ATMに寿命が表示されたので、いい人をやめてみた~他人に尽くすほど命が削られる世界で、私は自分を取り戻す~

ソコニ

1話完結 未知の残高 ~いい人をやめたら、寿命が増えました~


1

コンビニのATMの前で、私は固まっていた。


画面に表示されているのは、見慣れた銀行のロゴでも残高でもない。青白く光る文字が、まるで私の心臓を透視するように脈打っていた。


【徳(Virtue)残高:288時間(12日間)】


「何これ……」


震える指でタッチパネルを操作すると、通帳記帳のボタンが点滅した。押してみる。プリンターから吐き出された明細書には、見覚えのない取引履歴がびっしりと並んでいた。


11/15 23:45 佐藤修正依頼対応 -48時間

11/18 14:20 リカ立替支払 -12時間

11/20 19:30 母親送金 -72時間

11/22 03:00 深夜緊急対応 -96時間

マイナスばかりだ。そして最後に、今日の日付。


11/25 22:10 現在残高 288時間

私の名前は藤崎メイ。35歳、フリーランスのグラフィックデザイナー。


そして、あと12日で死ぬらしい。


明細書を見つめていると、指先がじんわりと冷たくなった。いや、冷たいだけじゃない。透けている。まるで薄い和紙のように、向こう側のコンビニの床が透けて見える。


私は慌てて手を握りしめた。実体はある。でも、確かに今、消えかけた。


2

三日前、私は本気で死のうと思っていた。


6畳一間のアパート。床には未払いの請求書が散乱し、冷蔵庫には賞味期限切れの納豆しかない。通帳残高は3,847円。明日の家賃は払えない。


スマホには27件の未読メッセージ。全部、私に何かを要求する内容だ。


佐藤(代理店): 明日朝イチで確認したいから、今夜中に修正よろしく

リカ: メイちゃん!結婚式の招待状のデザイン、親友価格でお願い♡

母: 弟の予備校代、今月だけ追加で5万円援助してくれない?

全部、無償だ。あるいは、「後で払う」という約束のまま、永遠に後回しにされる仕事だ。


「NO」が言えない。それが私の致命的な欠陥だった。


断ったら嫌われる。嫌われたら仕事が来なくなる。仕事が来なくなったら、もっと困窮する。そんな恐怖が、私の喉に鎖をかけていた。


だから、私は「いい人」を演じ続けた。


そして、壊れた。


3

ATMの画面が、また点滅した。


【警告:残高288時間を切りました】 【偽りの善意は自己への虐待とみなされ、徳を削ります】 【心からの自己決定、理不尽への拒絶は残高を増やします】


「……何のジョークだよ」


笑おうとしたが、喉が引きつった。でも、不思議と怖くはなかった。


あと12日で死ぬ。


なら、最後くらい、自分のために生きてみてもいいんじゃないか。


私は、スマホを取り出した。そして、未読の27件すべてを既読にした。


返信は、しない。


その瞬間、胸の奥で何かが弾けたような感覚があった。息が、少しだけ楽になった。


4

翌朝。午前9時。


代理店の佐藤から、予想通りのメッセージが届いた。


佐藤: メイさん、昨日の修正まだ? クライアント待たせてるんだけど

私は深呼吸をして、返信した。


メイ: 佐藤さん、昨夜の依頼は契約範囲外です。追加料金15万円を先払いでお願いします。

送信ボタンを押した瞬間、全身に電流が走ったような感覚があった。指先を見る。さっきまであった透明感が、少し薄れている気がした。


30秒後。


佐藤: は? 何言ってんの? これくらいプロならすぐできるでしょ?

私の指は、もう震えていなかった。


メイ: 佐藤さん、勘違いしないでください。私がすぐできるのは、10年間、数千万円の自己投資と時間をかけてスキルを磨いてきたからです。私の技術は、あなたの無能を埋めるボランティアではありません。追加発注書を今すぐ送ってください。できないなら、このプロジェクトから降ります。

送信。


5秒後、佐藤から着信。私は、電源を切った。


その瞬間、ポケットの中で別の振動があった。財布に入れていた謎の通帳が、淡く光っている。


コンビニに走り込み、ATMに通帳を挿入した。


カタカタカタ、と記帳音が響く。その音が、自分の心臓の鼓動と重なって聞こえた。


【自己防衛成功:+120時間】 【現在残高:408時間(17日間)】


増えた。


寿命が、増えた。


画面の中の数字を見つめていると、涙が溢れた。嬉しいんじゃない。悔しいんだ。


私は、こんな簡単なことが、できなかった。


「NO」と言うだけで、命が伸びるなんて。


5

その日の午後、私はリカと会う約束をしていた。


「メイちゃん!」


カフェで、リカは相変わらずキラキラした笑顔で手を振っていた。32歳、自称インフルエンサー。フォロワーは12,000人。そのうち11,500人は買ったものだと、私は知っている。


「ごめんね、待った?」


「ううん、今来たところ」


嘘だ。30分待っていた。リカはいつも遅刻する。


「あのね、結婚式の招待状のデザインなんだけど」リカはスマホを私に向けた。「こんな感じで、でもここをもっとゴージャスにして、文字はこのフォントで、あ、イラストも入れて。締め切りは来週ね」


