あなたの人生の「平均」を保証します~元「志」筆頭書記官の代筆業~

@never1981land

第1話 『志』代筆業、あるいは人生のパスポート

「志(こころざし)とは何か。」

薄暗い裏通りの、鉄の扉の前。ユージン・クレールは、かつての上司の台詞を脳内で反芻した。

「かつて大賢者様は言った。『魂の叫びだ』と。俺も昔はそう思っていた。だが、聖省で三年働いて分かったことがある」

ユージンが営む店は、非常階段の奥まった場所にある。看板も、窓もない。鉄の扉には、かすかにチョークで「R-7」とだけ書かれている。彼の前職は、この国――アイギス連邦の「志制度」を司る聖省の筆頭書記官だった。制度の創始者である大賢者の演説原稿、若者の志の採点基準、審査官の研修資料。そのすべてに関わっていた。

「志とは、ただの『指定構文』だ。審査員という名の採点機に、好みのキーワードを放り込む。それだけの作業だ」

ユージンは椅子に深く腰を下ろし、卓上の分厚いマニュアルを閉じた。それは、今も聖省で使われている最新版だ。この国の人々は十五年間、志とは「人が生きていく上で、その魂を懸けるに値する崇高なもの」だと叩き込まれてきた。志を掲げられない者は、人間としての認可を失い、Eランク――最貧民へと落とされる。

「にもかかわらず、志を作れず最貧民になる馬鹿が後を絶たない。だから俺は、ここに店を出した」

今日の予約は一件だけだった。

その時、鉄扉が、風に揺れる紙片のようにかすかに開いた。

入ってきたのは、まだ十五になったばかりに見える少年だった。服は薄汚れているが、手入れはされている。志の申告に失敗すれば即座にEランクへ落とされる――十五歳の認可待ち。少年の瞳は、この路地裏には不釣り合いなほど澄んでいて、同時に怯えていた。

「あの……ここで、志を……作ってもらえるんでしょうか」

「そうだ。代筆業だ」

ユージンは端末を起動する。

「料金は前金で金貨三枚。成功報酬込みなら最大十枚。Cランク未満にはまず払えない額だ。帰れ」

これは追い返しではない。覚悟を量るための儀式だ。少年が出せるのは、せいぜい銀貨三枚――その程度だろう。

少年は言葉を詰まらせ、腰の布袋を震える手で開いた。

「……分かっています。でも、これしか……」

差し出されたのは、銀貨三枚。

「通ったら、必ず倍にして返します。働きます。どんな仕事でも」

必死な声音だった。大賢者の演説にはない、生々しい切実さ。

「俺の志は……『今の生活より、ほんの少しだけ上の、普通の暮らし』です。最貧民には、なりたくない。Eランクには……なりたくないんです」

ただの願望だ。この国では、志とは呼ばれない。

だが、ユージンは小さく頷いた。

「分かった。受ける」

吐き捨てるように言う。

「ただし、狙えるのはCランクまでだ。ワンランク上。それ以上は、この額じゃ無理だ」

少年は息を呑んだ。

「条件が二つある」

ユージンは身を乗り出す。

「一つ。店の存在も、代筆のことも、Cランク居住区に行っても一切口外しないこと」

冷たい目。その奥に、制度への嘲笑が滲んでいる。

「二つ目。自分の志を、無理に作ろうとするな。頭で考えて、大賢者様が喜びそうな理想を捏造するな。ただし――お前が自分の言葉で言えるなら、それは構わない」

「無理に……作らなくて、いいんですか?」

「ああ」

ユージンは椅子に深くもたれた。

「俺が書くのは大賢者様の言うような志じゃない。この世界で生き残るための、ただの通行証だ。必要なのは、お前が“今よりマシな暮らしをしたい”って思ってる熱量だけだ。それがあれば十分だ」

少年は、重圧から一歩解放されたような顔で頷いた。

「……わかりました」

ユージンは端末に向き直った。 画面には『志、代筆します。Bランクまで保証。金貨三枚から』という、この地区の住人には絶望的な一文が踊っている。

「魂の値段にしちゃあ、安いもんだろ?」

ユージンは、少年が差し出した銀貨三枚を、さも当然の報酬であるかのように手際よく数え、残りを布袋に戻した。本来の額には遠く及ばないが、今のこの少年から剥ぎ取れる限界の「熱量」であることは分かっている。

