黒板に書かれた名前を、呼んではいけない
沙知乃ユリ
黒板に書かれた名前を、呼んではいけない
黒板の左隅に書かれたその名前を、
誰も呼ばなくなって半年ほどが経つ。
それでも、その名前は消されなかった。
秋に入り、グラウンドから響く生徒の声は少なくなった。
代わりに強い風が教室の窓をガタガタと揺らす。
制服は長袖になり、
教室の後ろにはヒーターが設置された。
みんな、受験勉強に本腰を入れ始め、
景色も気持ちも、雰囲気はガラリと変わった。
変わらなかったのは、黒板の左隅に書かれた、あの名前だけだ。
〇〇 〇〇。
白いチョークで書かれた〇〇 〇〇の文字は、
やや斜めに傾いて、黒板の左隅を占拠していた。
初めの異変は今年の春だった。
高校三年の始業式の日の放課後。
囲碁部の男女二人が、
ふと、黒板の隅に、見慣れない文字があることに気がつく。
だが、よく読めない。
目の前に立った途端に “〇〇 〇〇”、と読めるようになった。
彼は思わず “〇〇 〇〇”と口にしてしまった。
翌日、その男子は学校に来なくなった。
身内に不幸があったらしい。
彼の言葉を、女子は聞き取れていなかった。
当初、黒板の”〇〇 〇〇”と彼の身内の不幸を結びつける人間は誰も居なかった。
だが、その後も黒板の名前を口にする人が、時々居た。
あるときは偶然に、あるときは好奇心のままに。
名前を呼んだ同級生はみんな、
身内、もしくは本人に不幸が降りかかった。
そして、学校に来なくなる。
そうして教室には、
治らないインフルエンザのように、
ポツポツと空席が浮かんでいた。
あそこに居た奴は、どんな顔だったか。
何故か思い出せなかった。
そして、そのことに大して疑問も感じなかった。
夏の終わり頃には、あの名前を呼ぶ人は誰もいなくなっていた。
当然だろう。
あの名前を呼ぶと、自分か家族に不幸が起きるのだ。
偶然?呪い?
何にしても普通は関わらない。
だけど俺は、最低の父親のもとに産まれた不幸を既に抱えていた。
何もかも思い通りに支配したい親父は、
母さんにも俺にも、
食事の摂り方から息の仕方まで、
指図せずにはいられない男だった。
そんな親父に愛想を尽かして、母親は出ていってしまった。
俺を置いて。
母さん・・・・・・
俺が不幸に逢えば、きっと母さんは帰ってくる。
親父が不幸になったら、俺は母さんのところに行ける。
何度も考えて、最後には同じ結論にたどり着いた。
きっとみんなも、俺の立場になれば同じ考えを持つだろう。
放課後、誰も居なくなったら、あの名前を呼ぶ。
そう心に決めて、黒板をそっと見つめた。
ふと、視線を感じて振り返ると、
廊下から剣道部の後輩女子が俺を見ていた。
目が合うと、彼女はニコリと笑った。
なんだろう?