私は、カップに口をつけた。コーヒーは冷めていた。


「リカ」


「うん?」


「私、もうやらない」


リカの笑顔が、一瞬止まった。


「え、何? メイちゃん、親友でしょ?」


「リカ」私は、彼女の目を真っ直ぐ見た。「私たちが親友だったことは、一度もないよ」


「な、何言って──」


「あなたは私を、自分の背景にちょうどいい、喋る便利な道具だと思ってただけでしょ」


私はスマホを操作して、一つのPDFファイルをリカに送信した。


「今まで立て替えたお金の明細。全部で38万円。1週間以内に振り込んで」


リカの顔が、見る見る青ざめていく。


「メイちゃん、ちょっと待って、私だってお金ないし──」


「返信はいらない。今、ブロックしたから」


私は席を立った。リカが何か叫んでいたが、聞こえなかった。


店を出て、数歩歩いたところで、背後からリカの声が聞こえた。


「メイって最低! みんなにも言いふらすから!」


私は振り返らなかった。


その時、通帳がまた光った。


【悪縁の断捨離:+300時間】 【現在残高:708時間(29.5日間)】


空が、こんなに青かったなんて、忘れていた。


呼吸が、こんなに深くできたなんて、知らなかった。


6

その夜、スマホが鳴った。リカからではない。リカと共通の友人、ユキだ。


「もしもし、メイ?」


「……うん」


「リカから聞いた。あのね、メイ」


来た。責められる。きっと、私が冷たいって言われる。


「よく言ったね」


「……え?」


「私たちも、正直もうリカには疲れてたんだ。いつも遅刻するし、お金は返さないし、写真撮る時だけ笑顔になるし」ユキは、小さく笑った。「メイが我慢してくれてたから、私たちも見て見ぬふりしてた。ごめん」


電話を切った後、私はしばらく動けなかった。


怖がっていたのは、私だけだったのかもしれない。


7

最後の関門は、家族だった。


その翌日、母から電話がかかってきた。


「メイ? あのね、実家のキッチン、そろそろリフォームしないといけなくて。あんた、長女なんだし、少しは出せるでしょう? 50万くらい」


電話を取った瞬間、指先がまた透け始めた。心臓が、ドクン、ドクンと重く鳴る。


「お母さん」


「何?」


私は、ベッドに座ったまま答えた。


「私はもう、あなたの動く保険金じゃない」


「……何ですって?」


「私が今まで送ったお金は、お母さんを助けるためじゃなく、お母さんに嫌われないための身代金だった」


電話口から、母の息を呑む音が聞こえた。


「メイ、あんた、親に向かって──」


「でも、もうその支払いは止める」私の声は震えていた。でも、止まらなかった。「私は私の人生を生きるから、お母さんも自分の人生を自分の足で歩いて」


「あんた、後悔するわよ。親に逆らった子は──」


私は、通話終了ボタンを押した。


震える手で、スマホを床に置いた。涙が溢れた。悲しみじゃない。これは、解放の涙だった。


通帳が、これまでで最も強く光った。光が部屋中に溢れ、グレーだった壁が、淡いクリーム色に見えた。


【呪縛からの解放:+1,000時間】 【現在残高:1,708時間(71.1日間)】


そして、画面の表示が変わった。


【閾値到達】 【真の自己との統合を確認】 【残高表示を変更します】


数字が、ぐるぐると回転し始めた。そして、止まった。


【残高:∞(測定不能)】


8

それから、一週間。


佐藤の会社の後輩から、メッセージが届いた。


すみません、メイさん。佐藤が担当していた案件が炎上しました。

代わりのデザイナーが見つからず、クライアントの前で土下座していました。

佐藤は先週、退職したそうです。

もしメイさんがまだフリーなら、正式に契約を結びたいとクライアントが言っています。

私は、そのメッセージに返信した。


ご連絡ありがとうございます。

料金表と契約書を送ります。ご確認ください。

リカのSNSアカウントは、消えていた。共通の友人たちも、誰も彼女について話さなくなった。


母からは、何の連絡もない。


9

三ヶ月後。


私は、海の見える小さな町のアトリエにいた。


壁には、私が本当に描きたかった絵が並んでいる。誰にも頼まれていない、誰の期待にも応えていない、ただ私が描きたいから描いた絵。


通帳は、もうATMに反応しない。ただの古い紙切れになっている。


でも、私は知っている。


あの通帳が教えてくれたことを。


本当の残高は、他人に好かれた回数じゃない。


自分を大切に扱えた回数だ。


窓の外で、カモメが鳴いている。


私は、新しいキャンバスに向かった。


今日も、私の時間は無限だ。


エピローグ

深夜23時。


都内のコンビニ。ATMの前に、一人の女性が立っている。


彼女の目の下には深いクマがあり、肩は疲労で丸まっている。


「お金、下ろせるかな……」


彼女がカードを挿入すると、画面が青白く光った。


【徳(Virtue)残高:96時間(4日間)】


「……え?」


彼女は、震える手で通帳記帳のボタンを押した。


プリンターから、カタカタと音を立てて明細書が出てくる。


その音は、心臓の鼓動のようだった。


【次のお客様、どうぞ】


画面の中で、文字が優しく点滅している。


――いい人を、やめてもいいんだよ。


【完】


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ATMに寿命が表示されたので、いい人をやめてみた~他人に尽くすほど命が削られる世界で、私は自分を取り戻す~ ソコニ @mi33x

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