最愛なる君へ

夏目凪

最愛なる君へ

 未だに私から様々なものを奪ったあの日から抜け出すことが出来ていない。

 君は食堂の食事を犬食いしている。スプーンの持ち方もメチャクチャで、口の端からは食べきれなかったものが溢れている。だから、懐から取り出したティッシュでその口を拭った。嫌いだった。こういう食べ方をする人は。

「美味しい?」

「うん!」

 小さな子どものような明るい返事をする。いや、事実君の目には煌めく世界が映っているのだろう。私には受け止められない宝石のような美しさ。または、子どもが一生懸命作った泥団子の尊さのようなものを今の君は抱えている。

 上げづらい利き手で君の頭を撫でた。君は首を掲げて、どうしたの、なんて言った。君の目に見えているのは、誰なのだろうか。お姉ちゃんか母親か、少なくとも数年間を君の隣で過ごした私でないことは分かる。だって、今の君と私は出会ってないのだから。

 食事が終わったあと、君と公園に行った。そこは小さな公園で丁度ベンチが木陰に隠れていたからそこに座った。平日の昼なので、まだ子どもはいなかった。君は楽しそうに砂場で遊んでいる。

「楽しい?」

「うん!」

 君は綺麗な泥団子を見せてきた。その手にはもう小さな泥団子。けれど、君の輝かしい笑顔にはよく似合っていた。

 君は両手に泥団子を持ってこちらに来た。一つ受け取ると手の上で崩れた。君が渡すときに強く握ってしまったようだった。

「ごめんねえ。壊しちゃった」

 君は仕方がないなあというように、もう一つ渡してきた。そして一旦砂場に戻り、自分の分の泥団子を持ってもう一度こちらに来た。

「おそろい!」

 褒めて褒めてと胸を張る君は今日も可愛らしい。頬についた砂を拭った。その頬は角ばっていて明らかに大人の頬であるのに、君は余りにも幼かった。私の所為だった。私がいなければ、多少怪我はあったとしても、君は普通の生活を送れていた。全て、私が悪かったのだ。その癖、私は利き手の麻痺だけで終わった。それが余りにも理不尽だった。

「良く出来てるね」

「いっしょやろう。みせてあげる!」

「ごめんね。私はここに居たいんだ」

 君はふてくされて砂場に戻っていった。天辺から全てを照らす太陽が肌に痛い。まるで責められているようだった。それは責められたい私の幻想だということも分かっていた。

 包帯の上から腕を抓った。それは無意識のことで、視界の端に入って初めて認識する。包帯を外すと、大量の傷跡が覗くけれど、どれも痛みを発することはなかった。もう、その手は鈍くて仕方がなかった。

 泥団子を潰してしまわないようにそっと麻痺のない手に移そうとしたら、力の抜けた手から零れて地面でぐしゃぐしゃになった。君が見たら泣いてしまうだろうか。それは、とても悲しいことだった。

 公園の時計はいつの間にか二時を差していた。

「あ、テレビに出てた人たちだ!」

「こんにちは。……その、大丈夫ですか?」

 時によって、子どもの正直な残酷さよりも、大人の親切に傷つくことがある。その目に宿るのは哀れみや同情といった上から目線の感情で、少しの好奇心も見え隠れする。本当に気分が悪かった。

「おねえさんのせいなんでしょ。おにいさんがああなっちゃったのは」

「こら、結城! そんなこと言わないの。ごめんなさいね。小さな子どもでまだ善悪の区別がつかなくて」

 ああ、そんなの分かるよ。自分と違う人を見て、変なの、と言ってしまう小学生はいるし、大人でさえ見た目の劣った人を軽視することもあるのに、子どもにその判断がつくはずもない。それでも、少し叱っただけでなんの説明もせず野放しにする親を許すことだって出来なかった。

