速水静香

部屋の穴

 木造二階建て、六畳一間の部屋。

 この建物の築年数は俺の年齢の二倍を超えており、いくらリノベーション工事を経ているとはいえ、その古さは隠しきれていなかった。

 西向きの窓からは、隣のマンションの裏側しか見えない。そして、キッチンとトイレにある換気扇の排気口から吐き出される空気の流れと、エアコンの室外機の低い唸りだけが、この部屋を支配していた。


 ただ、そんな部屋であっても、この俺という大学生が社会の片隅で生き続けるためには、最低限の機能を持った部屋であることは確かなことだった。


 その黒い円は、何の前触れもなく、俺の生活圏の中央に出現した。


 それは俺が昼寝から覚めた直後だった。読みかけの講義資料をばら撒いたまま、クッションフロアの安っぽい木目を眺めていた視界に、違和感が飛び込んできた。

 インクを垂らしたような黒い点。最初は虫かと思った。背筋の産毛が一斉に逆立つ。俺は飛び起き、手近にあったスリッパを持って構えた。


 動かない。


 触角もなければ、脚もない。ただ、黒い。

 フローリングの模様を無視して、そこに鎮座している。

 俺はスリッパの先端で、その黒い染みのようなものを突こうとした。

 切っ先が触れる寸前、何とも言い難い感覚に襲われる。手ごたえがない。スリッパの先端は、床の表面で止まることなく、その黒い領域の中へ、音もなく沈んでいった。


「……は?」


 喉の奥から間の抜けた音が漏れる。

 俺は慌てて手を引っ込めた。スリッパの先端を確認する。濡れてもいないし、焦げてもいない。切り取られたわけでもない。ただ、そこにあったはずの物理的な抵抗が存在しなかっただけだ。

 俺は床に這いつくばり、顔を近づけた。

 直径は、俺の人差し指の長さと同じくらい。およそ十センチメートル。

 コンパスで描かれたような、正円。

 覗き込む。床板の厚みを考えれば、基礎部分や一階の住人の天井裏が見えるはずだ。しかし、そこには何もなかった。光を一切反射しない、絶対的な黒色だけが広がっている。

 スマートフォンのライトを点灯させ、最大光量で照らしてみる。白い光の束は、穴の入り口を通過した瞬間、闇に呑まれて消滅した。底が見えない。深さが測れない。


 その時、穴の奥から空気が流れてきた。

 床下の湿った臭いではない。乾いて冷たい、生物の気配が一切ない空気。どこか遠い、人間の手が届かない場所から運ばれてきたかのような。

 本能が警鐘を鳴らす。

 これは、見てはいけないものだ。


 俺は指先が冷たくなるのを感じながら、スマートフォンを握りしめた。

 まず管理会社に連絡して――


「……いや、待て」


 通話アプリを開きかけた指が止まる。

 ここは賃貸物件だ。契約書の条項が脳裏をかすめる。故意、過失を問わず、物件に重大な損壊を与えた場合の原状回復義務。

 もしこれが建物の老朽化によるものだとしても、床に意図せず穴が開いたなどという話で、アパートの管理会社を納得させることができるだろうか?


「君、部屋で変なことしたんじゃないの?」


 そうなれば修繕費はすべて俺持ちだ。口座残高は八万数千円しかない。来月の家賃すら危ういこの状況で、金を失うリスクは冒せない。


「……見なかったことにしよう」


 俺は結論を出した。

 幸い、穴の大きさは十センチ程度だ。人間が落下する危険はない。

 俺は部屋の隅に押し込んであった、量販店で買った安物のラグマットを引きずり出し、部屋の中央、その不気味な黒点を覆い隠した。

 ラグマットの上から、そっと足で踏んでみる。僅かに足の裏に頼りない感触があるが、意識しなければ気づかないレベルだ。

 大丈夫。これで解決だ。

 俺はそう自分に言い聞かせ、逃げるようにアルバイト先へと向かった。



 日常への侵食は、聴覚から始まった。

 それから三日後の深夜。レポートの課題に行き詰まり、カフェインを過剰に摂取して覚醒した脳を持て余していた時だ。

 部屋の静寂の中に、聞き慣れない音があることに気づいた。


『……く、ちゅ……』


 粘着質な、何かが濡れたものを擦り合わせるような音。

 最初は自分の腹の虫かと思った。あるいは、壁の薄い隣人が夜食でも食べているのかと。

 だが、音源は壁ではない。足元からだ。

 俺は硬直した。視線は、部屋の中央に敷かれたベージュ色のラグマットに釘付けになる。


『……そ、り……ごり……』


 今度は硬いものを噛み砕くような音。

 咀嚼音だ。

 誰かが、何かを食べている。俺の部屋の床下、あの直径十センチの闇の中で。

 ラグマットを捲るべきか? いや、絶対に駄目だ。もし捲って、穴から何かが飛び出してきたら? もし、穴の縁に小さな指が掛かっていたら?