ユージンは新しいファイルを開き、少年に向き直った。ここからは、ビジネスの時間だ。

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「……それで。お前には何ができる?」

ユージンは椅子に深くもたれかかり、少年に問いかけた。

端末に表示された個人データは、簡潔だった。


――評価:平凡。


「自分、力もなくて……。現場でも、重い荷物を運ぶのはいつも最後で。……Dランクの連中の中でも、稼ぎは一番下です」

少年は言い終えると、自分の汚れた手のひらを見つめて俯いた。

この国でDランクやEランクに求められるのは、「丈夫な体」と「従順さ」だけだ。

考えることも、器用さも、余計なコストでしかない。

「力自慢に混じって単純労働でCランクに上がるのは無理だ」

ユージンは即座に切り捨てた。

「あそこは椅子取りゲームだ。……他に、何かないのか」

「取り柄、なんて……」

少年は戸惑いながら懐を探り、そっと何かを差し出した。

枯れかけた雑草を細い紐でまとめ、接ぎ木のように補強した、小さな細工。

「唯一、こまごまとした作業だけは……その、Dランクの平均よりは、できると思います」

言葉を探すように、少年は続けた。

「……休みの日は、裏山の植物を触っているのが、一番、落ち着くんです。この草も、こうしてやれば……また生き返るかもしれないから」

草を見る少年の目から、怯えが消えていた。

そこには、静かな執着に近い熱が宿っている。

ユージンの口角が、わずかに上がった。


「ほう……それだ」


少年が顔を上げる。

「その“こまごました作業”と“植物”。それでお前のパスポートを作る」

「え……草を触るのが、志になるんですか?」

「直球で書いたら、即ゴミ箱行きだ。」

ユージンは端末を叩く。

「だが翻訳すればいい。Dの仕事は“数”だが、Cの仕事は“管理”だ。屋敷も庭も、管理される資産だからな」

少年の目が見開かれる。

「枯れかけの草一本を治そうとする執念。それは、権力者の自尊心を満たす“技術”として通る」

ユージンは少年の目を真っ向から射抜いた。

「庭師を名乗れ。ただの土いじりじゃない。屋敷の価値を保つ、専門職だ」


「庭師……」


「運が良ければCだ。保証はしない。だからこそ現実的だ」


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Dランク地区を管轄する「市民行政局」のロビーは、古紙と乾いた汗、そして諦めの臭いが充満していた。


窓のないコンクリートの広間に、数百人の若者が押し込められている。義務教育を終え、最初の「志」を申告しに来た同世代だ。だが、聞こえてくる会話は小声ばかりだった。

「……どうせ、親父と同じ工場だ」

「Dランク維持なら御の字だろ。ヘマしなきゃいい」

誰も未来の話はしない。口に出るのは、工場の名前か、日銭の計算だけだ。

その淀んだ空気を、不意に裂く声があった。

「……嘘だろ」

次の瞬間、機械的な音声が冷たく響く。


『判定:不適格。Eランクへの降格を処分する』


衛兵に腕を掴まれた若者が、抵抗することもできずに引きずられていく。その姿を誰も直視しなかった。列に並ぶ者たちは、祈るように俯き、自分の番が一秒でも遅れることを願った。


少年は、列の最後尾で懐のスクロールを握りしめていた。手汗で紙が滲まないよう、布で何重にも包んである。あの薄暗い裏通りの店で、銀貨三枚と引き換えに手に入れたものだ。


(……大丈夫なはずだ。あの人は、プロだと言っていた)


自分に言い聞かせるように、少年は息を整えた。それでも心臓の鼓動は、耳元で警鐘のように鳴り続けている。

三時間後。ようやく順番が回ってきた。

受付のブースには、鉄格子越しに役人が座っていた。目の下には濃い隈。書類から視線を上げることすらしない。

「次。IDと志を」

感情のない声だった。今日だけで、何百、何千という志を処理してきたのだろう。

「……はい」

少年はIDプレートを差し出し、布包みを解いた。現れたのは、上質な羊皮紙ではない、安物のスクロールだ。役人は一瞥しただけで、顎をしゃくる。

「水晶にかざせ。読み上げは不要だ」

カウンターに埋め込まれた、拳大の透明な水晶。聖省のホストコンピューターに直結した採点機だ。

少年は息を止め、スクロールを広げた。


『私の志は……』


そこから先は、少年自身も意味を半分も理解していない文章だった。水晶の上を、文字が滑っていく。

ブゥン、と低い音が鳴る。

数秒。あるいは、永遠。

水晶が、見慣れない色に染まった。黄色でも、赤でもない。

役人が初めて顔を上げた。そのわずかな動きに、少年の喉が鳴る。

『判定完了。適合職種:造園技能士』

『推奨ランク:C』

『中流市民権の付与を承認します』

碧。

鮮烈なその光が、ブースの中を満たした。

背後から、どよめきが広がる。

「……今、Cって言ったか?」

「ここからか?」

少年は膝が崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。頭の奥に、裏通りの暗がりが一瞬だけ浮かぶ。


——通る文章だ。あとは機械が仕事をする。


あの男の声。

役人は無言で、緑色のプレートをカウンターに置いた。Cランクを示す新しい身分証だ。

「……運がいいな。出口は右だ」

「……ありがとう、ございました」

少年はプレートと、役目を終えたスクロールを胸に抱きしめ、歩き出した。

足取りはまだ覚束ない。それでも、入ってきた時とは違う重みが、確かにそこにあった。

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石畳の向こうに、整えられた庭があった。

低い生け垣、均された土、剪定された若木。どれも派手ではないが、手が入っていると一目で分かる。

ユージンは足を止めた。

庭の奥で、一人の少年が動いていた。

腰を落とし、親方の指示に短く返事をしながら、剪定鋏を迷いなく入れていく。動きは速くないが、無駄がなかった。切り落とした枝を拾い、土をならし、次の作業へ移る。その一連が、途切れない。

「そっち、切りすぎるな」

低い声が飛ぶ。

「はい」

少年は即座に応え、手元を修正した。

叱責ではない。指導だ。信頼のあるやり取りだった。

——悪くない手つきだ。

ユージンは、それだけを思った。

名も、顔も、記憶には引っかからない。ただ、評価だけが残る。

その瞬間、少年の動きが、ほんの一拍だけ乱れた。

鋏が止まり、視線がわずかにこちらへ流れる。

目が合うことはなかった。それでも、少年は確かに気づいていた。

次の瞬間には、何事もなかったように作業が再開される。

近寄らない。反応しない。約束を守る動きだった。

「おい、次はこっちだ」

「はい!」

親方の声に、少年は駆け出した。

走りながら、一度も振り返らない。

庭に残ったのは、整えられた土と、切り揃えられた枝だけだった。

ユージンは、ゆっくりと歩き出す。

誰かを救った実感はない。世界も、制度も、何一つ変わっていない。

それでも、今日もまた——

一枚のパスポートが、確かに役目を果たしていた。


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