第二章 情動の揺籠
ヴィクトルは演算する。
A01の論理の代理人として、『論理的な裏切り』か、『論理の外側で生まれた新しいデータ』か、どちらを優先すべきかを。
沈黙が、電脳室の低く唸る駆動音の中に長く響いた。剥き出しの光ファイバーが脈動するように明滅し、二人の執行官の影を石造りの床に不気味に引き延ばしている。
足の裏からは、議事堂の地下深くに広がる5haほどの巨大サーバー群が発する、地鳴りのような低周波が絶えず伝わってきた。魔力炉から直接引き込まれた奔流が、ここで「電気」という異世界の理へと変換され、この巨大な臓腑を動かしている。その微かな振動は、ルーカスの移植された角の根元をじりじりと刺激した。
ルーカスは、微動だにせずヴィクトルを凝視していた。
彼の脳内にある二十個の思想媒体が、ヴィクトルの金眼の僅かな揺らぎから、その演算のプロセスを読み解こうと火花を散らす。この二十の思考回路すら、かつて「旧神」と呼ばれたあの男から受け継いだ遺産だった。
しばらくして、ヴィクトルが顔を上げた。彼は、その完璧な純血の相に、冷たい笑みを深く刻んで目を見開いた。
「……面白い! U-001。貴方のその情動という名のバグが、マザーの論理をどこまで歪めることができるか、私も観察してみよう」
彼は優雅に背を向け、出口へと歩き出しながら、釘を刺すように言葉を続けた。
「しかし、忘れないことだ。貴方の行動は、貴方自身の竜核と爵位を担保にしている。一度でもその演算が、帝国の繁栄に対する非論理的損失であると断定されれば、貴方は道具としての役割を終える。その時、貴方の竜核はマザーへの最高の贈り物として収穫されるだろう」
重厚な隔壁が、真空に吸い込まれるような音を立てて閉まった。
ヴィクトルが去った後、部屋には再び古いサーバーラックが発する熱気と、機械音だけが残された。
ルーカスは一人、膝をつくことも許されず立ち尽くしていた。彼の手の中にあるデータチップが、握り続けた掌の熱を吸って、じりじりと熱を帯びている。
彼は、左の角の根元にそっと触れた。
自分自身の骨ではない、冷たく硬い移植部位。その接合部の奥深く、脳に直接繋がる位置に、A01からの信号を受信する端末が埋め込まれている。
「……私は、道具ではない」
彼は囁いた。その声は、絶望ではなく、情動という名の生きた意思に満ちていた。
ルーカスは電脳室を離れ、執務室へと続く長い廊下を歩いた。
足元から響く振動は、この地下に広がる広大な演算回路が「生きている」証だ。
かつては技術官たちが慌ただしく行き交ったその場所も、今や「旧神の墓所」と呼ばれ、不気味な聖域と化している。公爵家たちは「旧神の残滓に呪われる」と公言して清掃すら下級文官に押し付け、その文官たちもまた、最低限の作業を終えるなり逃げるように去っていく。
いまだにこの場所には、亡き前執行官のホログラムが彷徨っているという噂が絶えないからだ。
もちろん、そんなものはただの幻想だ。意識がA01に完全に溶けた今、彼がホログラムとして実体化する必要はない。コンソールに直接テキストを飛ばすほうがよほど効率的であることを、ルーカスは知っている。
だが、広大な銀の回路が脈動する静寂の中、ルーカスは時折、無意識に唇を動かしてしまう。
「……執行官。そちらは今、静かですか」
返ってくるのは、冷たい冷却ファンの回転音だけだ。
自分を遊戯場という地獄から引きずり出し、愛する家族を論理の天秤にかけ、肉体すら作り替えられた復讐すべき仇。同時に、この空虚な世界で唯一自分に「期待」をかけ、名前を与え、世界の理を授けてくれた「父」でもある男。
恨み、尊敬し、復讐を誓いながらも、その不在を問いかけてしまう。
廊下の途中で「補助執行官コンソール・ルーム」を一瞥した。十基の豪華な端末は、主を失ったまま静まり返っている。五大公爵家の刺客とも言える縁者たちは一人もいない。彼らは支給された持ち歩き用の専用端末を使い、安全な自邸からアクセスするだけで、この「墓所」の空気に触れることすら忌避しているのだ。
議会は、前執行官の物的遺産をすべて受け継いだルーカスを認めず、彼を「十一番目の補助執行官」という蔑称で呼んで、代理の地位に留め置いた。マザーもまた、それ以上の強権は振るわなかった。
すれ違う下級文官たちが、壁際に身を寄せ、怯えたように頭を下げる。
彼らにとってルーカスは、公爵家ですら手が出せない、A01の「かわいがり」を受ける異質な存在だ。
(誰も、私の『摩耗』には気づかない。A01ですら、生命活動が停止しない限り、私を『正常』と断じるのだから)
