不思議な花屋さん

猫柳 星

第1話

これは僕が経験した不思議な話。

子どもの頃、家族とよくショッピングモールに行っていた。

入口を入ってすぐ横に、花屋があった。

切り花が並んでいて、水の入ったバケツがいくつも置いてあった。

床は少し濡れていて、照明が反射していた。

通路の途中にある、ごく普通の店だった。

そこに、お兄さんがいた。

会うたびに、必ず言ってくれた。

「いらっしゃい」

呼び込みみたいな言い方じゃなかった。

ちゃんと僕の方を見て、目線を合わせて、声を落として言ってくれた。

その時、他にお客さんはいなかった。

花を選ぶ人の記憶も、通り過ぎる人の気配も残っていない。

僕とお兄さんだけで、短い会話をしていた。

お兄さんは優しかった。

身をかがめて話してくれて、急がなかった。

花の名前を教えてくれたこともあった気がするけど、

何を教わったのかは覚えていない。

覚えているのは、

手に細かい傷が多かったことと、

別れ際に必ず「じゃあね」と言ってくれたことだけだ。

最後に会った日のことは、はっきりしている。

お兄さんは、明らかに疲れていた。

服もくたびれていて、腕や顔に傷があった。

それでも、僕に気づくと、いつもと同じように目を合わせて、

「いらっしゃい」

と言った。

声は少し掠れていた。

でも、それ以外は何も変わらなかった。

それが最後だった。

大きくなってから、ふと思い出して、同じ場所に行った。

入口は変わっていなかった。

でも、花屋はなかった。

改装されたのかと思った。

人に聞いてみたけど、はっきり覚えている人はいなかった。

名前も知らないから、探しようもなかった。

顔も、もう曖昧だ。

それでも、「いらっしゃい」という声だけは、今でも思い出せる。

そのあとで、親に聞いた。

すると、

僕はモールに行くたびに、よく迷子になっていたと言われた。

気づくといなくなっていて、探し回ることになっていた、と。

それから、もう一つ。

あのモールには、最初から花屋は無かった、ということ。


でも、これは嘘なんかじゃ無い

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不思議な花屋さん 猫柳 星 @NEKO_YANAGI_SEI

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