プロローグ

『山に逃げなさい』


――皇帝ネロの時代、名もなき者たちの記録


プロローグ


 焦げた匂いは、夜になっても消えなかった。


 石畳に染み込んだ油と、焼け落ちた梁の粉と、人の髪が混じった、甘ったるい臭い。息を吸うたび、喉の奥がひりつく。鼻を押さえたところで無駄だった。ローマの夜は、火事のあとでも平気な顔をして、いつも通り人を飲み込んでいた。


「……まだ、煙が出てるな」


 隣を歩く男が低く言った。声を出したこと自体を後悔したのか、すぐに口を閉じる。私たちは自然と歩調を落とし、路地の影に身を寄せた。


 遠くで笑い声がした。酒場だ。火事で家を失った連中がいる一方で、杯を鳴らす音は絶えない。ローマは、そういう街だった。


「今日は……来るよな?」


 後ろから、若い女の声がした。震えている。寒さのせいだけじゃない。私は振り返らずに答えた。


「来る。来るはずだ」


 約束なんて、どこにもなかった。それでも、そう言うしかなかった。


 私たちは一人ずつ、合図もなく、同じ扉に吸い込まれていく。壊れかけの倉庫。中は暗く、湿った空気が肌にまとわりついた。壁際に置かれたランプの炎が、小さく揺れている。


「閉めて」


 誰かが囁いた。扉が軋む音に、全員が一瞬、息を止める。外の足音。鎧が触れ合う金属音が、近くを通り過ぎていった。


「……行ったか」


「たぶん」


「たぶん、で話すな。心臓に悪い」


 小さな苦笑が起きた。でも、すぐに消える。ここでは、笑い声は長く続かない。


 人が集まるにつれて、空気が重くなる。汗と埃と、恐怖の匂い。誰かの肩が私の腕に触れた。冷たい。


「ねえ……聞いた?」


 女が、耳元で言った。


「何を」


「……名前、呼ばれたって」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


「誰の」


「港の……革職人の。昨日まで、ここにいた人」


 誰も、その名を口にしなかった。名前を言うこと自体が、呼び寄せるみたいで、怖かった。


 沈黙の中で、年老いた男が一歩前に出た。背は曲がり、声はかすれている。でも、皆の視線は自然と彼に集まった。


「……聞きたいことがある者がいるだろう」


 彼は、そう前置きしてから、ゆっくりと続けた。


「最近、あちこちで囁かれている言葉だ」


 誰かが、ごくりと唾を飲み込む音がした。


「“山に逃げなさい”」


 一瞬、何も起こらなかった。次の瞬間、低いざわめきが広がる。


「また、その話か」


「噂だろ」


「誰が言い出した?」


「……本当に、そんなこと言った人がいるのか?」


 問いが重なり、空気がざらつく。老いた男は、手を上げて制した。


「私も、確かなことは知らない」


「じゃあ――」


「だが」


 その一言で、また静かになる。


「火が広がる前から、言われていたそうだ。街に留まるな。荷を取りに戻るな。――山へ行け、と」


 若い男が、吐き捨てるように言った。


「……そんなの、逃げろって言ってるだけじゃないか」


「そうだ」


 老いた男は、否定しなかった。


「逃げろ、という言葉だ」


「それを……信じろって?」


 女の声が裏返る。


「家は? 仕事は? 親は?」


 誰も、すぐには答えなかった。ランプの炎が、ぱちりと音を立てる。


 私は、気づけば口を開いていた。


「……信じるとか、信じないとかじゃない」


 皆の視線が集まる。喉が渇く。言葉を続けるのが、怖かった。


「これは……指示だ。生き延びるための」


「お前は、行くのか」


 誰かが問う。


 すぐには答えられなかった。頭に浮かぶのは、石畳、仕事場、朝の光。全部、ここに置いていくことになる。


 外で、また足音がした。今度は近い。誰かが、思わず息を詰める。


「……選ぶ時間は、長くない」


 老いた男が言った。


「残る者もいるだろう。それを、責めはしない」


 誰もが、自分の手を見つめていた。震えている者もいれば、固く握りしめている者もいる。


 私は、胸の奥で、何かが静かに決まるのを感じた。


「……山に、行く」


 自分の声なのに、少し遠くに聞こえた。


 誰かが、そっと頷いた。別の誰かは、目を伏せた。


「明け方前に出る」


 老いた男が言う。


「音を立てるな。振り返るな」


 ランプの火が消され、闇が広がる。


 扉が、また軋む。


 外の夜気は冷たく、焦げた匂いがまだ残っていた。それでも、私は息を吸った。


 街の向こうに、山がある。


 そこが安全かどうかなんて、誰にも分からない。


 それでも――


「山に逃げなさい」


 その言葉だけが、今は確かだった。


 それは救いじゃない。

 慰めでもない。


 生きろ、という命令だった。


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