サボリの約束

南條 綾

サボリの約束

 冬特有の刺すような風が、屋上のフェンスを鳴らしていた。

私が独り占めしているはずのベンチには、先客がいた。


 強めの風に煽られて、制服のプリーツスカートが激しく羽ばたいている。

コートを着るにはまだ早くて、けれど指先が少しかじかむような、そんな中途半端な午後。

五時間目のチャイムを背中に聞いて階段を上りきった私は、そこで不意に足を止めた。


そこにいたのは、瀬戸せとまゆだった。


 同じクラスの彼女はいつも窓際の席で、透明な壁でも張っているみたいに静かに本を読んでいる。

陶器のような白い肌に、さらさらと流れる長い髪。

前髪の隙間から覗く瞳はどこか遠くを見ていて、クラスの喧騒とは無縁のお人形さん。

それが私の抱いていた彼女の印象だった。


 そんな瀬戸が、私の聖域に座っている。

膝の上には開かれたままの文庫本。

彼女は風にページをさらわれないよう細い指で押さえながら、ぼんやりと空を仰いでいた。

私の足音に気づいたのか、彼女がゆっくりとこちらを振り向く。


「……綾、さん?」


 不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

小刻みに震えるような、小さな声。

けれど、彼女は確かに私の名前を呼んだ。


「あ……うん。そうだけど。……なんで名前、知ってるの?」


 クラスで自己紹介なんてまともにした覚えはない。先生が名簿を読み上げる時くらいしか、苗字は覚えていてもおかしくないけど、名前を知ってるのはすごくびっくりした。

動揺を隠せない私を見て、瀬戸は少しだけ困ったように眉を下げて、隣のスペースをそっと叩いた。


「見てたから」さらりと、彼女は言った。


「ここ、あまり人が来ないでしょう? だから、綾さんが本を読んだり、時々お昼寝したりしてるの……ずっと、見てたんです。勝手に座っちゃって、ごめんなさい」


 顔が、一気に熱くなるのが分かった。

見られていた? 私がここでだらしなく寝転んでいたのも、寝顔も、全部?


「べ、別に、怒ってないよ。誰のものでもないし」


 平静を装って、私はベンチの横に腰を下ろした。

一人分以上の、不自然な距離を空けて。 瀬戸は再び空を見上げた。

雲の切れ間からこぼれる薄い陽射しが、彼女の横顔を淡く照らしている。


「ここ、気持ちいいですね。風が強くて、誰も来なくて……独り占めしたくなる気持ち、分かります」


「……まあね」


 二人で並んで、同じ空を見る。

奇妙な沈黙だったけれど、居心地は悪くなかった。

むしろ、一人でいる時よりもずっと、この場所の空気が澄んでいるようにさえ感じられた。


「どうして今日、ここに来たの?」


 私の問いに、彼女は少しだけ間を置いてから答えた。


「なんとなく、逃げたくなって。五時間目、体育でしょう? 私、球技が苦手で。見学してると、先生の視線が痛いから」


「あはは、わかる。私も体育は基本パスかな。面倒くさいし」


 意外な共通点に、思わず笑みがこぼれる。


「でも、綾さんはいつもサボっているのに、不思議と怒られませんよね」


「それはね、ちょっとしたコツがあるの。バレないための、テクニック」


「……教えてください」


 瀬戸がこちらを向いた。 目が合った。

至近距離で見つめる彼女の瞳は、潤んだようにきらきらと輝いていて、長い睫毛が影を落としている。

薄いピンク色の唇が、少しだけ開かれた。

近い。 心臓の音が、風の音よりも大きく響く。


「あ、えっと……まあ、習慣だよ。言っても無駄だと思うから叱られない」


耐えられなくなって視線を逸らすと、隣から「ふふ、ずるい」と小さな笑い声が聞こえた。

その悪戯っぽい笑顔が、胸に刺さった。


 それからは、堰を切ったように言葉が溢れた。

好きな本の話、嫌いな教師の癖。他愛もない、透明な時間。

繭は恥ずかしそうに、自分が「百合」……女の子同士の恋の物語が好きだと教えてくれた。


「女の子同士って、純粋で、すごく綺麗だと思うんです」


 少し赤くなって俯く彼女を見て、私はどうしようもなく動悸が激しくなるのを感じた。


「私……そういうの、読んだことないな」


「もしよかったら、貸してあげましょうか? 本当に、素敵なんですよ」


「……うん。貸して」


 その言葉を口にした瞬間、心の中で何かが繋がった気がした。

もっと、この子を知りたい。

この冷たい風の中で、体温を感じられる距離で、ずっとこうして話していたい。

六時間目のチャイムが遠くで鳴ったけれど、私たちはどちらも立ち上がろうとしなかった。


「……そろそろ、帰ろっか」


 重い腰を上げて、フェンスの鍵を閉める。

階段を下りる隣には、さっきまで遠い存在だった少女がいる。


「ねえ、繭」


「なんですか?」


「明日も……ここ、来る?」


 繭は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それから、今日一番の優しい笑顔を見せた。


「うん。来ようと思います」


その笑顔が、私の胸に深く沈んでいく。

冷たい冬の午後の、たった一時間のサボり時間。

それが私の、初めての恋の始まりだった。

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