「私の所為ですよ。私が助けようとして、彼を地獄に落としたんです」

 一呼吸だけ置いて続けた。

「そして、そんな失礼な発言をさせているのは貴方の所為でしょう。子どもだからではなく、貴方が育てた所為なのでしょう。なら、子どもの未熟さに甘えてはいけないんじゃないですか。しっかり叱らないと、私みたいになりますよ」

 君は、私の彼氏だった。帰り際、君に向かっていく車から君を助けようとして、けれど私のその行動のせいで君の脳は傷つき、記憶を失った。私は君から君を奪った。

「もう人が増えてきたから帰るよ」

「えー、まだ遊びたい」

 君は頬を膨らませた。君の額に私の額を合わせた。もうきっと、二度と来れないから、これが最後だから、そんな免罪符で君にキスをした。君はにへらと笑った。初めて見る笑顔だった。

 病室に戻れば、君は口をきかなくなった。私が君の希望を無視して連れ帰ってきたことが気に食わなかったらしい。

 病室の外で舞う桜が綺麗だった。それは外の悪意から君を守っているようだった。

「じゃあ、私はもう帰るから、いい子にするんだよ」

 私がそう言うと、君は勢いよく顔を上げた。

「れい!」

「れい?」

「うん。れいでしょ。おねえさんのなまえ」

 それは私の名前だけれど、君が知るはずのないものだ。期待も、無い物ねだりもいけない。

 君は私の手を握った。君は、私の手のひらを親指で押すのが好きだった。変わっていない癖が、手のひらの感覚を思い出させる。君は爪を当てないように、親指の腹で緩く押すのだ。指で押し込む度に愛を感じていた。

「ごめ、ん。……ごめんね」

 君の頭を抱き寄せた。腕の中で純粋に笑う君がひどく悲しかった。あの頃の君を求めてやまないのに、私のせいで二度と戻ってくることはない。彼の世界は壊れ、私の世界も修復不可能なほどにヒビが入っていた。あの頃、を君に求めれば求めるほど、私は傷ついていくのに、それ以外の向き合い方を私は知らなかった。

「だいじょうぶ。大丈夫だよ」

 君の声は大人びて聞こえた。そして君は私の体を抱きしめ返した。君の温かさも感触もあの頃と同じで、それでもどこか違かった。私と君の間には、二度と埋まらない後悔がある。暗い影がある。やはり涙が止まらなかった。


 最愛なる君へ。どうか、命尽きるその時まで君が幸福でありますように。


 その瞬間は思ったよりも早く来た。まだ学校にも行けず家に籠もっていた時、病院から電話がかかってきた。それは、君の危篤の電話だった。昨日までは元気に話していたのに、君がいなくなってしまいそうだなんて考えたくもなかった。

 春の陽気が煩わしい。ほとんど散ろうとなお美しさを保っている桜が恨めしい。被害妄想というのは大抵碌な仕事をしない。私は余計な考え事をしながら急いで病院に向かう途中で赤信号を突っ切ろうとして車に撥ねられたらしい。病室で目を覚まして、看護師からそう説明を受けた。私は君の死に目に会えなかったようだった。

 小さく息を吐いた。もしかしたら会えない方が良かったのかもしれない。私には君に見せる顔がなかった。そもそも君の家族からは疎まれているのだから、行ってはいけなかったのかもしれない。

 その頃、君のお母さんが見舞いに来た。その手には大きな紙袋が握られていた。嫌な顔をしながらも、それを私に手渡した。君の部屋にあって、捨てるにも捨てられず持ってきたらしかった。それは、たくさんのラブレターだった。私に渡そうとして、渡せなかった愛の束だった。そこで語られている愛は、あの頃の愛だった。そして、その手紙の上で踊る「冷」という文字が嬉しかった。君が私の名前を呼んだあの時、嘘だと思ったあの瞬間はあるべくしてあったのかもしれない。必然であればそれはどんなに嬉しいことだろう。

 ベッドの上に散らばった手紙に涙が零れないように横を向いた。窓の外では花が完全に散った桜の木の新緑が青々と輝いていた。それは君がくれた愛のように暖かかった。

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