先生デビューしたら83日で壊れた話

しげみちみり

先生デビューしたら83日で壊れた話

 私の部屋の壁は、今、黄色い。

 ペンキを塗ったわけではない。付箋である。黄色い付箋が、壁一面にびっしりと貼られているのだ。しかもその付箋には、全部、黒い油性ペンで「死にたい」と書いてある。

 数えてみたら百八十枚あった。

 なんでこんなことになってしまったのか。それを説明するには、少し時間を巻き戻す必要がある。


    ◇


 私は今年、三十六歳になった。

 発達障害(ASDとADHD)の診断を受けたのは三十歳のときで、それまでに四つの職場を転々としていた。どこでも長続きしなかった。いつも「逃げるように」辞めていた。

 一つ目の会社では、四十代の女性社員に目をつけられた。「あなたさ、どうしてそんな簡単なことも分からないの」と毎日のように言われた。そのうち、社内システムのカードを隠されたり、倉庫に閉じ込められたりするようになった。極めつけは、同期の男性が自ら命を絶ったという知らせを聞いた朝、私はもう無理だと思って有休を使い切って退職した。

 二つ目の職場では、五十代の男性社長と二人きりで働いた。飲み会や食事に誘われるのを全部断っていたら、ある日突然「お前みたいな変なやつは初めてだ。出ていけ」と怒鳴られた。泣きながら事務所を出て、夜中に私物を取りに戻り、そのまま二度と行かなかった。

 三つ目はパート、四つ目は正社員。どちらも人間関係で躓いた。パニック発作が出るようになり、電車にもバスにも乗れなくなった。食事も喉を通らなくなり、夜はソファに座ったまま浅い眠りを繰り返した。

 そんな私が、なぜか教員採用試験を受けてしまったのである。


 きっかけは、県の教育委員会のホームページだった。「教員(講師)の障がい者雇用に関する募集」という文字を見つけたのだ。

 障害者雇用促進法という法律があって、企業や自治体は一定割合の障がい者を雇わなければならないらしい。そして「合理的配慮」というものをしなければならないらしい。段差のある場所にはスロープをつけるとか、文字の小さな資料は拡大するとか、そういうやつだ。

 「教員の障がい者雇用なら、配慮があるかもしれない!」

 今思えば、なんと甘い考えだったことか。でも当時の私は、「自分がしんどかった分、しんどい子の使う言葉が分かるかもしれない」と本気で思っていたのである。


 二〇二五年三月二九日、合格の知らせが届いた。

 電話口の声は淡々としていた。「小林さん、とある中学校に行っていただきたいのですが、行けますか」。相手は学校名を言わなかった。情報保護のため、イエスかノーかの返事のあとでなければ伝えられないという。

 母と相談した。「せっかく受かったんだから、やってみればいいじゃない」と母は言った。父は「まあ、香織が決めていいんじゃないかな」と短く言った。それでも私は知っている。父が「お父さんも、しばらくは小林先生って呼ぼうかな」と照れくさそうに言ったときの、口元のわずかな緩みを。従姉は東大を出て大手企業で働いている。比較され続けてきた時間の中で、その一言は確かに私を支えていた。

 だから私は「行きます」と答えた。


 その返事のあとで告げられた勤務校の名前を聞いたとき、胸の奥で何かがざわついた。

 母校だった。

 小学一年生のころから続いていたいじめ。「小林菌」のタッチゲーム。中学三年の受験期に体重が三十三キロまで落ちた拒食症。校舎の匂い、廊下の光、教室の窓。思い出したくない風景のほとんどが、その学校と結びついていた。

 「本当は行きたくない場所なんだよな」。電話を切ったあと、心のどこかでそうつぶやいた。

 でも、教員免許以外に資格のない私に、選べる道はそう多くなかった。いや、ほとんどなかった。というか、なかったのである。


    ◇


 四月一日、初出勤。

 午前八時三十五分から初めての職員会議が始まった。新任の先生たちが順番に紹介される。みんな若くて爽やかだった。私は一番最後に呼ばれた。「最後に小林先生、前へ」。

 前に出る。足がガクガクしている。

 「小林香織です。今年度から、英語を担当します。特別支援学級の担任と、一年生の副担任を務めさせていただきます」。

 ここまではよかった。問題はこの先である。

 「私は、障がい者雇用での採用です。発達障害の診断があります」。

 言った瞬間、職員室の空気が「ピタッ」と止まった気がした。

 みんなの顔を見る。驚いた顔、困った顔、無表情を装った顔。どれも私にとっては読み取りにくい顔だった。ただ一つはっきりしていることがあった。「わーい! 障がい者雇用の先生だー! やったー!」みたいな顔をしている人は、一人もいなかったのである。