ブーッブブ。
俺のスマホが震えた。
メッセージが届いている。
・・・・・・後輩女子だ。
「放課後、ちょっとだけ付き合ってください」
顔を上げると、彼女はもう居なかった。
スマホを持つ俺の手が、少しだけ熱くなっていた。
後ろの席から聞こえる受験の話題が、遠い世界の話に感じられた。
いつの間にか夜が長くなり、雪が世界の綻びを覆い隠すようになった。
黒板の隅には、まだあの名前があった。
しかし、もはやその存在を、誰も気に留めていなかった。
誰も名前を呼んでいないのに、教室内には空席が増えていた。
授業に出るよりも自習や塾に行く生徒が増えたのだ。
名前を呼んで来なくなった人と
自主的に来ない人の空席は、
もはや誰にも区別がつかなくなっていた。
初めから誰も居なかったかのように、
みんな気にも留めていなかった。
高校生というモラトリアムの終わりを前に、
それぞれの進路に向けて舵を切っているのだろう。
ブーッブブ。
「着きました」
廊下に視線を向けると、
媚びるような顔をして、気弱そうな女が立っていた。
俺は、わざとため息をついて、廊下へ向かう。
俺の動きに反応して、女は身体を固くし、頭を下げ、謝罪の言葉を呟く。
何に対する謝罪なのか、誰にもわからなかった。
ただ、俺と女が正常な関係でないことだけは確かだった。
宙に浮いた「ごめんなさい」は、暫く二人の間を漂い、白くなって雪に溶けた。
女は、俺が言葉にしなくても、
勝手に俺の想いを汲み取るようになっていた。
思い通りにならないときは、大げさにため息をつき、
拡張された俺の手足として女を動かす。
俺の一挙手一投足が女を締めつけた。
その暗い快感に、いつしか抗えなくなっていた。
俺自身も、何かに縛られているのだろうか。
鏡に映る自分が、父親に重なって見えた。
酸っぱい匂いが込み上げ、天井が回った。
トイレに駆け込み、胃の中を空っぽにする。
俺は、名前を呼ばない。
その晩、俺は夢を見た。
気づくと、俺は巨大なステージの前に立っていた。
空は夜なのに明るく、
無数の提灯がぶら下がっている。
全部、緑色で、一文字ずつカタカナが刻まれている。
並べると、「コバルトヤドク」と読めた。
ステージの上では、
青いカエルのアイドルが歌っていた。
五匹いる。
全員、同じ顔で、
同じ笑顔で、
同じ動き。
腹の部分に、
大きな番号が白で書いてある。
一。
二。
三。
四。
五。
観客席には、
カエルとオタマジャクシがぎっしり詰まっている。
数え切れない。
音楽が始まる。
ドン、ドン、ドン、ドン。
観客は、
番号に合わせてジャンプする。
一で跳ぶやつ。
二で跳ぶやつ。
三で跳ぶやつ。
規則正しい。
気持ちがいい。
俺も跳ねてみる。
ドン、
ドン、
……ドン。
一拍、遅れた。
その瞬間、
周囲のカエルたちが、
何事もなかったように前を向いた。
誰も俺を見ていない。
気のせいだと思って、
もう一度、跳ぶ。
ドン、ドン、ドン。
今度は合った。
安心した、その拍で、
ステージの中央にある席が目に入る。
アイドル用の椅子だ。
五つあるはずなのに、
一つだけ、少し離れた位置に置かれている。
誰も座っていない。
アイドルは歌いながら、
その椅子を一度も見ない。
フォーメーションが変わる。
四匹だけが前に出る。
残りの一匹は、
最初から居なかったみたいに、
数に入らない。
観客は盛り上がっている。
コールが始まる。
一!
二!
三!
四!
五が、来ない。
俺が「五」と言おうとした瞬間、
隣のオタマジャクシが、
俺の口元をじっと見てから、
目を逸らした。
声が出ない。
代わりに、
音楽だけが続く。
ドン、ドン、ドン、ドン。
でも、
拍手の数が合わない。
パチ、
パチ、
パチ、
パチ、
……パチ。
一つ多い。
ステージの照明が強くなり、
アイドルの顔が、
全部、同じ顔に見える。
父の顔だった。
次の瞬間、
観客席に空席が一つ、
音もなく増えた。
誰も気づかない。
俺だけが、
そこを見ている。
嫌な汗で寝間着がぐっしょりと濡れていた。
シャワーを浴びて、学校に行く。
一限目ギリギリで教室に到着した。
ふと、違和感を覚えた。
日課のように確認していた、あの名前が黒板から消えていた。
そして、教室が全て埋まっていた。空席がない。
みんな、居る。
でも、俺はひとりだった。
黒板に書かれた名前を、呼んではいけない 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane
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