 俺は布団を頭から被り、耳を塞いだ。耳栓代わりのイヤホンをねじ込み、大音量の音楽で外部からの情報を遮断した。


 翌朝、俺は意を決してラグマットを捲った。

 穴は変わらずそこにあった。大きさも変わっていない。ただの黒い円だ。

 しかし、昨日までとは気配が変質していた。

 まるで、満腹の猛獣が午睡を貪っているような、静かな威圧感。

 俺は試してみることにした。

 机の上に転がっていた、消しゴムのカスを指で摘む。それを穴の真上へ運び、指を離す。

 白い粉状のゴミは、吸い込まれるように闇の中へ落下していった。

 着地音はしない。どれだけ耳を澄ませても、底に当たった音は返ってこない。

 次に、飲みかけで放置してぬるくなったペットボトルの炭酸飲料。キャップを開け、逆さにする。

 黒い液体はドボドボと穴へ流れ込む。床に溢れることもなく、全てが飲み込まれていく。

 五百ミリリットルの液体が、瞬く間に消えた。床下のどこかに水溜まりができている様子もない。


「……便利、かもな」


 恐怖の裏側から、功利心が頭をもたげていた。

 俺は試しに、コンビニ弁当の空き容器を押し込んでみた。プラスチックの容器は穴の直径よりも大きかったが、強引に手で折り曲げながら、押し込んでいくと、ずるずるとそのまま内部へ引き込まれていった。

 抵抗感は皆無。

 燃えるゴミ、燃えないゴミ、プラスチック、資源ごみ。分別にうるさいこの地域の条例も、指定のゴミ袋の値段も、ここには適用されない。

 俺は部屋中に散乱していた不用品を次々と穴へ放り込んだ。

 ポストに入っていたチラシ、壊れたヘアドライヤー、ぼろぼろの靴下。全てが一瞬で消え失せる。

 部屋は入居した日よりも片付いた。

 俺はラグマットを戻し、その上に大の字になった。

 不思議と、昨夜の咀嚼音に対する忌避感は薄れていた。むしろ、俺が食糧を提供したことで穴が満足したのだという、根拠のない確信めいたものすら覚えていた。



 一週間が経過する頃には、俺と穴との間には一種の均衡が成立していた。

 それと同時に、俺は大学への通学をやめた。外の世界が億劫になったからだ。講義室の喧騒、教授の抑揚のない声、友人たちの意味のない談笑。それら全てが、ひどく希薄で、まったく価値のないものに感じられた。