 まあ、そうだよね。


    ◇


 職員会議のあと、教頭に応接室に呼ばれた。

 「今年度、小林先生にお願いしたい担当です」と言って、一枚の紙を差し出された。

 その紙を見て、私は目が点になった。

 特別支援学級の担任。一年一組・二組の副担任。英語の授業と情緒学級の「自立」と「英語」、道徳と学活と総合学習で、週二十コマ。図書委員会の主任。生徒会担当。特別支援コーディネーター。ICT推進委員。その他の校務分掌一つ。運動部の部活動顧問。そして、初任者研修が二週に一度。

 え? 全国の中学校教員の平均授業コマ数って、週十八くらいって聞いたことあるんだけど? それを二コマも上回ってるんだけど? しかも校務分掌が山盛りなんだけど? 部活もあるんだけど? 研修もあるんだけど?

 私は恐る恐る口を開いた。

 「あの……校長先生にも相談したんですが、校務分掌を少し減らしていただけると助かります。あと、空きコマを一時間だけでも作っていただけると……」。

 教頭は優しそうに頷いた。でも次の言葉で、私の希望は砕け散った。

 「うちは本当に人が少ないんです。小林先生の負担を減らせば、その分、他の先生にしわ寄せがいってしまう」。

 あ、これダメなやつだ。

 「今年度は、とりあえずこの配置でスタートさせてください。やりながら、もし本当に無理が出てきたら、そのときまた相談しましょう」。

 やりながら。無理が出てきたら。

 その「無理」がどの段階を指すのか、全く示されないまま、会議は終わった。


 でも教頭は、最後にこう言った。

 「小林先生は、県で初めての精神障がい者雇用の教諭なんです。県教委としても、正直、手探りの部分が大きい。だから、小林先生にはパイオニアになってもらわないといけない」。

 パイオニア!

 なんか響きはかっこいいけど、要するに「やってみないと分かりません」ってことだよね? 「うまくいったら実績になるし、失敗したら個人の問題ってことで」ってことだよね?

 私の頭の中に、実験用のマウスの姿が浮かんだ。

 いや、私がマウスなのか。


    ◇


 その日から、私の戦いが始まった。

 まず困ったのが、「適宜よろしく」という言葉である。

 四月二十二日の職員会議で、「来週の県一斉テストの監督について」という議題が出た。教頭が言った。「監督の先生は、生徒が不正行為をしないように、適宜見回ってください」。

 適宜。

 適宜って何?

 ASDの特性を持つ私にとって、この「適宜」という言葉は、霧の中を地図なしで歩けと言われているようなものだった。

 不正行為を見つけたら、どうすればいいの? その場で答案を回収するの? 注意だけにとどめるの? 何分おきに見回ればいいの? 前から? 後ろから? 教室の端っこにずっと立ってるの? それとも歩き回るの?

 他の先生たちは「はい」と短く返事をして、特に動揺した様子もなく次の議題に進んだ。

 ああ、みんな分かってるんだな。分かってないのは私だけなんだな。

 その夜、私は「定期テスト監督マニュアル」というノートを作った。「8:50 教室に入る」「8:54 トイレに行く人は今のうちに」「8:55 席についてください」。時間と動作と使うべき言葉を、一分刻みで書き出していった。

 気づけば、時計の針は零時を回っていた。

 授業案もまだできてない。ワークシートもまだ。特別支援の個別指導計画も書いてない。

 睡眠時間が、また削られていく。


    ◇


 そんなある日、職員室で面白い話を聞いた。

 「この校区の小学校に、川島先生っていうベテランの先生がいるんですよ」。

 川島竜彦。

 その名前を聞いた瞬間、私の中で何かがビクンと動いた。

 小学六年の時の担任の名前だったからだ。


 私は小学校時代、いじめられっ子だった。「小林菌」と呼ばれて、誰も机を近づけてくれなかった。だから放課後、誰もいなくなった教室で、黒板を拭いたりプリントを整理したりしていた。「ここにいてもいい理由をつくりたい」という気持ちに近かった。

 その姿を見ていてくれたのが、川島先生だった。

 卒業を控えたある日、先生が声をかけてきた。「小林さんは、本当は優しい子なんだよね。先生は、ちゃんと分かってるから」。

 「分かってる」と言われたことが、どれほど嬉しかったか。

 卒業式の日にもらった色紙には、「頑張り屋」と書かれていた。私が教員を目指したのは、「川島先生のような先生になりたい」という思いがあったからだ。


 ある日、生徒が川島先生の写った卒業式の写真を見せてくれた。

 「この人、担任の先生?」。

 「はい。川島先生っていうんです。めっちゃ面白くて、優しい先生でした」。

 同じ先生だ!

