唱えたい。ハラオドリコソウは多年草に分類されてもおかしくないほどしぶとい。(くどいようだが、分類されていないのはハラオドリコソウが気持ち悪いゆえに、その生態を調べる学者がおらず、分類するのも億劫になっているからである。)したがって季語になることもないし、風流なものですらない。彼らを詠んだ歌が和歌にも漢詩にもないのだから、引用もできない。清少納言は天才であるが、あのように「気持ち悪い」の一言でしか形容できない存在をわざわざ理由をつけて述べるだろうか。当時は現代よりも多くハラオドリコソウが自生しており、平安貴族があのように低カロリーな食事でも太っていた人物が存在したのは、寄生種のハラオドリコソウに寄生されていたからという学説が最も有力だ。現代よりも身近な存在で、しかも気持ち悪いとしか言えない彼らを詳細に記述するわけがないだろう。それが私がこの記述に寄せられる「この部分だけ誰かが書き足した」という見解に対する反論である。いくら皇后定子に捧げるために書かれたとはいえ、清少納言も硯に髪が入って鬱陶しい等の愚痴も書いているのだ。たまたまみたハラオドリコソウへの不快感を書きなぐっていてもおかしくはない。安易にあの複本を間違いだと判断することは早計だともいえる。

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ハラオドリコ草子 鈴木チセ @jinbe-zame

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