 俺の部屋には『穴』がある。

 世界のどこにも繋がっていない深淵が、俺だけのものとして存在している。その事実は、俺に背徳的な優越感をもたらした。


 夜になると、俺はラグマットを捲り、穴に向かって話しかけるようになった。

 最初は独り言のようなものだった。


「あーあ、単位が足りないな」

「今日、コンビニの店員の態度が悪くてさ」


 そんな些細な鬱憤。

 穴は応答しない。だが、言葉を吐き出すそばから、その言葉に含まれていた負の感情ごと吸収してくれるような感覚があった。

 SNSでの愚痴も、下らない友人との会話も必要ない。この穴さえあればいい。


 ある雨の夜、俺は机の引き出しの最奥から紙束を取り出した。

 就職活動のエントリーシートの下書きだ。何度も書き直した志望動機。そして、丁寧に封筒で送られてきた不採用通知の束。俺の無価値を証明する記録のように思えた。


「……もう、必要ないよな」


 紙束を穴の上空で離す。

 ひらひらと舞い落ちた書類は、闇に触れた瞬間、ふっとその存在を消滅させた。

 その瞬間、横隔膜のあたりに溜まっていた重たい塊が、嘘のように霧散した。

 記憶は残っている。だが、そこに張り付いていた屈辱の感触だけが、書類と一緒に消え去っていた。


「すごい……」


 俺はぞくりとした。これは単なる廃棄場所ではない。

 俺は部屋中を探索した。

 支払いの督促状。期限切れの資格試験の参考書。読みかけで放置した自己啓発本。俺を縛り付け、苦しめる社会的な記号たち。

 それらを次々と穴へと投げ込んだ。

 紙片が消えるたびに、俺の精神は透明度を増していった。不安も焦燥も、将来への絶望も、全て穴が処理してくれる。

 深夜になると、穴の奥からあの音が聞こえた。


『……ごり……じゅる……』


 以前よりも大きく、充足した咀嚼音。

 それは今や、俺にとっての子守唄に等しかった。

「もっと食えよ。俺の不快なもの、全部お前が引き受けてくれ」

 俺は穴の縁を指でなぞりながら、泥のような眠りに落ちていった。



 変化は、内側から進行した。


 大学に行かなくなって一ヶ月。

 洗面台の前に立った俺は、自分の顔貌を見て首を傾げた。

 痩せ衰えているわけではない。顔色はむしろ良く、肌は陶器のように滑らかだ。

 だが、眼球が変だ。

 死んでいるのではない。「空」なのだ。瞳孔の奥に在るべき、意志や感情といった輝きが、きれいに欠落している。

 俺は口角を上げてみた。

 筋肉は収縮する。表情は作れる。だが、そこには何の情感も伴わない。

 まるで、表情筋だけが勝手に動いているような、中身のない笑みだ。


「……俺、何をしていたんだっけ」


 ふと、疑問が湧いた。

 空腹を感じない。

 最後に食事を摂ったのはいつだ? 三日前か、四日前か。記憶が曖昧だ。空腹感という生理的なシグナルそのものを、あの穴に廃棄してしまったような気がする。

 眠気もない。性的な衝動もない。怒りも、悲しみもない。

 ただ、凪いだ海のような平穏だけがある。

 それは解脱した高僧の境地に近いのかもしれないが、決定的に異なるのは、俺の中身が空洞だということだ。


 俺はラグマットを蹴り飛ばし、穴と対峙した。

 黒い円は、以前よりも僅かに拡大しているように見えた。あるいは、俺の部屋そのものが収縮して、相対的に穴の占有率が上がっただけかもしれない。


 穴の中から、思念が伝わってきた。


『……もう、在庫切れか?』


 音ではなかった。それは耳という感覚器を介さない、脳髄へ直接入力される信号。

 性別も年齢も判別不能な、意味の塊。


「在庫?」


 俺は乾いた声で問い返した。


「何の話だ」


『……おまえを、地上に関連付けるもの。おまえを、不自由にするもの』


 俺を関連付けるもの。

 俺は室内を環視した。

 家具はほとんど処分してしまった。衣服も、書籍も、趣味の道具も。

 今やこの空間に存在するのは、俺という有機体と、この穴だけだ。


『……まだ、残っているだろう』


 穴が嘲笑した気配がした。

 風が吹き上がる。

 その風は、甘美な芳香を孕んでいた。熟れすぎて崩れ落ちる寸前の果実のような、頽廃的な匂い。

 招かれている。

 俺は立ち上がり、穴の縁につま先を揃えて立った。


 社会的な責務、他者との関係性、過去の蓄積、感情の起伏、生理的な欲求。

 全て廃棄した。

 全て軽くなった。

 だが、まだ重力が俺を捕らえている。


 俺は自分の手のひらを見つめた。

 骨格と筋肉と皮膚で構成された、この不格好な質量。

 物理法則に縛られ、酸素を浪費し、空間を占拠するこの身体。

 これこそが、最大の不用品ではないか?

 俺が俺という個体を維持する限り、俺は苦痛を感じる可能性を内包し続ける。

 この肉体があるから、飢えが生じる。この脳髄があるから、憂鬱が生まれる。この心臓が拍動しているから、死への畏怖が形成される。


「……そうか」


 俺は理解した。

 複雑に絡み合った方程式が、たった一つの解に収束していく快感。


「俺自身が、余剰だったんだ」


 この空間において、完全なる静謐と虚無を完成させるために、唯一残された不純物。

 それが俺だ。


 俺は穴の前に膝を折った。

 恐怖心は微塵もなかった。

 むしろ、長く待ち望んでいた帰還の喜びに近い。

 あの中へ移行すれば、もう二度と、家賃の支払いに頭を抱えることもない。就職活動に怯えることもない。人間関係の摩擦に磨り減ることもない。

 絶対的な自由。絶対的な消失。


「じゃあな」


 誰に向けるでもない別れの言葉を口にし、俺は頭部を床面に近づけた。

 直径十センチの円。

 常識的に考えれば、成人の頭部が通過できるはずがない。頭蓋骨は硬い。

 だが、そんな物理的な制約は、こちらの世界のルールに過ぎない。

 俺は躊躇なく、額を黒い円に押し付けた。


 ずるり。


 予想通り、抵抗はなかった。

 頭部が、熱を帯びた蜜蝋のように柔らかく変形し、穴の中へ流動していく。

 苦痛はない。

 むしろ、全身の細胞が歓喜の歌を歌っているのを感じた。

 狭い通路を抜けて、本来あるべき場所へ収納されていく安堵感。

 視界が闇に覆われる。

 耳元で、あの咀嚼音が盛大に鳴り響いた。

 肩が沈み、胸が沈み、腰が沈む。

 俺の体は、物理的な体積を保ったまま、不可能なサイズの穴へと吸引されていく。

 足の先が床を離れた瞬間、俺は直感した。

 ここが捕食者の消化器官なのか、それとも別の次元への出口なのかを。

 だが、そんな定義はどうでもよかった。


「なんだ、もっと早くこうすればよかった」


 深淵の中で、俺の意識が拡散していく。

 自己という感覚が曖昧になり、闇の一部へと同化していく。


 思考が途切れる直前、俺は気づいた。

 穴が嗤っている、と。


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