 私は興奮して言った。「私も、小学六年生のとき、川島先生が担任だったんだよ!」。

 そして生徒に頼んだ。「今度会ったら、私のことを伝えてくれる? 『中学校で英語教えてる先生は、昔、川島先生の教え子だったらしいですよ』って。名前は小林香織。もし覚えていたら、『頑張り屋って書いた色紙、まだ持ってます』って言ってくれたら嬉しいな」。


 数日後、生徒がやってきた。

 「先生、川島先生に伝えたよ!」。

 「ありがとう! なんて言ってた?」。

 「『誰? 小林香織? わかんないなあ』って言ってました」。

 ガーン。

 「忘れちゃったのかな、だって何百人も生徒見てるしねって、川島先生笑ってましたよ」。

 ガーン、ガーン。

 そりゃそうだ。先生は毎年三十人の生徒を三クラス担当して、二十年で一八〇〇人。その中の一人を覚えているわけがない。頭では分かる。

 でも心は別のことを言っていた。

 「私にとって、川島先生は唯一の人だった。でも先生にとって、私は数百人の中の一人でしかなかったんだ」。


 その夜、私は壁に付箋を貼った。

 「川島先生は私のことを覚えていなかった」。

 「私は誰にも覚えられない」。

 「私は誰にも必要とされていない」。

 「死にたい」。


    ◇


 講師として働いていた一年目の話もしておこう。

 ある朝、目を開けたら天井がぐるぐる回っていた。熱を測ると三十八度を超えていた。でも「休む」という選択肢が頭に浮かばなかった。

 なぜなら前に一度休んだとき、「あなたが休んだから、昨日は学年の先生が全員空きコマゼロだったのよ」と言われたからだ。

 ――休むと他の先生が空きコマゼロになる。

 ――だから、休んではならない。

 その図式が、私の中で「絶対の規則」になっていた。


 でもその朝だけは、身体が動かなかった。母に促されて、布団の中から学校に電話をかけた。「すみません。体調不良で、本日、お休みをいただけないでしょうか」。

 翌日、熱が下がりきらない身体を起こして学校へ行った。

 午前中の授業を終えたところで、英語科の先輩に声をかけられた。「小林先生、資料室に来てくれる?」。

 資料室に入ると、赤塚千代子先生が立っていた。六十代後半の再任用の先生で、英語科では最年長だった。

 「小林先生、昨日、休んだわね」。

 少しの沈黙のあと、先生はゆっくりと口を開いた。

 「私たちの時代はね、オエオエ言いながらでも学校に来ていたわよ」。

 オエオエ!

 衝撃の一言だった。

 「体調管理も仕事のうち。教師にとって体力は資本よ」。

 「すぐに『具合が悪い』って言って休んでいたら、いつまでたっても一人前にはなれないわ」。

 先生は最後に少しだけ声を柔らかくした。「小林先生、あなたのために言っているのよ。先が長いんだからね」。


 資料室を出て、私はトイレに駆け込んだ。

 個室の鍵をかけ、便座に腰を下ろした瞬間、涙が出そうになった。でも声を出して泣くわけにはいかない。誰かに聞かれたら困る。

 私はスラックスの上から太ももを強くつねった。痛みで涙を引っ込めた。

 ――私は弱い。

 ――赤塚先生は正しい。

 「オエオエ言いながらでも学校に来ていた」という言葉が、頭の中でぐるぐる回った。


 ちなみに赤塚先生は、決して悪い人ではなかった。むしろ優しい人だった。テスト問題を作るとき、去年の問題のコピーをくれた。「過去完了形の授業、見学に来たらいいわよ」と言ってくれた。自作のワークシートを何十枚も譲ってくれた。

 先生にとっては「愛のムチ」だったのだろう。

 でも私にとっては、「逃げ道を塞がれる言葉」だった。


    ◇


 五月二十四日。

 部屋の壁と天井は、約百八十枚の付箋で埋め尽くされていた。

 最初にタスク管理用に貼り始めた付箋が、いつの間にか「死にたい」専用の付箋になっていたのである。

 一日平均四枚。

 それが積み重なって、百八十枚。

 壁だけでは足りなくて、天井にまで広がっていた。


 母は私の部屋に入らないようにしていた。プライバシーを尊重してくれていたのだ。でも時々、ドアの前で「香織、起きなさい」と声をかけてくる。そのたびに私は慌ててドアの隙間から出て、背中で部屋の中を隠した。

