未知との遭遇

秋刀魚

第1話


夏休みの朝は、どうしてこんなに早く目が覚めるんだろう。


 カーテンの隙間から入り込む光はもう白くて、窓の外ではアブラゼミが遠くで鳴き始めている。


 ジージージージー……


 耳の奥に、夏が直接入り込んでくるみたいだった。


「沙弥、ちゃんと戸締まりしてね」


 起きて階段を降りてリビングに向かう途中で、お母さんが玄関で靴を履きながら言う。

 


「はーい」


 元気よく返事をして沙弥は朝ごはんを食べた後、お皿を流し台に運んだ。

 お父さんはもう出勤していて、残っているのは兄だけだった。

 その後、直ぐにお兄ちゃんが起きてきてリビングのドアが開く。


「今日はお仕事なの。」



 玄関に一緒に行きながらお兄ちゃんが

 

「ごめんな…夕方には帰るから。無理して外出るなよ」


 と言ってくる。


「わかってるって」


 そう言いながら、お兄ちゃんは沙弥の頭をくしゃっと撫でる。


 その手は少しだけひんやりしていて、でも優しかった。


 玄関の扉が閉まる音がして、鍵がかかる。

 それで、家の中に一人きりになった。


(宿題、やらなきゃな)


 リビングの机に広げたドリルは、昨日のまま。

 鉛筆を持ってしばらく計算していると、喉がからからしていることに気づいた。


「……のど、かわいた」


 冷蔵庫を開けると、麦茶のポットの横に、それがあった。


 お兄ちゃんのお弁当。


 保冷バッグに入れられたまま、きちんと用意されたそれ。


(また……忘れてる)


 一瞬、迷った。


 約束している。

 お母さんたちが帰るまで、家で待つって。


 でも、病院は家から自転車ですぐだ。

 お兄ちゃんの職場も、知ってる。


(届けたら……喜ぶよね)


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけあったかくなった。


 沙弥は保冷バッグを手に取って、裏口から外に出た。


 ――一気に、夏の音が押し寄せる。


 ジリジリジリジリ……

 ジージージージー……


 太陽の匂い。

 焼けたアスファルトの熱が、サンダル越しに伝わってくる。


「……あっつ……」


 ヘルメットをかぶって、自転車にまたがる。

 ペダルを踏み込むと、風が一気に頬に当たった。


 ロングヘアーが背中で揺れて、風に引っ張られる。


 カゴの中のバッグがかたん、と鳴る。


 ジリジリ……

 風を切る音に、セミの声が混じる。


 病院はすぐ見えた。


 いつもの道。

 いつもの景色。


 何も怖くないはずだった。


 自転車を停めて、鍵をかけ、正面玄関から中に入る。


 その瞬間――


 セミの声が、消えた。


 ジリジリも、ジージーも、何も聞こえない。


 しーん、とした空気。


 足音だけが、やけに大きく響く。


(……あれ?)


 受付を見て、沙弥は立ち止まった。


 誰もいない。


 いつも人が座っている椅子も、カウンターの向こうも、空っぽだった。


「……すみません……」


 声を出すと、少し震えた。


 返事はない。


 唾を飲み込む音が、耳に響く。


 背が届かなくて、カウンターに手をかけて身を乗り出した、その時。


 後ろに何かの気配がする。


 ゾワゾワっと背中に虫が這うような感覚な広がり、その感覚が全身を包み込む。



 熱くないのに顔から汗が流れ落ちた。


 ……ポタッ……


 心臓が跳ね上がる。


 意を決し後ろを振り向いたが誰も居ない病院の椅子が並んでいた。



「…………はぁ…………」



 とため息が出た。



 もう一度受付けの方を振り向こうとした瞬間、耳元で、誰かが囁いた。




……み・つ・け・た……



 

 突然視界が、暗くなる。



 手の力が抜けて、バッグが落ちる。



 鍵が、床に零れ落ちた。



 ……カチャン…



 その音だけが、遠くで響いて――


 沙弥の意識は、夏の光から切り離された。



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未知との遭遇 秋刀魚 @ritsu_void

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