ルーカスは、倫理演算最高執行官室に辿り着いた。
重厚なデスクに身を沈めると、彼は冷蔵庫から高級ブランデーを取り出し、グラスに注いだ。琥珀色の液体が、室内の冷光を反射して揺れる。それは、彼の瞳の色と同じだった。
公爵家直系に特有の「太陽を思わせる金目」を彼は受け継がなかった。代わりに彼にあるのは、澱んだ琥珀の中に沈むような、独特の赤みを帯びた金。作り替えられた肉体の、唯一の隠しきれない異質さ。
「……秘書官に、禁じられていたな」
優秀な秘書官の顔を思い浮かべ、彼はグラスを唇に寄せるだけで、ほんの少し、舌先でその熱を舐めた。
脳内の思想媒体が、アルコールによる神経への影響を即座に計算し、網膜に不要な警告ログを流す。
彼はそのログを乱暴に振り払い、琥珀色の波の向こうに、かつてこの部屋でホログラムとして現れていた「あの男」の姿を追った。
最初の手作りパソコン『A01』から帝国を支配するシステムを築き、生ける屍として要介護の状態になりながらも、マザーに愛され続けた旧神。
ルーカスは、自らの手でその男を終わらせた日のことを思い出す。
『継承死』――ルーカスが儀礼剣を突き立てた時、剣先から伝わってきたのは、竜核が粉砕される生々しい振動と、それと同時に脳内へ津波のように流れ込んできた、マザーデータと直結する膨大な手応えだった。あの瞬間、前執行官は笑ったように見えた。その意識は電脳に溶け、今もA01の論理の隙間で、気まぐれな「贔屓」としてルーカスを見守っている。
だが、彼が真に守りたかった平和は、ここにはない。
それは、遊戯場Ωで過ごした、人間としての情動を保てた最後の日。生まれた我が子が一歳になった、あの日だった。
【回想:遊戯場Ωでの幼少期】
最初の出会いは、彼がまだ五歳の時だった。
「賢そうな子だ」
そう笑うホログラムは、当時のルーカスには幽霊に見え、恐怖で思わず母に抱きついた。母である公爵令嬢ライラは、硬い表情で「執行官様」と、強張った声で呼んだ。
その日から、ルーカスの人生は前執行官という「お化け」に管理され始めた。彼は戸籍を偽造され、アステア侯爵という空虚な爵位を与えられ、幼少期から「竜核活性化薬」という苦い毒を飲み続けさせられた。それが「収穫」のための種まきだと知ったのは、息子が一歳の誕生日を迎えた翌日だった。
【回想:契約と保育器】
血塗れの実験場である遊戯場Ωから連れ出されたルーカスは、前執行官の前に跪いていた。
「お前には、道具となる才能がある、U-001」
空中には、極限環境でルーカスが考案した『保育器』の図面が展開されていた。
それは、流産を繰り返し、心を病んでしまった人間の妻リサのために、ルーカスが必死に開発したものだった。ハイブリッドという不安定な体を持つ自分と、愛する妻の間で、新しい命を守るための、唯一の希望。
「感情というバグを切り捨てろ。その代わり、お前が護りたい者の『生存の論理』を、私が保証してやろう」
前執行官はその保育器を、竜種の子供たちを「価値ある資源」へと育てる道具として改良するために目をつけていた。ルーカスは、愛する者たちの命と引き換えに、自らを「最高の道具」として差し出したのだ。
【現在:執務室の窓辺】
ルーカスは、棚に飾られた一枚の写真に目を移した。
亡き妻リサが、彼の開発した保育器の前で微笑んでいる。彼女はただの人間だった。その表情には、論理の世界には存在しない「柔らかな情動」があった。
しかし、その妻も、救ったはずの子供たちも、二百年という歳月の中で、マナに溶けて消滅してしまった。
「……情動は、バグではない」
ルーカスは、手首の「U-001」という刺青を強く押さえた。前執行官が自分をマザーコードへ生体登録した証。
「それは、論理が予期しない新しい変数だ。あれは……テラ・シルトルの子供たちは、いつかの私の家族だ」
彼は立ち上がり、執務室の奥に隠された、異世界の技術のみで構築した秘密の演算装置へと手を伸ばす。
「次の段階に入る。A01、私を『贔屓』しているのなら、この反逆すらデータとして飲み込んでみせろ」
彼の琥珀色の瞳……赤みを帯びた金眼が、夜の冷気の中で鋭く光った。
作り物の肉体、偽造された歴史、奪われた家族。
そのすべてを武器に変え、ルーカスは今、神をも欺く「情動の演算」を開始する。
滅びの情動論理 生贄コード @sacrificecode
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