 「顔色、土気色だよ」と母は言った。

 「大丈夫」と私は答えた。

 大丈夫ではないのに、大丈夫と言う。それが私の習慣になっていた。


 体重は四十一キロまで落ちていた。四月一日の健康診断では四十八キロだったから、二か月で七キロ減ったことになる。でも誰も気づかない。というか、誰も気づく余裕がない。学校という職場は、「働けているあいだは大丈夫」と判断する装置なのだ。


    ◇


 五月二十八日、水曜日。午前十時三十二分。

 女性用更衣室に入った私は、鏡の前に立った。

 頬はこけ、目の下には濃いクマができている。肌の血の気は引いている。

 その瞬間、視界が揺れ始めた。

 足の裏の感覚がなくなった。床が遠ざかっていくような錯覚に襲われた。

 膝が笑った。

 バランスが取れなくなった。

 体が床に倒れる音が、部屋の中に響いた。


 そのあとのことは、ほとんど覚えていない。

 ストレッチャー。救急車。天井の白い光。「睡眠薬」「低体重」「脈は……」といった断片的な言葉。

 病院の処置室で目を開けると、母と父がいた。

 母の顔は真っ青で、目の縁が赤くなっていた。

 医師が淡々と説明した。「極度の疲労と栄養状態の悪化、それから睡眠薬の影響が重なって、限界の状態です」。

 「体重は四十一キロ。BMIは十五台。かなりの低体重です。心身ともに限界を超えておられます」。


    ◇


 私が病院に運ばれている間、母は私の部屋に入った。

 着替えを取りに行くためだった。

 そこで母は、言葉を失ったという。

 壁一面、いや天井の一部にまで、黄色い付箋がびっしりと貼られていたからだ。

 「駄目教師」「教師ガチャ大外れ」「人間失格」「やめちまえ」「社会のゴミ」「消えろ」「もう無理」「死にたい」。

 母はその場に立ち尽くした。

 押し入れを開けると、空き箱も含めて十数箱分の睡眠導入剤が詰め込まれていた。

 「ここまで追い詰められていたのに、私は気づけなかった」と母は言った。


    ◇


 そこから先の七日間、私の記憶はほとんどない。

 天井が波打って見えた。壁に虫が這っているように見えた。「水が飲みたい」と言葉にならなかった。

 母から聞いた話によると、私は「泣かないだけの赤ちゃん」だったという。

 ベッドの上で仰向けになり、天井をじっと見ている。突然「虫がいる」と言う。そこには何もいない。それでも「そこにいる」と言い張る。

 体は自分の意思とは別のリズムで動き、言語機能もほとんど働いていなかった。

 母は「壊れたと思った」と言った。「一生介護を覚悟した」と言った。


    ◇


 体の自由が少しずつ戻ってきたのは、六月に入ってからだった。

 ベッドから自力で起き上がれるようになり、トイレまで歩けるようになった。

 学校側との連絡は、主治医の診断書と人事担当からの文書でのやり取りに変わっていた。

 電話が直接かかってくることは、ほとんどなかった。

 病院のベッドの横に立った学校関係者は、一人もいなかった。

 花束も、差し入れもなかった。


 私はそれを「冷たい」とは思わなかった。

 むしろ、「ああ、そういうものなんだ」と納得していた。

 学校は、「誰かが倒れても回るように」設計されている。

 教員が一人欠ければ、非常勤講師や他の教員がコマを埋める。

 それは必要な仕組みだ。

 でも同時に、「誰が欠けても代わりが利く」という感覚を、大人たち自身にも植え付ける。


 ある日、ふと思った。

 「私がいなくても、学校は回る」。

 それは事実だった。

 私の代わりに授業をしている誰かがいて、新しい時間割が回り始めている。

 そのこと自体は、責められるべきことではない。

 でも、その事実に気づいた瞬間、別の言葉が続いた。

 「じゃあ、何のために私は『頑張って』いたんだろう」。


    ◇


 八十三日間。

 四月一日から五月二十八日まで。

 その間に、私の身体と心は、確実に壊れていった。


 障害者雇用促進法には「合理的配慮」が書かれている。

 段差にスロープをつけるように、働きやすい環境を整えるはずだった。

 でも現実には、そのスロープは用意されていなかった。

 「もし無理だったら言ってくださいね」という曖昧な言葉だけが、「配慮」の代わりに置かれていた。

 そして私は、「まだ言うほどではない」「これくらいで無理と言ったら迷惑だ」と自分を黙らせ続けた。


 結果として倒れたのは、私の身体だ。

