知らない

きせのん

第1話

 ジャメヴ。

 知らないはずのものを見たことがあると感じるデジャヴとは逆に、知っているはずのものを見たことがないと感じる現象。

 何回も調べても、この言葉を覚えていられない。まるで、言葉の意味をそのまま表すかのように––というのは流石に考えすぎか。単純に、覚えられないだけだ。


 そのはずなのに、何故だか今日はむしろ自然と頭に浮かんできた。

 パソコンに向かって仕事をしているときから、微かに意識の隅の辺りに居座って離れない。

 何度か払いのけてみても、またいつの間にか戻ってきている。

 どうしてだろう。

 私は満員になった地下鉄の中でスマホを取り出す気にもなれず、目を閉じてじっくり考えてみる。

 無意識のうちに、同僚が話しているのが耳に入っていたのだろうか。それとも、読んだもののどこかに似た並びがいたのだろうか。


 元々あまり期待はしていなかったし、思い出せることも無さそうだ。

 立っているにもかかわらず、少し心地の良い眠気に意識が覆われてきた。多少疲れているのだろう。

 何か特別なことがあって、今日だけ疲れているのではない。昨日も一昨日も、こんな感じだったと思う。

 もう木曜日と言うべきか、まだ木曜日と言うべきか。また明日も、こうして満員電車に身体を押し込んで仕事へ出なければいけない。

 残暑も収まって、人々の汗の臭いが気にならなくなったことだけが救いだ。


 電車に揺られていると眠くなるのに、アパートへたどり着く頃には眠気が霧散しているような気がする。

 この揺れが睡魔を呼んでいるのかもしれない。

 ふと、学生時代を思い出す。

 あの頃も、授業中は眠いのに放課だけは元気だよねって笑いあったっけ。

 最近では前ほど思い出さなくなってしまったけれど、懐かしい、暖かい記憶。


 ––そんな思いに沈んでいると、電車のアナウンスが意識に飛び込んできた。

 これまでもずっと聞こえていたはずだけれど、きちんと目的地のときだけ耳に入ってきた。

 最寄り駅の名前にだけきちんと反応するのだから、人間の脳というのは偉いと思う。

 自分の名前ならばまだ納得がいくけど、数年しか住んでいない場所の最寄り駅でも認識できるのだから。


 駅の階段を上ると、ようやく涼しさを感じられるようになってきた風が心地いい。

 そういえば、眠気が醒めるのは涼しいせいかもしれないな。


 駅のすぐそばには色々な飲食店が並んでいて、まだ賑わいもあった。

 しかし一本裏に入ると、辺りは閑散としている。

 寂しさも無いと言えば嘘になるが、流石に慣れているので特段強く感じることもない。

 ––はずなのに、この身体が冷えるような感覚は何なのか。

 風のせいだと思うことにして、足を速める。


 ほぼ毎日通る道。それがなんだかいつもより長く思えて、顔を前に向ける。

 ––あれ?

 微かな違和感。この道はこんなにも曲がっていただろうか。

 いつも、もっと先が見通せていたと思うのだけど。

 まあ、そんなことを言っても目の前の景色は変わらないし気のせいだろう。

 ただの勘違い。それだけのはず。

 未視感。ふとその言葉に意識が収束した。

 よく知っているはずなのに、どこか別の街へ来てしまったような感じもする。

 そういえば電車の中だろうか、いつの間にかさっぱり忘れていた言葉が、また意識に戻って––来なかった。

 なんだっけ、あの言葉。デジャヴと似た語感の、でもよく見ると大して似ていない、対義語の。今を的確に言い表していると思うのだけど、思い出せない。

 今日はあんなにも脳裏に貼りついていたのに、いざ引っ張り出そうとするときになって出てこない。

 忘れられなかった言葉の代わりにしこりのような思いを抱いたまま、ただ歩き続ける。


 曲がるところは、果たしてここで合っているのか。見覚えがあるような、それでいて初めて見るような心許なさが歩みを遅らせる。

 もうしばらく住んでいるというのに、地図アプリを出して帰り道を確かめてしまう。

 どうやら、たしかにここで合っているらしい。

 進んでも相変わらず、何か間違えているという感覚が消えない。

 何か忘れている気がするのに、何を忘れているのか全く思い出せない。そんな、底の見えない不安がまとわりついてくる。

 忘れるようなのは大事なことじゃないから、と今の状況には的外れな励ましを向ける。

 足を速めようとしても、もうあまり速くはならなかった。


 なんとか家にたどり着いて、と思ったけれど、壁の時計を見るとあまり普段と時間は変わらない––いや。

 時計の位置は、あんなに高かっただろうか。毎日、こんなにも見上げていただろうか。

 分からない。

 記憶も感覚も曖昧で、何を信じたらいいのか分からない。

 机の位置は本当にこの場所だったか。棚の段はこんなにもあったか。

 疑いだしたら全てが違うように思えてきて、もう何一つ考えたくはなくなってくる。

 目に入る全てが怖くなって、ご飯もお風呂も済ませないまま倒れ込むようにベッドへ入った。

 一瞬で意識を手放した直前に浮かんだのは、ベッドの感触への違和感だった。



 翌朝。普段通りの時間に起きた私の目に入ってきたのは、昨日と何ひとつ変わらない部屋だった。

 けれど、周りの何にも変な感じは覚えない。

 昨日は、あんなにも全てが違うように思えたのに。

 その、完璧に普段通りなのが逆に気持ち悪い。

 昨夜の私と今の私が本当に同じ人間なのか、私自身でさえも信じられなくなってしまった。

 まるで、記憶はそのままに感覚だけがすげ替えられてしまったよう。

 本当の自分はこうではないとでも言うように、少し浮いている気分。

 どこか他人事として目の前の景色を見ている。


 結局、見覚えのないような感じがすることを何と呼ぶのだったか。

 もう思い出せないし、これから先も、思い出せることはないと思う。

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