 でも崩壊したのは、本当に私一人だけだったのだろうか。

 誰か一人の責任に還元できる話ではない。

 だからこそ、「構造」という言葉を持ち出さずにはいられない。


 あの日、更衣室の床に倒れたのは、私という個人であると同時に、「合理的配慮のない障害者雇用」というシステムそのものだったのかもしれない。

 もしそうだとしたら、あのとき倒れる音を、誰がどこまで聞き取れていたのだろう。


    ◇


 今、私はまだ休職中である。

 主治医の診断書には「休養が必要」と書かれている。

 いつ復帰できるのか、まだ分からない。

 というか、復帰するのかどうかも分からない。


 でも一つだけ言えることがある。

 私は、壁に貼った百八十枚の付箋を、全部はがした。

 母が手伝ってくれた。二人で、一枚一枚、ゆっくりと剥がしていった。

 壁紙には糊の跡が残っていて、少し傷ついている。

 でもそれは、「ここに何かがあった」という証拠でもある。

 母は言った。「壁紙、張り替える?」。

 私は首を振った。「このままでいい。忘れたくないから」。


 付箋を剥がしながら、母がぽつりと言った。

 「私ね、気づかなくてごめんね」。

 私は答えた。「気づいてたとしても、どうしようもなかったと思うよ。だって私も、どうしようもなかったもん」。

 母は少し笑って、「相変わらず変なこと言うね」と言った。

 変なことを言う娘で、ごめんなさい。でも、それが私なのである。


 教員を目指した理由は、「しんどい子の使う言葉が分かるかもしれない」と思ったからだった。

 それは今も、間違っていなかったと思う。

 ただ、私自身が「しんどい子」だったことに、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。

 いや、気づいていたのかもしれない。でも認めたくなかったのかもしれない。

 「大人なんだから」「先生なんだから」「パイオニアなんだから」。

 そうやって、自分に鞭を打ち続けていた。


 パイオニアになれと言われた。

 でも私は、パイオニアというより、実験動物だった気がする。

 それでも、この八十三日間は、無駄ではなかったと思いたい。

 なぜなら私の身体が示した「限界」は、次に来る誰かのための「データ」になるかもしれないからだ。

 「ああ、週二十コマは無理なんだな」とか、「『適宜よろしく』じゃダメなんだな」とか、「オエオエ言わせちゃダメなんだな」とか。

 そういうことが、少しでも伝わればいいなと思う。

 そう思わないと、やってられないのである。


 壁の付箋は全部はがしたけれど、私の心の中には、まだいくつかの言葉が残っている。

 「オエオエ言いながらでも学校に来ていた」。

 「教員の性質上、合理的配慮は困難」。

 「パイオニアになってください」。


 これらの言葉が、いつか、「昔はそんなこと言ってたんだね」と笑い話になる日が来るといいなと思う。

 そして、次に障がい者雇用で教員になる人が、私と同じ目に遭わないといいなと思う。

 次の人には、ちゃんとスロープが用意されていますように。

 次の人には、「適宜」じゃなくて「具体的に」説明してもらえますように。

 次の人には、「オエオエ言わなくていいよ」と言ってもらえますように。


 ちなみに、川島先生のことは、まだ少しだけ胸が痛い。

 でも仕方ないと思うことにした。

 先生にとって私は数百人の中の一人だったけど、私にとって先生は今でも大切な一人なのだから。

 それでいいのだと思う。


 父は相変わらず、あまり意見を口にしない。

 でも時々、「香織、無理すんなよ」と短く言ってくれる。

 その一言が、今はとても嬉しい。


 母は相変わらず、「一人で生きていくんだから、お金には困らないようにしておかないと」と言う。

 でもその言葉の裏側に、「生きててくれてありがとう」という気持ちが隠れているのを、私は知っている。

 不器用な母である。でも私も不器用な娘である。

 お似合いの親子なのである。


 とりあえず今は、ゆっくり休むことにする。

 オエオエ言わずに、ね。

 そして、いつかまた、「先生」と呼ばれる日が来るかどうかは分からないけれど。

 もし来たら、そのときは、もう少しうまくやれる気がする。

 少なくとも、壁に付箋を貼るのは、タスク管理だけにしておこうと思う。


【完】

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